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Archiscape


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by S.K.

映画『最初の人間』をみる

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イタリア人映画監督、ジャンニ・アメリオの映画『最初の人間』を観た。2012年、岩波ホールで公開された映画だけあり、名画であった。

原作は、カミュの同名最期の小説である。自動車事故で亡くなったカミュの鞄の中から原稿が発見されたという小説であり、その不完全さから出版の是非が多くの知人、近親者によって議論されたあげく、出版にこぎつけた小説だという。わたしは、この小説を読んではいないが、カミュの自伝的小説であるだけに、興味をもった。

カミュの貧しい少年時代と現在(1957年当時)が折り重ねられて描写された映画であり、大きなクライマックスのようなものもなく、淡々と映画が進行していく。少年時代、カミュの同居人には、文字を読める家族がいなかった。母親は病院に勤務していたが、文字が読めなかったため、看護師になることもできなかった。しかし、カミュは友人たちには看護師である、と告げていたらしい。(映画の中での話)

撮影はアルジェで実際に行われた?ようで、アルジェのカズバ(メディナ、旧市街)が登場し、その入り組んだ街路の延長上に地中海がかすかに望まれていた。アルジェリア側から望む地中海は、日本で言えば日本海側と重なり、同じ地中海でも、ヨーロッパ側からの開放性は感じられない。むしろ、理性的な海を感じる。わたしがアルジェの街を歩いたのは、1985年のことだが、映画の中のアルジェの光景は、全く変化がないようであった。

カミュは、彼の才能を察知した小学校時代の恩師ルイ・ジェルマンによって、奨学金の制度を使い、学業を続けられることになった。生まれてすぐに父を失ったカミュは、この教師を第2の父として尊敬し、映画の中にも描かれている。ノーベル賞を受賞した翌日、ルイ宛に手紙を書いており、その手紙は、小説『最初の人間』の中に補遺として収録されている。

最後に、この映画音楽を担当したフランコ・ピエルサンティの音楽が、当時のアルジェリアの状況やアルジェリア側から望む地中海の様相(わたし個人の勝手な主観であるが)を巧みに表現していることに好感がもてた。

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# by kurarc | 2016-08-28 10:56

Chanson de L'adieu

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"Chanson de L'adieu"は、ショパンの「別れの曲」と呼ばれる名曲の日本名である。この曲の導入部のメロディーをトランペットの練習曲として活用したいと思っている。

低音からはじまり、高音まで幅の広い音域の練習と、スラー、リップスラーの練習には最適の曲である。わたしがもっていたトランペットの楽曲集にたまたま楽譜が掲載されていたこともあるが、原曲の音域のままトランペットで吹くことができるようにアレンジされている。

フランス語で、「L'adieu」(「ラディュ」の音に近い)が使われているように、この別れは、永遠の別れを意味すると考えてよいだろう。ショパンに即して考えれば、それは祖国ポーランドとの別れということになろうか。「L'adieu」はポルトガル語では、「Adeus」であり、「神のご加護がありますように」といった意味を含んだ「さようなら」になる。ショパンは、この曲を「別れ」をテーマに作曲したということではない、ということは念のため押さえておかなければならない。

この曲を日本で「別れの曲」という言い方に定めたのは、1935年に日本で公開されたドイツ映画であったという。(但し、日本ではフランス語バージョンが公開されたという)ショパンの生涯をテーマとした映画が「別れの曲」というタイトルであったことから、日本でこの曲をこのように命名するようになったらしい。(wikipediaより)このドイツ映画、観ることが可能であるのなら、是非観てみたいものである。(映画は、ショパン生誕200年の年、DVDが発売されたとのこと。)

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# by kurarc | 2016-08-26 23:39 | trumpet

子供用の椅子

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子供用の椅子のデザインを考えている。子供用といっても、小学校へあがる前の3〜5歳の子供用椅子である。

小学生の頃使用していた椅子(上写真のような椅子)は今でも強く印象に残っているが、重くてごつい椅子であった。一点だけよかったのは、それが無垢の材料でつくられていたことくらいで、多くの生徒はクッションを持参して、お尻の痛さをしのいでいた。

現在は、合板とスチールパイプでつくられた椅子を大半の学校が採用していると思うが、この椅子も長時間座ることに耐えられるようなデザインではない。以前もこうした椅子についてこのブログで書いたと思うが、こうした椅子で机に向かって勉強しろ、というのは拷問に近い。

