Archiscape


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by S.K.
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もう一つの原点 川越へ

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昨日、わたしのもう一つの原点といえる川越を訪ねた。17年ぶりのことになる。20代最後の一年間をここで過ごした。遅れて入学した大学院の修士論文を書くため、大学院に近いこの街に移転して、アパートにこもりながら論文を仕上げていった。

当時のアパートがあるかどうか確かめに、川越市駅からアパートのある場所に向かった。川越女子高校に隣接する場所にアパートはあり、たまに、女子高生の声が聞こえてきたのが印象に残っている。28年も前に住んだアパートだが、奇跡的にも当時のまま残っていた。(上写真)2階の奥から2番目の部屋がわたしが借りた部屋である。鉄筋コンクリート造であるわけではないが、大家さんが1階に住まわれていることもあるのだろう。手入れがなされ、外壁に汚れもない。

その後、川越の旧市街を訪ねる。こんなにも木造建築や蔵、様式建築、武家屋敷跡などが数多く残っている街であったのか、と感心しながら歩く。思えば当時は論文で忙しく、街に出歩くのは夜になってからで、ろくに街を歩いていない。エアコンがなかったこともあり、夏の夜はファミレスで論文資料を持ち込んで過ごし、涼しくなった夜11時頃にアパートに帰ることが日課になっていた。

川越は、観光地としては当時よりかなり活気づいていたが、果たしてこうしたまちづくりが正解なのか、多少の疑問が残る。それは、テーマパークのようであり、市民にとって活きた街と言えるのかどうか?

川越は、自宅から国分寺経由で西武線を乗り継いで行くと、意外にも近いことがわかった。江戸の情緒を感じるには最も手軽に散策できる街である。また、日を改めて訪ねることにしよう。(下に、蔵以外の建造物(登録文化財)の写真を掲載しておく)

*歴史的建造物を活用するまちづくりは、再考すべきと感じられた。わたしの地元吉祥寺のような街は歴史的建造物もほとんどなく、川越からすると建築的には貧しいが、実用的なまちと言え、日常生活に素直な活きたまちと感じられる。その反対に、川越のようなまちは歴史的建造物が豊富で見所は多いが、一歩間違えると、その領域のみが突出し、まち全体のバランスが崩れる可能性がある。(つまり、観光客がいなければ成立しないまちは果たして正常なまちと言えるのか?ということ)飛騨高山のように歴史的建造物と日常が調和しているような(のように少なくとも感じられる)あり方はどのようにしたら可能なのだろう?
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by kurarc | 2018-01-04 15:58

原点を忘れずに 沖縄 具志堅邸

わたしが大学を卒業して働き始めたのは沖縄であった。当時、那覇市西にあった末吉栄三さんという沖縄の建築家の事務所で働き始めた。

最初の仕事は、具志堅さんという方の離れの解体工事とその施工であった。設計事務所なのになぜ解体工事をやらなければならなかったのか、それは事務所の事情があった。これといった仕事がなかったこともあり、解体工事から設計施工まで引き受けたのである。

わたしの初めての仕事は設計ではなく、解体工事となった。コンクリートブロック造であった平家をハンマーで解体していくのである。このとき、コンクリートの硬さを嫌というほど思い知らされた。3時の休憩時間には、具志堅さんのお母様(おばあ)が人の拳より一回り大きいトマトを出してくれた。このトマトが美味しくてたまらなかった。

この仕事は、基礎の配筋工事を手伝った後、わたしは世界旅行に旅立つことになった。帰国してから、今度は具志堅さんの母屋の改築工事を携わることになる。沖縄の住宅では、作り付けの仏壇が設置されるが、その設計もやり、図面を手書きで仕上げた。こうした仕事がわたしの建築活動の原点である。どんな仕事にも携わること、設計者、建築家という立場であっても、できることはなんでもやる、それがわたしのスタンスである。

