東欧を感じたとき

ロシアがウクライナに侵攻するのではないかと連日ニュースで取り上がられている。ウクライナは訪問したことはないが、ウクライナというとわたしは川喜田煉七郎という建築家が1930年に4位となったハリコフ劇場建築国際設計競技を思い出す。修士論文を書いているとき、彼が発行した『アイ・シー・オール』という雑誌を参考文献としていくつか読んだ。現在、彼の独創的な業績は改めて再評価されてよい時期かもしれない。

ウクライナの現況は、東欧という今では過去となったように思われる地域、世界が現に亡霊のように生き延びているのだと改めて感じられる。わたしが初めてヨーロッパ諸国を旅したのは1984年から1985年にかけてで、まだベルリンの壁はあったし、そのベルリンへ行くために、東ドイツを列車で走り、西ベルリンに入るという今では考えられない経路をたどったのである。

今になってみると、そうした経験は貴重で、忘れがたい。現在、そうした経験はできないし、西ベルリンと東ベルリンの生活がいかに異なっていたのか、実感するようなことももはやできない。わたしはこの東西ベルリンほか、プラハとブダプペストという東の都市を訪問したが、これらの都市の様相も忘れることはできない。

プラハでは街を歩いていると、「チェンジ・マニー」と声をかけられた。ドルを交換しないか、という闇商人のような人々だと思われるが、当時は秘密警察官ではないかという噂もあり、ドルを交換でもしていたら、その場で逮捕されていたかもしれない。訪れたのが冬に近づいていたこともあったが、街は暗く、スーパーへ入っても、ほとんどの商品が品薄で、ジュースのような単純な飲料を購入するにも店の前には長い行列がつくられていた。

ただ、そうした暗い中においても宿をとった民宿では暖炉が暖かく、親切に応対してくれた。プラハでもブダペストでも人々は親日的であり、プラハではわたしの名前が映画監督の黒澤監督に似ていることから親しみをもってもらえたこともあった。

東ベルリンでは建築家シンケルらの建築を見学したが、滞在許可は1日のみであり、東ベルリンに入るのに確か10マルク程度強制的に両替をさせられたと思う。それらをすべて使い切るのは結構大変(買うべきものもない状態だった)で、当時のノートをみると、コーヒーとチョコレートケーキで4.44マルク払い、最後に4マルク余ったお金でソル(スペインの作曲家)のクラシックギター楽譜を購入したとある。その楽譜は今でも手元にある。


by kurarc | 2022-02-19 19:12 | saudade-memoria(記憶)