いじめとヴァルネラビリティ

いじめの報道がメディアをにぎわしている。いじめに関する報道があるたびに思い出すのは、山口昌男が『文化の詩学1』(岩波現代選書)の中で論じた「ヴァルネラビリティー潜在的凶器としての「日常生活」ー」である。

いじめはなくならない、というのが山口の論考から考えられる私の結論である。ヴァルネラビリティ(攻撃的誘発性)は、人間がアイデンティティを獲得する過程で必ずもってしまうものであり、その過程では必ず他者を排除するという行為が生ずる。いじめが中学や高校というアイデンティティを模索する少年、少女たちの間に顕著なのは、必然的なのである。この世代の若者は、自分にとって「不定形なもの」、「気味の悪いもの」を遠ざけ、日常を生きようとする。遠ざけようとする過程でいじめが生じるものと考えられる。

しかし、山口が言うには、悪魔、敵、政治的弱者、社会的弱者、畸形、狂人、貧民、浮浪者、病人等等を排除することは、弾力性を欠いた世界なのである。深刻なのは、日常生活という当たり前の世界に、弾力性を欠いた世界は根づいてしまったこと。(快適性を保証する様々な商品がその手助けをする)

山口は言う。「真にソフィスティケートされた文化とは、「非文化」、「影」、「闇」、「外」、「他者」、「死」とのあいだに、ひそかにさまざまの対話の機会を仕掛けとしてのこしている。」そうした文化を今後築くことができるのかどうか、それはいじめの問題だけでなく、原子力の問題、日本文化の未来の問題ともつながっていると思える。

by kurarc | 2012-07-17 23:45