須賀敦子 『ミラノ 霧の風景』 レクイエムとしてのエッセイ

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須賀敦子のエッセイを読み終えたときの印象は、たとえるなら、テオ・アンゲロプロスの映画を見終わったときのようなものに近かった。張り詰めた緊張感があり、かといって、堅苦しい感じはしない、落ち着きのあるエッセイであった。


アントニオ・タブッキの翻訳者としてわたしは接してきたが、彼女のエッセイをずっと読むことを避けていたことは、以前、このブログで書いた。すでに20年以上も読むことを拒否していたことになるが、このエッセイを20年前に読んでいても、現在のように感じられたかは疑問だし、きっと、最後まで読めなかったのではないかと思う。


須賀のエッセイは、「死」を主題としていることは明らかだ。それは、あとがきに引用されたウンベルト・サバの詩から理解できる。そして、その主題の中心となったのは、須賀の夫の死であったと思う。須賀はイタリア人と結婚したが、その夫との別れは意外にも早く訪れることになる。きっと、夫の死がなければ、彼女は夫との共同作業でもあった日本文学のイタリア語への翻訳を続け、自らエッセイを書くこともなかったのではないか。


さらにエッセイは、およそ20年前のイタリアでの生活を思い出しながら書かれていることにも驚かされる。ときどき、思い出せない細かいことは省いているが、20年以上昔の出来事を今体験しているように描いている。


イタリア人についても、我々が思うようなステレオタイプなイタリア人は登場しない。須賀の体験したイタリアは1950年代から1960年代になるが(正確には1953~1966年)、この頃のイタリアは、現在のイタリアの印象ともかけ離れていたのだろうと思われる。たとえば、コモという都市の描き方。建築を学ぶものにとってはジュゼッベ・テラー二の建築をみる都市であるが、須賀にとっては、かつて絹糸で財を成した実業家たちの都市が思い出され、その後、養蚕業は絶滅し、工業地帯へと発展した都市という時間がまず頭をよぎる。さらに、コモとレッコを底辺に逆三角形に広がるブリアンツァといわれる地方が思い浮かび、その土地はマンゾーニゆかりの土地であることを当然のこととして理解している。


須賀のエッセイには、イタリアの表層のガイドといったものは登場せず、イタリアに長年暮らす中で身につけた土地への愛着が語られている。そして、その中には亡き夫の回想や友との語らいの中で紡ぎ出された言葉が20年という時を超えて浮上してくる。喜ばしかったのは、わたしの知る、タブッキやカルヴィーノといった作家やタヴィアーニ兄弟の映画、タフーリといった建築評論家、また、わたしも好きなルッカという都市などが登場することである。しかし、こうした名前だけでは須賀にとっては十分ではない。マンゾーニ、チェデルナ、ギンズブルグ、レオパルディ、カルドゥッチ、パスコリ、ヴィーコ、クローチェ、ヴィットリーニ、パヴェーセetc.といった作家、詩人、哲学者が当然のこととして基礎知識として必要となる。


もっと早く、彼女のエッセイを読むべきであったが、先にも書いたように、わたしには今読むのがちょうどよい時期であったのかもしれない。このエッセイは20年という月日を回想できる40代以降の大人でなければ理解できないのではないか。わたしにはそう思える。須賀は「匂い」や「薫り」という言葉が好きなようである。彼女はその「薫り」の記憶から決して軽くはない自らの人生を思い起こし、エッセイを書くことになったようである。きっと書くことになった運命を感じながら。


*次に『トリエステの坂道』を読み始めたが、「雨のなかを走る男たち」でテオ・アンゲロプロスの映画『シテール島への船出』が登場したのには驚いた。彼女もやはりアンゲロプロスの映画を観ていたのである。「雨」が印象に残る映画であるが、その中で男たちが背広の襟を両手で握りながら走る走り方に注目している。須賀らしい視点である。(2021/05/02)


by kurarc | 2021-04-22 19:50 | books(書物・本・メディア)