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世界文学とドッペルゲンガー

放送大学の『世界文学への招待』の講義(2016年の再放送)は興味深い。昨日は、日本文学翻訳者のマイケル・エメリック氏による「グローバル化する日本文学ー日本語で読めない日本文学」をテーマとした講義であった。

例えば、村上春樹を例に出して、彼の文学の受け止め方が日本以外で異なることを指摘していた。アメリカでは、村上文学は、クノップ社から出版された「象の消滅」により、村上文学が世界文学として認識されることになったため、それ以前の彼のポップな言説による文学は認識されていないということ。また、村上文学の翻訳における問題として、英訳されたものがドイツ語訳される(重訳)ことにより、村上文学がまったく異なるものに変質していくことを指摘。日本語は、世界では周辺の言語として位置付けられるため、日本語からすべて他言語に翻訳される訳ではないこと、それによって重訳が必然的になり、作者は、作品のドッペルゲンガー(分身、複体)を意識せざるを得ない状況になるという。

さらに、多和田葉子のように、日本語とドイツ語という二つの言語で文学を創作する作家の出現や、翻訳された自らの作品を、自ら日本語に翻訳し直すというような複雑な状況が生じており、現在の世界文学が錯綜した状況に遭遇していることをマイケル氏は述べていた。

文学を市場から、あるいは欧米の文学から俯瞰した場合、日本の芥川賞が中編小説を扱っているのに対し、欧米の文学は長編小説に重点をおき、「売れる」小説とみなしているため、日本と欧米との小説の認識のズレが生じており、中編小説というだけで、日本の作品は欧米の出版社に毛嫌いされてしまう。その点、村上春樹は、長編小説を意識的に発表していることから、世界文学として欧米でも評価されやすいという。

作家たちは、世界(日本の中でも同様であろうが)を舞台とする場合、自らの作品が自分の意図する方向で理解されるとは限らない、という認識が必要であること。自分とはまったく無関係な場所で複製される作品群から逆照射される「わたし」と「もう一人のわたし」を常に相対化させながら、新たな創作を続けていくことこそ世界文学という舞台で小説をつくる作家の仕事と言えそうである。

わたしの好きなフェルナンド・ペソアの言葉、「生きるとは、他者になること」、が世界を舞台にした小説家の宿命ということか? 

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by kurarc | 2018-01-14 10:19 | books
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