エリカの墓

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修士論文で建築家ブルーノ・タウトを取り上げた。論文が完成したのが1991年の1月末ころだったと思う。その後、30年が経過し、日本ではタウトに関する書物が数多く出版された。その中で、タウトに関する個人的な情報を含んだ内容をまとめたものに、田中辰明著の『ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家』(中公新書)がある。図書館で目に入ってきたこの新書を手に取り、パラパラとめくっていると、タウトの秘書としてタウトとともに来日したエリカ・ヴィッティについて書かれている箇所が目についた。


わたしはタウトの個人的な面について関心はなかったが、タウトの口述筆記などを担当したエリカは、タウトを助け、彼の数多くの著作に尽力したことは間違いない。何の著作だったかは忘れたが、タウトがロンドンで船に乗りながら語った内容をエリカが口述筆記した、といったエピソードをどこかで読んだことがある。彼女はタウトがイスタンブールで死去してから、どのような生涯を閉じたのか気になっていた。


田中氏によれば、エリカの墓は、タウトの代表的な仕事であるブリッツの馬蹄形ジードルンク(集団住宅)の近くにあることを偶然発見したという。さらに、わたしも初めて知ったが、エリカにはタウトとの間に娘さん(クラリッサ)がいて、その娘さん(スザンネ、タウトのお孫さん)が現在、フランクフルトの郊外に住まわれているという。


エリカに対しては、日本側からもなんらかの援助が必要であったと思うし、可能であれば、日本で暮らせればよかったのだろうが、子供がいたのだから、ドイツに帰らざるを得なかったのだろう。激動の時代を一人の著名な建築家とともに歩んだ生涯は苦難の連続であったと思われる。ブリッツのジードルンクが世界遺産になったことをエリカは知らないまま、亡くなっていったことになるが、その近くで眠っていられることは彼女にとって本望となるのではないだろうか。


by kurarc | 2021-12-26 15:50 | architects(建築家たち)