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カテゴリ:archives1984-1985( 17 )

グランドツアー/16 ウィーン 1984/08/08-08/12

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フィレンツェからウィーンに入る。ドイツ語圏の都市に初めて訪れたことになる。まず、その都市の美しさに魅了された。イタリアの都市とはまた質の異なる美しさ、都市に張りつめた緊張感の漂うような美しさであった。

宿はユースホステルを初めて利用した。4人、5人の共同部屋(ドーミトリー)で、家庭的な感じの心地よいユースホステルであった。この宿で日本人画家の方とお会いし、ダ・ヴィンチやラファエロの話など、美術館に行っては模写を繰り返している、といった話をお聞きする。

ウィーンにはすばらしい建築が数多く存在するが、まずはオットー・ワグナーの建築の数々を見学。その後、アドルフ・ロース、ホフマンやカール・エーン(ワグナーの弟子)の集合住宅(カール・マルクス・ホーフ)などを見学。ベートーベンの家にも立ち寄った。旅行ノートによると、ウィーンでは道路を横断しようとすると車がかならずといってよいほど一時停止をしてくれる、とある。市民が非常に礼儀正しく親切であった。

また、市電が多く残る街としてウィーンは有名であり、その市電を使い、主な名所に出かけることができた。市電も大きな幹線道路を通るだけでなく、郊外の整備された住宅地の幅5メートル程の街路にも延びていて、ベートーベンの家も市電を使って訪ねた。後に、リスボン、ミラノなど市電の多く残る都市と出会うが、このウィーンの市電の優雅さは忘れられない。

ウィーンは8月であったが、すでに肌寒く、確かこの街で防寒着を買った記憶がある。寒さが気になる季節に入っていた。

*上写真、ワグナーの郵便貯金局内部、下写真、カール・マルクス・ホーフ。
ホーフ(hof)とはドイツ語で中庭をもつ住居タイプを示す。カール・マルクス・ホーフはウィーンの戦間期(第一次大戦と第二次大戦間)、社民党政権下における記念碑的な集合住宅。ナチスとの抵抗の砦となったことで有名。

*カール・マルクス・ホーフについては沖縄でお世話になった建築家、末吉栄三さんがすばらしい文章を書いています。詳しくはこちらを参照ください。

*私はこのブログでたびたび書いているが、感性だけで建築を判断していたら、カール・マルクス・ホーフのような建築物は蚊帳の外に置かれてしまうだろう。都市には、その都市の歴史を考えた時、必ず見学に訪れるべき建築物が存在する。カール・マルクス・ホーフはそのような建築物の代表的事例と言える。
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by kurarc | 2013-08-31 18:22 | archives1984-1985

グランドツアー/15 シエナほか 1984/07/31-08/08

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archives1984-1985は久しぶりの更新となる。

29年前の今頃、私は南イタリアを巡り、イタリアを北上し始めた時期であった。以後、オーストリア、ドイツ、北欧などを廻って、再びイタリアに戻ることになる。この時点で既にイタリアには魅了されていた。ドイツもイタリアと同等の時間をかけて旅をするが、イタリアをはじめとするラテン諸国への志向を変えるにまでには到らなかった。

シエナ、オルヴィエート、サン・ジミニャーノを駆け足で旅していた。シエナとオルヴィエートは、ポルトガル滞在中の1999年に再度訪れた。シエナのカンポ広場の強烈な印象と、煉瓦によって築かれた重厚な街が忘れられなかったこと、さらに1984年、ある日本人にお会いしていたのだが、シエナの祭り、パーリオ(競馬の祭り)の観戦のため、一月前から滞在していることを聞いた。それほどの価値のある祭りなのか、と驚いたが、このとき、いつかはパーリオの観戦に訪れたいと思い、ポルトガル滞在中の1999年にその祭りのために、フィレンツェから日帰りで再度シエナを訪れることになる。真夏の猛暑と人ごみの中の観戦は苦労したが、忘れられない祭りとなった。