一方、デザイナーたちは、今まで子供用の椅子を真剣に考えたものはごく少数のように思われる。椅子の作品集をみても、大人の椅子ばかりであり、子供用の椅子で名作といわれるようなものは思い浮かばない。商品化すれば、保育園ほか多くの需要があると思うが、こうした備品に多くの経費をかけられるような保育園も皆無に近いのだろう。

子供用の椅子を考えるにあたり、まず驚くのは、そのスケール感である。座高はおよそ200mm。大人用椅子のおよそ1/2であり、このスケール感をつかむのには苦労する。日常的に、大人たちのスケールでものを見ている証拠であり、反省すべき点が多い。世の中のすべてのものは、通常、大人たちのスケール、ものの考え方でつくられている。そうした視点を転換する上においても、子供用の椅子を考えることは役に立つ。

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# by kurarc | 2016-08-24 14:32 | design

久我山から人見街道、連雀通り、さくら通りへ

今日は仕事帰り、渋谷から井の頭線で久我山で下車。久我山から三鷹駅南口行きバスに乗り、帰宅した。もちろん、通常は吉祥寺まで井の頭線、その後中央線に乗り換えて三鷹駅まで行く。たまに、井の頭線で帰宅するときには、久我山で降りたくなることがある。久我山から三鷹駅南口行きのバス便があるためである。

久我山から三鷹までは、人見街道、連雀通り、さくら通りを経て、自宅近くのバス停で下車する。この街道、通り沿いは、わたしが中学時代によくでかけたエリアであり、途中、母校の中学校の前を通過、自宅近くも通過し、現在の住まいへとつながって行く

人見街道は、杉並の大宮八幡宮と府中をつなぐ街道であり、バスに乗っていても古い街道であることはわかるが、整った街道ではない。しかし、中学時代によくこの付近を自転車で通り、友人の家へ遊びにいったりしているので、懐かしい記憶がある。また、環状八号線を使い車で帰宅するときには、この人見街道を下って帰っていたこともあり、見慣れた街道でもある。

この街道を初めて車で通過しても、なにも感じないような地味な道だとは思うが、記憶というのは興味深いものである。この街道をバスの中から眺めていると、40年以上前の記憶が甦って、当時の光景が浮かんでくる。つまり、人は、誰一人として同じ場所を見ても、同じ光景を見てはいない、ということなのである。

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# by kurarc | 2016-08-23 23:26 | 三鷹-Mitaka

映画『イマジン』再見

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ポーランド人の映画監督、アンジェイ・ヤキモフスキの『イマジン』を再見。およそ、2年前に観た映画だが、TSUTAYAでDVDがレンタル開始されたこともあり、手に取った。

この映画は、リスボンを舞台とし、視覚障害者の世界を描いた映画である。再度2年前と同じように感じたのは、リスボンという都市のランドスケープやテクスチャーを背景に、巧みな演出がなされているということである。

アズレージョと呼ばれるタイル、カルサーダ(シュ)と呼ばれる敷石の街路、動物たちの奏でる音、そして、この映画の主題となる都市のサウンドスケープが映画の中でさりげなく表現に取り込まれている。そして、今回新たに気づかされたのは、わざわざ英語とポルトガル語という2重の言語を台詞に含ませることで、言語の音感、ニュアンスの違いまで表現に取り入れているということである。この映画でわかることだが、ポルトガル語は英語に比較して、発音がしなやかであるということ。そうした言語のニュアンスの違いを、「視覚のない思考」、「音」を主題とした映画の中で利用しているのである。

ヤキモフスキは、1990年代後半にリスボンを訪れ、この映画の構想(港が近くにありながら、そのことを感じさせない都市景観があること)を思いついたということだが、そのときには、都市景観の特徴だけでなく、重合した都市のテクストのようなものを同時に感じとったに違いない。さらに、ヴェンダースの映画『リスボン・ストーリー』も音を副題にしていたので、ヤキモフスキにヒントを与えたのかもしれない。

この映画は、リスボンを舞台にした名画として、『過去をもつ愛情』、『白い町で』、『リスボン・ストーリー』などの映画と共に確実に映画史に刻まれると言ってよいだろう。

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# by kurarc | 2016-08-21 21:32 | cinema

