松尾芭蕉の道行き 歌枕という廃墟

この2、3年、京都や奈良、金沢を旅したこと、また、歳のせいもあると思うが、日本の古典について以前よりも増して身近に感じられるようになった。最近金沢についていくつかこのブログで書いたが、金沢を知るには加賀宝生という能楽についての学習が必須である。東京のような都市に暮らしていると、相当古典好きでない限り、日常生活のなかに古典は根付いていないから、見過ごしてしまうのだ。

花田清輝の著作の中に『日本のルネッサンス人』という著作があるが、わたしにとって今までとっつきにくい著作であったが、やっと読み込める感性が芽生えてきた感じである。先日、敬愛する映画監督、ビクトル・エリセに関する文章を読んでいた時、彼が来日時に松尾芭蕉の『おくのほそ道』と同じ行程を旅した、ということが書かれていて、芭蕉についても急に調べたくなった。

芭蕉の『おくのほそ道』は高校時代、部分的に古文の授業で読解しただけで、その後、じっくりと読む機会はなかったが、長谷川櫂氏の著作を読むと、この『おくのほそ道』は歌仙という構造を背景に、4つの旅に分節されるものであるという。

1:江戸ー白川 旅の禊
2:白川ー尿前 みちのくの歌枕の旅
3:尿前ー市振 宇宙の旅
4:市振ー大垣 人間界の旅

ここで、1-2までが太平洋側、3-4までが日本海側の旅と一致している。

ここで注意したいのは、歌枕とは、実在する場所である場合もあるが、実在しない場合もある、ということである。和歌の中で詠まれた歌枕は西日本から当時、特に辺境として意識された東北地方を扱った歌枕が多かった。芭蕉はそうした歌に詠まれた歌枕を訪ねることが大きな目的の一つであったが、それは不在への旅でもあったということであり、現実に存在した歌枕の場所は、芭蕉が訪れたときには廃墟のように荒れすさんでいたことも多かった。つまり、芭蕉の旅は結果として、廃墟への旅でもあったのである。

芭蕉は、少し遅れた日本のルネッサンス人であったのであり、その旅の経験から、「不易流行」といった宇宙観や「かるみ」といった人生観を『おくのほそ道』の旅の後、まとめることになる。芭蕉の旅とは応仁の乱によって滅んでしまった古典への追憶の旅であり、その経験から創作を切り開いていくための創造への旅であったということになる。

*芭蕉は漢字表記とカナ表記にこだわったということ。「おくのほそ道」が芭蕉のオリジナルの表記とのことで、訂正しました。

by kurarc | 2020-08-29 17:00