グランドツアー/09 ロンドンからパリへ 1984/07/10-07/18

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*写真は、パサージュ・ジュフロワ内グレヴァン蝋人形館の出口。私が訪ねた1984年時点では出口上部レリーフに彩色がなかった(上写真)が、鹿島氏の本(後述)では、彩色されている。出口左手は、オテル・ショパンの入口。シュールレアリストの聖地とされたパサージュ。

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1984年7月9日の夜、ロンドンを発ち、パリに10日早朝着。初めてのパリとなる。パリはロンドンに比べて古典主義の壮大な建築物が数多く存在するために、都市に威厳があることにまず驚いた。それはロンドンとの決定的な差異であった。

山田さん、渡部さんとの3人の旅(2009年12月27日のブログ参照)はまだ続いていた。我々はリュクサンブール公園近くの宿に泊まり、ここを拠点に7月18日まで過ごすことになった。ロンドンでのイングリッシュ・ブレックファストは旅をするものにとっては、朝からベーコンエッグなどを食べることができ、腹持ちがよく、活動するには重宝したが、ここパリでの朝食は、クロワッサンとカフェオレへと変化した。朝7時くらいだっただろうか、老紳士が銀製のポットにホットミルクとコーヒー、それに人数分のクロワッサンを運んでくれた。コーヒーとクロワッサンがあまりにもおいしいせいか、これはこれで満足するものであった。

パリでは、まずは、コルビュジェやペレー、マレ・ステヴァンス、アドルフ・ロースらの近代建築や、ルドゥーの関門などを見学。また、パサージュを14箇所(+ギャラリー1箇所)見学する。

パサージュは、1984年時点ではかなり寂れていた。鹿島茂著の『パリのパサージュ』(コロナ・ブックス、平凡社)によれば、ベンヤミンの『パサージュ論』が1982年に出版されたことで、20世紀転換期にはかなり活性化したようだが、この当時、いくつかは廃墟に近いものも存在した。(1995年にパリを旅したときにはパサージュはかなり活気に満ちていたように感じた。)
鹿島茂氏前掲書によれば、通常我々が思い浮かべるパサージュは、パサージュ・クヴェールpassage couvert(ガラスの屋根で覆われたパサージュ)で、単にパサージュとういうときには、通り抜けという意味しかもたないという。

鹿島氏のパサージュ・クヴェールの定義によれば、

1:道と道を結ぶ、自動車の入り込まない、一般歩行者用の通り抜けで、居住者専用の私有地ではないこと。

2:屋根で覆われていること。

3:その屋根の一部ないしは全部がガラスないしはプラスチックなどの透明な素材で覆われており、空がみえること。

だという。

1の定義から、袋小路は除かれ、ヴィッラvillaなどの居住者専用の私道も除かれるという。また、2の定義から、露天の通り抜けもパサージュ(クヴェール)ではないことになる。また、3の定義から、ビルのなかのモールのような空間も除かれることになるそうだ。

パリはこのパサージュを見学に行くだけでも意義のあるくらい、濃密な都市であった。グランドツアー時には合計3回に渡ってパリを訪ねることになる。異なる季節に訪れることができたこともあるが、この都市は何時行っても、なにか郷愁のようなもの感じ、繰り返し訪ねたくなる都市の一つとなった。パリでは多くのものを見学できたので、数回にわたり紹介することにしたい。

*この旅(1984年)で訪ねたパサージュは以下の通り。
01)PASSAGE DES PRINCES
02)PASSAGE DE L'INDUSTRIE
03)PASSAGE BRADY
04)PASSAGE REILAC
05)PASSAGE DES PETITES-ECURIES
06)PASSAGE DU DESIR
07)PASSAGE DU GRAND CERF
08)PASSAGE PONCEAU
09)PASSAGE PRADO
10)PASSAGE VERDEAU
11)PASSAGE JOUFFOY
12)PASSAGE CHOISEUL
13)PASSAGE DU PERRON
14)PASSAGE DAUPHLNE
15)GALERIE VERO-DODAT

*その他、パリのパサージュの起源、歴史等ついては、鹿島氏の著書を参考にしていただきたい。

by kurarc | 2010-09-26 23:40 | archives1984-1985