100分de名著 サルトル 実存主義とはなにか

このところ、フランス文化を学んでいる。20世紀のフランスといえば、やはり、サルトルは外せないだろう。サルトルの著作をまじめに読んだことはないが、まずは、実存主義についての理解のため、NHKのテレビテキスト、『100分de名著 サルトル 実存主義とはなにか』(海老坂武著)を読んだ。

この小著は、タイトルの通り、実存主義についての概要を把握するのに役に立ったが、それ以上に興味をひいたのは、サルトルの生涯である。わたしがイメージしていた哲学者の生き方とは異なり、やはり普通ではなかった。

斜視という身体的な欠陥があったにもかかわらず、サルトルの生涯はそうした負の側面が全く感じられない。むしろ、負の側面を、どのように反転させるかを考え続けている。ボーヴォワールとの契約結婚では、お互いの自由を貫いている。お互い愛人をつくりながらも、サルトルは激しい嫉妬はしていない、という。ボーヴォワールに関しても、わたしのイメージは覆された。彼女はバイセクシャルであったのだという。

こうした生々しい人間関係の中においても、サルトルは哲学すること、小説という創作を怠ることはなかった。なにかを所有することを嫌い、稼いだお金は使い果たし、晩年にはお金に苦労し、出版社に前借りまでしていたらしい。

哲学者とは、机の上で頭を抱え込んで思索するような人間ではなく、人間という実存についての可能性を突き詰め、行動していく人間のことを哲学者というのだろう。フランス語の感覚が少し身に付いてきたこともあるが、サルトルのキーワード、アンガジュマンといった用語もすんなりと理解できるようになった。

今、サルトルから何を学ぶのか。まずは、サルトルの言う、「人間は自由の刑に処せられている」という考えを考え抜いた先達の思索を一つ一つ噛みしめてみることであろう。

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# by kurarc | 2016-08-21 00:27

イタリア人トランペット奏者 パオロ・フレスが聴ける

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イタリア文化会館からメールマガジンを受け取っている。様々なイベントの紹介を月1〜2回程度知らせてくれる。このところ、時間があればこうしたイベントに参加している。

先日、このブログで紹介したレオナルド・ダ・ヴィンチに関する講演会もそのイベントの一つであった。今回は、イタリアのトランペット奏者パオロ・フレスほかのコンサートの紹介がメールされた。現在、最も興味のあるトランペット奏者であり、さらに、こうしたコンサートが無料で参加できることもありがたい。

今年は、イタリアとの国交150周年ということもあるのかもしれないが、来日するメンバーの選定がよい。このイベントで聴いたイタリアのトランペット奏者ファブリッツィオ・ボッソに続き、パオロ・フレスの演奏を是非楽しみたいと思っている。

*以下に、イタリア文化会館のHPに紹介された奏者のプロフィールを紹介しておく。

プロフィール

パオロ・フレス Paolo Fresu トランペット

世界的に髙い評価を受けているイタリア人ミュージシャン。年200回以上のコンサートを開き、数多くのCDをリリースしている。手がけるジャンルは民族音楽や軽音楽からバロックまでで、著名なミュージシャンと共演し、ジャズやクラシック(RAI国立交響楽団など)のオーケストラからソリストとして招かれるなど、活動の幅は非常に広い。

フレスは11歳のとき生地のサルデーニャ島ベルキッダの楽団でトランペットを始める。サッサリ音楽院で学んだあと、カリアリ音楽院を修了する。その間にプロ活動を開始したことがきっかけで、1980年代初めにジャズの世界に入る。その時期ブルーノ・トンマーゾの指導のもとRAI でスタジオ録音をし、シエナのジャズセミナーに参加するなど評価されるようになる。1988年にはベルキッダにフェスティバル‟タイム・イン・ジャズ“を創設した。同フェスティバルは2015年に28回を迎え、ヨーロッパの主要なジャズイベントの一つとなっている。その他ヌオロのジャズセミナーの芸術監督と講師でもあり、ベルガモ国際フェスティバルでは監督を務めた。さらにダンサー、画家、彫刻家、詩人、ドキュメンタリーやビデオの監督等と組んでマルチメディアの企画とコーディネートをしている。2010年には、自らのレーベルTuk Musicを作った。


