上連雀の飛地

わたしの実家はわたしが幼い頃、「上連雀」という地名(現在は下連雀)であった。上連雀というと、三鷹駅から西側であり、隣接する地区は「下連雀」という地名であり、なぜ、わたしのところだけが「上連雀」という地名を残しているのか、ずっと疑問に思っていた。

武蔵野郷土史刊行会から出版されている『井の頭史跡散歩』の中に、その答えが書かれていた。井の頭の史跡を調べるために図書館へ行ったのだが、ついでに、わたしの長年の疑問が解けたかたちとなった。

本来であれば「下連雀」という地名の中に「上連雀」が存在したのは、上連雀を開墾した井口家の飛地であった、ということである。現在も、「狐久保」という地名が残っているが、このあたりは湿地であり、開墾されず残された荒れ地であったようだ。井口家はこの荒れ地の開墾に乗り出したようで、その土地を上連雀と名付けたのである。

すでに移転してしまったが、このあたりはその後、日本無線、正田飛行機、三鷹航空などの軍需工場が進出した。わたしの実家は町工場だが、こうした軍需工場が近くに存在したこともこの地に工場をかまえた理由の一つなのだろう。そのあたりは父親から話を聞いたことはない。いまとなっては調べるすべもない。

三鷹はその後、高級な住宅地へと方向を転換した。しかし、わたしの中の三鷹は工場の数多く残る町工場街のイメージである。そうした工場や工場の廃墟がわたしの子供の頃の遊び場だったのである。

*つまり、由緒ある地名がいつのまにか変えられてしまった、ということになる。

by kurarc | 2018-02-11 13:57 | 三鷹-Mitaka