記憶に残ること、残らないこと

初めて海外旅行に行ったときから、今年は30年が経過した。いまだに、明確に思い描くことができる街と思い描くことができない街がある。ポルトガルのエルヴァスといった街は、帰りのバスの時間が着いてから30分しかなかったこともあり、30分しか街に滞在できなかった。しかし、この街まで行くバスの中の雰囲気や、都市に導かれた水道橋の遺跡などの記憶を現在でも思い浮かべることができる。

以前にも書いたように、私はこの旅行ですっかりラテン世界の都市に魅了されてしまった。もちろん、ロンドンやベルン、レーゲンスブルク、ベルリン、プラハ、ブダペスト、アルジェ、イスタンブール他といったラテン世界の範疇に入りきれない都市の中にも非常に想い出深い都市が数多くある。しかし、記憶に深く刻まれた都市はラテン世界の都市の方であった。

それはなぜなのか、ということを考えることも重要だが、なぜ記憶に残らなかった都市があったのか、ということも同時に考える必要がある。人は一般的にすべての領域で、記憶に残るものに好意をもちたがると思うが、それだけでは、自分の趣向は理解できない。

記憶に残るものとは、ある意味で自分の脳にその図像が描きやすいもののような気がする。むしろ、記憶に残らないものの中に、わたしの中にない世界が存在しているのだろうし、超えるべきハードルがあると考えられる。

わたしはラテン世界に興味をもち帰国したにもかかわらず、その後入学した大学院では、ドイツの近代建築家を研究することを選択した。そして、この研究にある程度けりがついたこともあり、今度はポルトガルというラテン世界の一端を学ぶことにした。ドイツの建築家を学んだことは今から思えば無駄であったのかもしれないが、むしろ、わたしの好みというものが明確になった(つまり、やはりラテン世界が好きであるという好み)点ではよかったのかもしれない。

30年が経過して、単に好き嫌いで何かを学ぶということはなくなったが、好みに対して正直に生きることの重要性と、好みではないものに対する注意、配慮は常に怠るべきではないと思っている。そうしている内に、とてつもない知識を身につけられるような気がするのである。

by kurarc | 2014-07-21 21:05 | saudade-memoria