ダニエレ・ディ・ボナヴェントゥーラ Daniele di Bonaventura バンドネオン

マルケ州フェルモ生れ。ピアノ、チェロ、指揮を学び、作曲で学位を取得。ピアニスト、バンドネオン奏者、作曲家、アレンジャーとして、クラシックから現代音楽、ジャズからタンゴ、民族音楽までと幅広いジャンルをこなし、演劇、映画、ダンスの分野でも活躍している。イタリア内外のフェスティバルで、各国のメジャーのミュージシャンと共演する。2003年にマルケ州フィルハーモニー交響楽団から委嘱をうけ、バンドネオンとオーケストラのための組曲を作曲、演奏、録音した。

2014年にはエルマンノ・オルミ監督の映画「緑はよみがえる」のサウンドトラックで演奏を担当。50以上のCDをリリースし、その多くは世界的にも高く評価されている。パオロ・フレスとの結びつきは強く、ふたりで、コルシカ島のヴォーカル・グループ‟A Filetta”も加わったアルバム‟Mistico Mediterraneo”や、ディ・ボナヴェントゥーラがバンドネオンとピアノの演奏をする二枚組CD‟Nadir”を生み出している。さらにパオロ・フレスとは2015年にCD“In Maggiore”(ECM)をリリースした。


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# by kurarc | 2016-08-19 21:54 | trumpet

二つの生命 外部と内部の他者

最近、よく耳にするのが「腸内細菌」や「腸内フローラ」という用語である。我々の腸の中には100兆個もの腸内細菌が住みついていて、そのバランスが健康を維持するのに不可欠であることがわかってきたという。

単純に考えると、人間の体内にはもう一つの生命体=細菌が住んでいて、その細菌とうまく付合うことが求められているということになる。その細菌を活性化させるような食物をバランスよく摂取することが必要となる訳である。

つまり、そのことは自分の意志で、これが食べたいとかあれが食べたい、ということとは全く無関係に腸内細菌の欲しい食べ物を摂取しなければならないということを意味する。食べるということは、自分と腸内細菌という二つの生命の欲求を同時に満たすものでなければならない、ということである。

そのように考えるとき、常々、わたしは果たして和食がよいのか疑問に思っている。和食といってわたしが思い描くのは、いわゆる、家庭料理、お袋の味である。ご飯、みそ汁にメインとなるおかずという組み合わせによる和食である。

この3、4年あまり、わたしは自宅で食べる食事について、このパターンの食生活を一切やめることにした。初めにみそ汁を一口飲み、その後、おかずをつつきながらご飯を食べる、という典型的な食べ方を一切やめたのである。

わたしの食べ方はむしろ西洋、特に南欧型の食べ方に近い。初めに野菜スープを飲み、その後、メインのおかずを食べる。食後には、チーズやナッツ類を口にしたり、果物やヨーグルトなどを食べる食べ方である。特に、夜はご飯やパン類、甘いデザートの類いは一切食べない。(これは南欧型とは少し異なる)ポルトガル滞在中は、カルド・ベルデというジャガイモベースのキャベツのスープをまず飲み、その後にメインディッシュを口にするという食べ方をよく行っていたが、その食べ方にならうようになって、随分と体調がよくなった。

そうするようになったのは、わたしの家系は血糖値が高いものが多かったこともあるが、上のような食生活にしてから、腸内環境が改善されたからである。つまり、お通じがよくなったからである。こうした食べ方を一日でも怠ると、腸内環境はすぐにバランスを崩す、ということもわかってきた。

腸内細菌は規則正しい食生活を好むということ、そして、多くの野菜の入ったスープの前菜がお好みのようだということがわかってきたのである。だから、家庭料理は、わたしの意志とは別に、腸内細菌が喜ぶ食物を食べることを最優先に食事のメニューを組み立てることにしたのである。外食においてもできる限り、同様な食事を摂取することに心がけるようになった。

生きるということは、外部の他者=他人、内部の他者=細菌、とうまく付合わなければならないということか。
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# by kurarc | 2016-08-15 23:15 | gastronomy

夏 マティス

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2004年、国立西洋美術館で開催されたマティス展(副題として、Processus/Variation プロセス(過程)とヴァリエーション(変奏))のカタログが届いた。

こうした画集といってよいカタログをしみじみと眺めるのは久しぶりのことである。絵画をみる習慣はないが、こうして名画を眺めることは音楽を聴くことと同様、心の糧になる。

副題にあるようにマティスの絵画が形成されるまでの過程と変奏を中心にカタログはまとめられている。先日、このブログで紹介した「ルーマニアのブラウス」には、14の変奏があり、15枚目がいわゆる完成品となるが、マティスにとって、完成品という言い方は正しくはないようだ。完成に導かれる過程はどれも独立し、それぞれが主題であり、全く異なる作品といってもよいものである。このあたりについては、カタログを熟読した上で、改めて言及することにしたい。