建築家は世間的にはカッコのよい職業と思われているが、その実態は正反対である。現場へ行けば、職人たちをどなるヤクザのような存在、紳士的な職業とは正反対だ。その一方で、知的レベルを向上させることにも意欲を燃やす。建築家は、幅の広い階層の中間的存在、その境界線上に位置する職業といってよい。肉体労働者であり、知識人。そのどちらでもない。

年の初めには原点を思い出すことは励みになる。原点の記憶はまったく色褪せないから不思議である。



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by kurarc | 2018-01-02 10:35

Happy New Year 2018

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  (仮称)牟礼6丁目ディサービスセンター 建方時
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by kurarc | 2018-01-01 00:03

カンスタルのトランペット MEHA

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現在使用しているトランペットは、アメリカ、カンスタル社のMEHA(上写真)というトランペットである。アメリカ製フレンチ・ベッソンといってもよいトランペットであり、非常に気に入っている。

カンスタルのトランペットを使うミュージシャンは日本では未だにごく少数のようだが、「もの」としての完成度は高く、音もよい。わたしがこのトランペットで最も気に入っているところは、その持ちやすさと指をおくバルブの先端部分である。バック、あるいはヤマハのトランペットはバルブの先端のボリュームが大きく、ごついデザインとなっている。しかし、MEHAは金属製でごく薄いデザインのボタンであり、指を置いた時の感じがよい。他社のトランペットはこの部分に象牙を嵌め込めるようになっていたりするが、わたしには興味がない。

ウォーター・キーの曲線が、トランペットの曲線と合わせてデザインされていたり、第3ヴァルヴ・スライドが部分的に外れるようになっていて、ツバ抜きがしやすいなど、つくりが丁寧であり、日本が誇るヤマハのトランペットも、このトランンペットと比較するとつくりが甘く、繊細さに欠ける。

雑誌『THE TRUMPET Vol.2』最新号では、このカンスタルのトランンペットの特集が組まれている。トランペット奏者アレクセイ・トカレフ氏がこのカンスタルのトランペットを愛用しているという。アメリカ人のつくるトランペットはヨーロッパのものに比べ劣るのではないか、と普通なら思ってしまうが、トランペットに限っては、それは当てはまらない。ジクマント・カンスタルによって鍛え上がられた技術は二人の息子たち、ジャックとマークに受け継がれ今日に至っている。

日本でも、カンスタルのトランペットを使うトランペット奏者が増えてくるのではないか?バックというトランペットに未だに多くのトランペット奏者が呪縛されているが、今後はカンスタル他、バック以外のメーカーが台頭してくるのではないか?

今年は、中盤に体調を崩し、十分トランペットの練習ができなかったが、新年からまた気持ちを新たに、トランペット(それにギター)の練習に励むつもりである。

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by kurarc | 2017-12-30 15:28

映画『さらば、わが愛/覇王別姫』再び

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映画『さらば、わが愛/覇王別姫』の感動がおさまりきれず、再びこの映画を観た。今度は冷静に物語を追っていった。

この映画が優れているのは、一言で言えば、歴史(ここでは中国現代史)と人間がよく描かれていることである。その人間も、男と男の友情から裏切り(造反)、男と男、男と女の愛に至るまで人間とその運命、暗部をえぐり出している。

この映画を観終わった時に感じたのは、溝口健二監督の『西鶴一代女』を観終わった時の感覚に近いということ。どちらとも人間の悲劇を容赦なく描ききっている点が共通していることと、映画の構成がラストシーンを導入部に持ってきていることも共通している。チェン・カイコー監督は溝口から影響を受けているのかもしれない。

わたしが最も気になったのは、ラストシーン。チャン・ティエイー(レスリー・チャン)がなぜ自死を選んだのか、ということである。一つは、京劇「覇王別姫」を現実の物語として生きてしまったチャン・ティエイーは、その京劇の物語と同様死を選んだ、つまりトァン・シャオロウへの愛を永遠とするため、とみる見方。もう一つは、トァン・シャオロウの裏切りに対する報復としての死、という見方である。

