地域を掘り下げる旅

昨年つくった「たてもの・まちなみ・景観を考える市民の会」の活動もちょうど1年が過ぎた。身近な建築物や街、景観を見て歩くということからはじめたこの会での活動は、想像以上の収穫を得ることができたように思う。

それは、ひと言で言うと、「身近な世界のとらえなおし」である。身近にある建築物や景観を一つ一つ調べながらみていくと、思いもかけない歴史が浮かび上がってきたり、日常の中で退屈になってしまった風景が、全く新たらしく、奥行きのある世界として感覚できるようになる。

わたしの住む東京郊外(あるいは、武蔵野と昔呼ばれた地域)は、都心の世界と比べると退屈で歴史の感じられない地域と思われるかもしれない。しかし、それは全くその地域をそのように見ていたからに他ならないのであって、退屈と思われるような地域の中にも、実に豊かな歴史、風土が隠されていることがこの1年で明確になってきた。

たとえば、わたしの住む周辺の地域を「水」という主題で調べてみるだけで、上水、湧水、消えた上水、水車、水車小屋、水車大工、水神、古代の多摩川、扇状地の上に築かれた武蔵野、水でつながれた江戸との関係etc.・・・など様々な副題が出てきて、興味が尽きることがない。それは、江戸を中心からではなく、周辺からとらえる、という新たな視点も与えてくれる。

こうした視点は、元来、郷土史家を名乗る人々によってその知が蓄積されてきたと思われるが、わたしは、郷土史家といった言い方ではなく、もう少し建築的な言い方ができないかと現在模索している。地景史家といった言い方も一つあるかもしれないが、今一つである。

「武蔵野」の理解については、国木田以前と以後について考察することの重要性に気づかされた。「武蔵野」は消失したことは事実で、これも、何か別の言い方ができないのかと考えている最中である。

わたしの住む東京郊外という地域に限らず、東京の大きなとらえ直しがはじまっているのかもしれない。東京オリンピック前の激しい変化の中で、東京は様々な意味で、脱構築がなされ、新しい視点で東京を再定義する時代に入ったということなのかもしれない。

by kurarc | 2016-11-26 00:47 | 東京-Tokyo