カタログの最後に登場する切り紙絵の手法による絵画がよい。特に気に入ったのは、「ポリネシア、空」(下)、「ポリネシア、海」(上)という作品である。この作品からはそのタイトル通りの世界が単純な色彩によって表現されている。それは、日本の夏のような湿気は感じられず、まさにポリネシアの夏を感じさせる。

切り紙絵という手法によって、マティスの絵画は藝術作品のもつアウラや、手の痕跡が希薄化し、「藝術作品」から遠ざかることになるが、それは、プロダクトデザインに通じる新たな試みであったし、オリジナリティーを超えていくような表現の手法に成長する。
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# by kurarc | 2016-08-13 21:50 | art

映画『夜顔』とドヴォルザーク交響曲第8番 第3楽章

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マノエル・ドゥ・オリベイラ監督の映画『夜顔』の中で、ドヴォルザーク交響曲第8番がテーマ曲のように使用されている。この交響曲は、第3楽章を除き、気のぬけたような曲だが、第3楽章だけは、他の楽章と異なり、曲の特質が際立っている。

映画『夜顔』のなかでは、この第3楽章がたびたび引用され、この映画の内面の表現を代弁しているかのようである。

映画『昼顔』の続編として製作されたこの映画の主題は、「大人の過去について」といったことにしておくが、その微妙なテーマをミシェル・ピコリが好演している。そして、この映画の情動をドヴォルザークの交響曲第8番第3楽章が見事に表現している。

映画では、たびたび俯瞰するように映し出されるパリの風景、夜景が映し出される。その風景は、わたしの中には記憶にないパリである。その不思議な風景、夜景とこの映画の主題がどのように連関しているのか、いまだに理解できないが、この映画は大人にしかわからない映画であることは確かである。
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# by kurarc | 2016-08-12 22:35 | music

翻訳スキルの向上

本を選ぶときに、最近は翻訳者で選ぶことがある。『天才建築家 ブルネレスキ』の翻訳者、田辺希久子さんの翻訳には、大変感心したこともあり、彼女が翻訳に関わった本は何かを探す、というように。

その田辺氏と光藤京子氏の二人が、『プロが教える基礎からの翻訳スキル』(三修社)という本を出版されていることを知り、古本で購入した。これは英日、日英の両方の翻訳のスキルを身につけるためのテキストである。アマゾンの書評には、何十万円とかかる翻訳学校でのエッセンスが、たった2200円で学ぶことができる、といったような意見が書き込まれている。

この本を読めば、田辺氏の優れた翻訳の方法が理解できるのでは、ということと、いつか翻訳してみたい本があるので、その予習も兼ねて学習してみることにした。先日紹介した『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密』の翻訳も、上野真弓さんという女性であり、やはり優れた翻訳である。語学の世界では女性がリードしているように思うが、それは、子供の頃から言葉への感心の高いのは女性の方だからなのだろうか?あるいは、脳の構造の違いといったことも言われるが、「こなれた」翻訳は女性の翻訳者の方に軍配があがるような気がしてならない。

わたしは会話が苦手なので、むしろ、語学を考えることに重点をおきたいと思っている。そのせいで、いろいろな語学(ロマンス諸語を中心として)を幅広くかじっているところである。
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# by kurarc | 2016-08-10 21:19 | books

映画『海辺のポーリーヌ』とマティス

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夏になると観る映画がエリック・ロメール監督『海辺のポーリーヌ』である。ちょうど今の季節の海辺でのコメディー+恋物語であるが、今回観ていて気になったのは、この映画に登場するマティスの絵画、『ルーマニア風ブラウス』(1940)である。映画の中の色彩は、この絵画の色彩が参考にされ、さらに、ポーリーヌの身ぶりの中に、この少女のポーズが(偶然に?)再現された。

野獣派として知られるマティスであるが、この後期の作品には、その荒々しさも遠のき、身体は線と色彩によって単純にとらえられ、イラストに近い表現に変化している。そのせいで、身体の重さは消え去り、身体は模様の中に溶け込み、色彩の明るさとこの女性の内面の明るさが一体となっている。