わたしはこの二つのどちらでもなく、どちらでもあると思わせるラストシーンに感嘆したのである。このラストシーンをどのようにとるのかは観るものの感性に委ねられるしかない。それにしても、あまりにも激しく悲しい映画である。



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by kurarc | 2017-12-11 20:48

21世紀のものづくり Fabスペースの広がり

慶應義塾大学環境情報学部教授、田中浩也氏のお話を聞く機会があった。田中氏は、ここ10年において世界的に広がりつつあるFabスペースの可能性を研究している研究者である。

この10年のものづくりの大きな変化の一つに3Dプリンターやレーザーカッターが個人で購入できる価格帯に変化してきたこと、また、こうした機器を常備した工房、Fabスペースが日本各地(世界各地にも)に出現していることがあげられる。2016年年末時点で全国に120ほどのFabスペースが存在する、と田中氏は言っていた。

それだけでは、工房が各地にできただけのことだが、こうした工房がインターネットを通じて世界各国につながり、世界のつくり手と情報交換が行われ、ものづくりが個人から共創性を持つ様態に変化していることである。それは、ソフトのプログラムが公開され、その改良のため多くの人間が参加、日々進化していくようなソフトのあり方が、そのままものづくりに応用されている感覚に近い。

もはや個人で閉じたものづくりではなく、参加型のものづくりの体制がつくられつつあるということである。さらに、こうしたFabスペースでは、誰が教え、誰が学ぶかと言った立場の境界は消え、誰もが生徒であり教師であるような立場に変化し、その中で様々なコミュニケーションが生まれる場がかたちづくられているという。

藤沢の慶応大キャンパス内の図書館にはすでに16台の3Dプリンター類が配備されているという。図書館は本を読む、調べると言ったスペースから、工房を併せ持つ創造するスペースとして、再定義されているのである。

こうした変化は興味深いことは確かだが、優れた宮大工が木の性質を読みこみ、ものをつくっていくようなあり方とは根本的に異なる。共創はよいが、著作権はどうなるのか、とか、Fabで代替することができないものづくりはどうなるのか、とか多くの疑問が湧いてくることも確かである。

self-helpでものをつくることの可能性とその限界、落とし穴などが今後、個人によるものづくりが進むにつれて、明らかになってくることだろう。機械を利用した一つのものづくりのあり方が加速度的に進みつつあることは確かである。

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by kurarc | 2017-10-07 21:24

『雑学者の夢』(多木浩二著) を読む

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この夏は、計4つの中編、長編小説とフランス語、音楽理論の学習、そして、この多木先生の書物を読むことを計画していた。

一応、すべて一通り学ぶことができたのだが、(音楽理論は中途半端になった)タイトルの多木先生の書物は、多木先生の中でかなり特殊な書物である。晩年の書物(出版されたのは76歳の時)でもあり、多木先生が、どのような書物を学び、読解してきたかの告白、回想であり、紹介でもある。

バルト、ソシュールからバンヴェニストといった哲学者、言語学者、ベンヤミン、そして、フーコーを中心に言及されているが、彼らに連関する名だたる人名が数多く登場する。わたしには理解も及ばない知的な世界であるが、多木先生は、こうした知的世界を逍遥しながら、自らの世界を構築していったことがよく理解できた。

この書物を読んだ限り、やはり多木先生は、早い時期にフランスの思想家、特に、ロラン・バルトから多くの刺激を受けたことが理解できる。さらに、「ヨーロッパの認識論の解体」をするものとしてのフーコーから自己批判をするようになったことが赤裸々に語られている。追いつこうとしていたものから、突き放されるような感覚を味わったのかもしれない。