2004年に国立西洋美術館で開催された大々的なマティス展に、この絵画も含まれていたのだと言う。この展覧会を見逃したのは痛かった。早速、古本でこの展覧会のカタログを捜し、注文した。

マティスの生まれは北フランス(ル・カトー=カンブレジ、ノール県)であるが、その色彩は、地中海の光を思わせる。とにかく、マティスが気になる。最近、フランス文化に興味が集中しているが、そして、また、マティスもフランス人なのであった。
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# by kurarc | 2016-08-09 23:41

花田清輝著『復興期の精神』から30年

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わたしがヨーロッパ、特にルネッサンス人に興味をもつようになったのは、花田清輝著の『復興期の精神』の力が大きい気がする。この著作を初めて読んでから、およそ30年が過ぎていた。講談社文庫のこの著作の終わりに、読了した日付を記しているが、その最初が1986年12月18日となっていた。25歳のときである。

なぜ、この著作を手に取ったのか、全く思い出せないが、ちょうど、沖縄滞在から東京に戻り、1年が過ぎようとしているときであり、父が病に冒されていることを知った頃と重なる。父が亡くなり、そのおよそ二ヶ月後の1987年12月21日に再度、読了している。そういう時期に読んだこともあり、強烈に印象に残っているのかもしれない。

30年経った現在でも、思い出しては、気になる章を拾い読みする。不思議なことではあるが、この中に登場するルネッサンスを中心とし、その時代以後の累々たる人物たちによく出会うのである。気がつくと、花田のこの著作の中に登場している人物なのだ。最近では、ヴィリエ・ド・リラダンに出会った(再会した)。

花田清輝が37歳で発刊した著作であるが、ペダンティックな内容と領域の広さに驚かされるばかりでなく、戦時中に著されたにもかかわらず、その自由なレトリックはいまだにと生き生きとして、いつ読んでも新たな発見がある。その後の学説により、若干の事実誤認はあるものの、人物の確信をとらえた軽妙な文体とユーモア、エスプリは、現在においても新鮮である。

もしかしたら、この著作の中に、わたしのすべてがあるのでは、と思わせるような、わたしにとって最も重要な一冊である。
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# by kurarc | 2016-08-08 22:37 | books

トランペット・マウスピース DENIS WICK Trumpet4

あれほど適合していると思っていたシルキーのマウスピースNo.12が、最近、どうも調子が悪い。そのかわり、現在使用しているトランペット、ベッソンMEHAに付属していたDENIS WICK Trumpet4というマウスピースが、偶然ではあるが使い心地がよい。(前のトランペットの持ち主が使用していたものらしい)

DENIS WICK Trumpet4は、シルキーNo.12よりほんのわずか大きく、カップが深い。その分、カップの断面形状も、なだらからな曲面を描いている。

アマチュアは、マウスピースを大きくしていくことは、冒険が必要である。大きいマウスピースは唇に負担がかかる。よって、安易に大きいマウスピースを使うことは慎まなければならない。しかし、大きいマウスピースは、唇をよく振動させるから、音は大きくなり、音色も華やか(ブリリアント)になる。

新しいマウスピースをさがす時期に来たのかもしれない。

*大きなものにするのか、あるいは、小さくするのかを検討しなければ。

*下に、DENIS WICK HPより、DENIS WICK Trumpet4の仕様を引用しておく。

DENIS WICK Trumpet4

Description:
Diameter: 26.84 mm
Cup Diameter: 16.50 mm
Rim Width: 5.17 mm
Bore Size: 3.74 mm
Back Bore: Barrel

Good all-rounder. Based on an old Viennese design, this was produced with the co-operation of Howard Snell, former principal trumpet (1968-1976) of the London Symphony Orchestra.
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# by kurarc | 2016-08-06 22:23 | trumpet

日常の中のデザイン13 STANLEY 水筒

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コーヒー、カフェ・オレやチャイなどを持ち歩くために、STANLEYの水筒(ネイビー色の750cc)を購入した。こうした保温水筒では、THEMOSが有名だが、わたしがもっていたTHEMOSは中身が漏れるのでSTANLEYに買い替えたのである。

THEMOSや日本のメーカーのものは、注ぎ口に工夫がみられ、片手で注ぎ口をオープンできるものなど、一見、便利そうなのだが、こうしたものはその部分が弱点となり、耐久性に欠け、その結果、漏れに通じてしまうと思われる。

その点、STANLEYは一昔前の水筒そのもので、水筒のキャップはカップとして使用できるデザインである。注ぐためには、2回、キャップを回転させる労力が必要だが、こうした原始的な水筒は、まず壊れるこがないし、漏れることもなく、鞄の中に入れても安心して持ち運びができる。

水筒で肝心なのは、その保温性と漏れないという堅実性であろう。これが守れなくて、いくら新しいデザインをしても無駄というしかない。STANLEYは、あえて、昔ながらのデザインを守りながら、確かな製品を販売する、というコンセプトなのだろう。この水筒は、山歩きのときにも重宝しそうである。
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# by kurarc | 2016-08-04 23:05

MADREDEUS Lisboa

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ポルトガルの音楽グループ、MADREDEUS(マドレデウシュ)の”Lisboa"というCD(2枚組)を久しぶりに聴いた。1991年、4月30日のリスボンのコリセウでのライブ録音である。

このライブは、マドレデウシュ初期の活動の集大成とも言えるCD。改めて聴くと、マドレデウシュの中で、もっとも優れたCDと言えるような気がした。

このCDはタイトルからもわかるように、リスボンという都市(永遠の都市と彼らは呼ぶ)を主題としたCDであり、音楽である。CD1の2曲目、”A CIDADE "(都市)とは、リスボンのことに他ならない。

彼らの音楽には、彼ら特有のノリがあり、そのノリはどこに起源があるのかわからないが、ポルトガルのバナキュラーな音楽の中にあるのでは、と予想される。それは、もちろん、ロックなどの音楽ではなく、エスニックな音楽の現代への翻訳のように感じられる。

わたしは、1995年にポルトガルを訪れた際、このライブの流れを汲むコンサートを体験することができた。(コンサートは、1995年8月17日)会場はケルーシュ宮殿というリスボンから電車で30分?程度いった静かな宮殿内の敷地であった。日の暮れる夜の10時頃からコンサートがはじまり、終わったのは深夜0時頃だったと思う。最終電車でリスボンの宿に帰った記憶がある。

このコンサートは忘れられない想い出となっている。野外でのコンサートであり、コンサートホールでは経験できない官能的な美しさを体験することができた。

日本ではこのような体験をすることは滅多にない。彼らのシンプルでスアブな(ソフト)な音楽は、ポルトガル、リスボンの光景と一体となり、心地よい響きの記憶として残っている。そのコンサートの経験を、このCDを聴くたびに想い出すのである。
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# by kurarc | 2016-08-02 00:07 | music

玉川上水 野路への郷愁

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数ヶ月に一度、玉川上水の野路に対する郷愁がおそってくる。歩いて20分もかからず、その場所へ行くことができるが、仕事が忙しいと上水が心の中からいつの間にか消えてしまう。そして、数ヶ月がたつと無性に上水の野路を歩きたくなるのである。

今日は、午前中に自転車で玉川上水の野路を走ってきた。わたしの住む三鷹では、上水沿いの道は野路(土の径)が多く残っている。母校の中学校の裏手あたりまでいくと(写真)、昔の面影をよく残している。

三鷹へ戻った4年近く前に、この野路を自転車で走ったが、なにか表現できないような懐かしさにおそわれ、いたく感動した。木々の中から言葉のようなものがわたしに向かって発せられているようで、このような小さな自然でもかけがえのないものであり、感動を与えてくれるものなのだ、ということを感じたのである。

まだ、玉川上水の源流まで遡っていったことはない。時間ができたら自転車ででも、ゆっくりと源流まで散策してみたいものである。
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# by kurarc | 2016-07-31 23:40 | 三鷹-Mitaka

レオナルドからアンドロイドへ

昨日、九段のイタリア文化会館にて、イタリア人美術史家、コンスタンティーノ・ドラッツィオ氏によるレオナルド・ダ・ヴィンチに関する講演を聴講した。わたしはレオナルドに、イタリア人らしからぬイメージをずっといだき続けていたが、そのイメージはどうも幻想であったようだ。レオナルドは人が考えつかぬような絵画の構図ほか、人を驚かすことを常に意識していた人物であった、という。彼の手稿や手記などから想像される、冷静沈着な文章とは真逆の人間だったようだ。若い頃から長髪のヘアスタイルであり、その巻き毛の手入れには気を使っていたのだという。