決して自己を直接語る書物ではないが、知的に自己を表現している。先生は、最後まで知の巨人であり、紳士であったのだと思う。

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by kurarc | 2017-09-05 19:56

ブログ 長期休暇

ブログを当面(8月末くらいまで)お休みすることにします。いろいろとやらなければならないことが増えてきましたので、それが一旦落ち着いてから、また改めて再開しようと思います。

再開は9月からの予定です。

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by kurarc | 2017-07-19 23:08

私淑

武蔵野美術大学で受講している島崎信先生の椅子の講義は、質の高い講義である。先生はすでに80も半ばというご高齢にもかかわらず、精力的な講義を聞かせていただいている。

講義自体ももちろん興味深いのだが、講義終了後、ムサビ内の食堂で有志とともにコーヒーブレイクも兼ねて雑談をしてくださる。講義に参加している25名ほどの中で、この雑談に参加するのは7〜8名であるが、この雑談の中で、先生の過去の体験など貴重なお話しを聞かせていただいている。

昨日、講義後の雑談の中で色々と興味深いお話を伺うことができたが、その一つ、デザイナーはデザインができるのは当たり前、そして、デザインは人と人との付き合いの中でできるものなのだから、そうしたデザインができなければならない、つまり、自分自身のデザインをしなさい、ということ。

そして、若いデザイナーにアドバイスした言葉に、「私淑しなさい」ということ。「私淑」とは、文学作家になりたいと思うのであれば、目標にすべき人物、例えば夏目漱石と定めたならば、その漱石の生涯をたどって、どうしてあのような偉大な作家になれたのか調べなさい、また、どのような挫折を味わったかについてまでも調べなさい、そして、その作家のようになることを30年後くらいに思い浮かべ努力しなさい、とのアドバイスをされていた。

わたしにはすでに時遅し、ということなのかもしれないが、逆にいうと、私淑できない人、何が目標かを定めることができないならば、その人はそれまでだ、ということだと思う。当たり前のことだが、目標を持ち、それに近づくべく努力するということはどのような分野の人間にも必要なことだということである。

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by kurarc | 2017-07-16 14:14

父親世代

わたしは比較的若い時に父親をなくしたせいかもしれないが、最近、父親世代の人間の言説を注視するようになっている。世代としては1920年代から1930年代前半生まれの人たちである。わたしの歳であると、およそそのような年代の人が父親の世代となる。わたしの父は1910年代の生まれだが、1920年代生まれの人間は特に、多感な時期に第二次大戦に深く関わった世代である。わたしの両親も多くの悲劇を体験した世代となる。

父は内地での配属であったから、海外で戦ったといった経験はないが、父の弟(叔父)は、軍の訓練、教育によって神経が衰弱し、社会に不適応な人間になってしまった。叔父は結局、メッキ工場で細々と雇われ、死んでいった。

最近、打ち合わせスペースを借りているオフイスで、同じスペースを借りている方々と話す機会があった。その中にイスラエルと仕事をされている方がいて、イスラエルでは男女ともに徴兵制があることを知る。彼に言わせれば、こうした緊張感のある国ともし戦争になれば、日本など絶対に勝ち目はないと言っていた。軍事産業にエリートのエンジニアが集まる国、それがイスラエルだというのである。

父から多くの戦争体験を聞くこともなく、父は死んでいったが、精神的なトラウマから抜け出せていたのか、今となっては知るすべもない。父は気の弱い叔父がわたしの実家に来るたびにしっかりするよう叱り付けていたが、わたしはその様子がかわいそうで仕方なかった。幼かったわたしを見るのを楽しみに来ていたのを知っていたからである。叔父はわたしを見ると安心した様子で、また職場に帰っていく。

こんな経験をした世代ももう私たちで終わりだろう。私たちの親の世代が、直接に戦争というものを語らず、何を伝えようと必死に努力してきたのか、そのことを学んでいるこの頃である。



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by kurarc | 2017-06-13 00:39


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