レオナルドは、常に意識から離れることのない歴史的人物であった。最初のヨーロッパの旅では、フィレンツェにおいて、レオナルドの膨大な馬のデッサンをみて、天才の業績をはじめて意識した。しかし、ドラッツィオ氏によれば、レオナルドは決して恵まれた天才とは言えなかったという。メディチ家には冷遇され、ミラノ公国へは音楽家として雇われ、彼の得意とする絵画の仕事に恵まれるのは、その10年後のことであったという。レオナルドが認められるのは40歳後半になってからのことであり、それまで、クライアント(パトロン)には契約を破棄されることが多く、未完成の作品を数多く残すことになったのである。

レオナルドの多くの発明品の中でも、現代のロボットに近い玩具をつくったことはよく知られている。花田清輝はその玩具を数多く発明したレオナルドについて、それらは心の危機から生み出された、という独創的な発想を『復興期の精神』で繰り広げているが、そのことに深くふれずに、ここでは、レオナルドを現代のアンドロイドへと連続する先駆者としてとらえてみたい。

われわれが初めて体験するようなアンドロイド、あるいはロボットという機械(玩具)も、少なくとも500年以上の時間の賜物だということである。そうしたパースペクティブを花田の言うレオナルドから、デカルト、ド・ラ・メトリー『人間機械論』、リラダン『未来のイヴ』、チャペック『ロボット』と、それに加えて、ウィーナー『サイバネティクス』、『人間機械論』などの流れの中で一度考えてみるとおもしろそうである。
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# by kurarc | 2016-07-28 23:02 | books

基本語彙の数から

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仏検公式基本語辞典3級4級5級の古本を購入した。5級550語、4級370語、3級750語の計1670語が収録されている。

フランス語に限らず、どのような外国語においても、基本語彙といわれるものは、この程度の数だが、その語彙の各国の関係はどのようになっているのだろうか?フランス語の基本語彙と言われるものと、たとえばイタリア語の基本語彙と言われるものにどの程度の差異があるのだろうか、ということである。

もし、かなりの差異があるのであれば、その語彙がその国の言葉の特徴を表す言葉であることになろう。そうした比較は以外と困難で時間がかかりそうなので、自分で調べてみることはできないが、興味深い。

しかし、およそ基本語彙と言われるものが1500語前後と、どの国においても同一であることも興味深い。まずは、この1500語前後を覚えることが、外国語習得の第一目標になるわけであるが、全くあたらしい外国語を1500語覚えるということは、かなり苦労する。さらに、研究者となれば、この10倍、15000語は習得しているだろうし、3万語以上は頭の中に入っているはずである。

千から万という数字へ飛躍するためには、人並みの努力では足りない。百で終わるか、千で終わるか、また、万という数字まで到達できるか、人はただそれだけのことである。
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# by kurarc | 2016-07-27 12:57 | France

「adieu」と「au revoir」

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『「星の王子さま」をフランス語で読む』(加藤恭子著、ちくま学芸文庫)の中に、「adieu」と「au revoir」の言葉のニュアンスの違いについて書いてあった。

加藤氏が言うには、「adieu」は永遠の別れ、もう会わないことを前提とした別れであり、「au revoir」は、ふつうの意味の「さようなら」であるという。

以前、映画「AU REVORE , LES ENFANTS」について書いたとき、「au revoir」の意味をまた会うことのない別れと認識していた(映画ではそのような別れであった)が、わたしの認識は間違っていたのかもしれない。(フランス語の先生もこのように言っていたのだから仕方ない)

そう考えると、映画のタイトルがなぜ「ADIEU, LES ENFANTS」ではなく、「AU REVORE , LES ENFANTS」であったのかという疑問がわき起こる。「adieu」では、永遠の別れという意味が露骨に表現されてしまうので、「au revoir」を使うことで、永遠の別れであっても、またいつか会えるのだ、という希望を託した言葉を監督のルイ・マルは選択した、ということなのではないか?

言葉を知るということは、こうした疑問を投げかけてくれるし、想像の深度、広がりをもらたしてくれる。こうした小さな発見を楽しむことが言葉を学ぶ大きな魅力と言える。

*『星の王子さま』に関する著書は、フランス語に関するもので3冊、訳書で2冊(内藤濯訳と池澤夏樹訳)、さらに、『星の王子さまの世界』(塚本幹夫著)の計6冊もっている。こうなったら、『星の王子さま』に関する著書の収集でもはじめよう。
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# by kurarc | 2016-07-23 21:30 | France


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