オルヴィエートは小さい街ながら、空中都市のような城塞都市であり、駅からケーブルカーに乗り、街の中心まで向かうのだが、中世をそのまま残したような街とケーブルカーという現代的な装置の調和がとれていることに驚かされた。ケーブルカーは1984年の時点で、車いすでも余裕を持って乗車できる仕様になっていて、日本のケーブルカーがいかに遅れているか思い知らされた。街の中は時が止まったかのように穏やかで、ブドウ棚の下で食事をしたレストランの心地よさが忘れられず、ポルトガルから再度訪れたときに、このレストランを探したのだが、みつけることはできなかった。

シエナの街に私はフィレンツェ以上に興味をもった。山岳都市といってよい街であり、起伏を巧みに利用した街路、広場など他のイタリアの都市と比較しても、この街に匹敵する都市を見いだすことはできない。海に開かれた都市としてベネツィアを挙げるとすれば、山に開かれた都市としてはこのシエナがイタリアでは最も記憶に残った。

いよいよこのあと、イタリアを出て、ウィーン、ミュンヘンなど北へ向かうことになる。
(写真上:シエナ、カンポ広場 下:カンポ広場、大聖堂より 最後:オルヴィエート大聖堂)

*オルヴィエートはサン・パトリツィオの井戸が有名。二重螺旋の階段をもつ。アントニオ・ダ・サンガッロの設計による。
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by kurarc | 2013-08-21 20:47 | archives1984-1985

グランドツアー/14 南イタリア ナポリほか 1984/07/27-07/30

久しぶりのarchivesの更新である。

ローマを後にして、一気に南のナポリへ下る。「ナポリを見て死ね」ということわざがあるが、このときナポリは見ることができたが、旅に出ておよそ1ヶ月半経ち、初めての高熱にうなされることになる。ナポリという都市に力負けしたのかもしれない。(以後熱を出したのは、ガルダイヤ(アルジェリア)、イスファハン(イラン)、アーメダバード(インド)の3都市。)

ナポリのユースホステルで一日寝込み、汗をたくさん出して、翌日には回復したが、あまり無理はしなかった。ナポリでは普通美味しいものを食べるのが常識なのだろうが、ここでもピッツァをつまんだことしか記憶にない。長い旅にはこういう都市もいくつか出てくる。それは避けられないのである。

ナポリからアルベロベッロ(下写真)へ向かう。最近ではよくテレビで紹介される都市となった。1984年当時も観光地としてすでに世界では知られていたせいか、この都市で非常に悲しい経験をした。

町を歩いていると、民家からおばさんが中へ入って見てよい、というようなジェスチャーをするので、住居内部を見学させてもらう。そして、見学の後、玄関を出た瞬間、手が出てきた。つまり、金をよこせ、というのである。

こうした経験は初めてだったこともあり、若い旅人にはかなりショックであった。以後、気をつけなければという思いと、イタリアに対する不信感をいだいてしまう。私がイタリアを心底好きになれないのもこうした経験による。しかし、もとは旅人たちが迷惑をかけて、観光ズレしてしまったのだろうから、イタリアにはなんの責任もないことではあるのだろう。しかし、このような経験を頻繁にするのは初めての旅でイタリア以外にはなかった。

以後、イタリアの北へめがけて旅を続ける。ウィーンへ、そしてドイツへ向かうためであった。
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by kurarc | 2012-10-02 20:29 | archives1984-1985

グランドツアー/13 ローマ 1984/07/19-07/27

ローマは真夏だった。ローマに着いてまず驚いたのは、都市のいたるところに咲き乱れていた夾竹桃の花であった。この花は、台北ですでに出会っていたが、ここローマで再び見ることになるとは思ってもみなかった。この花でアジアとのつながりを感じ取ることになった。旅も1ヶ月半が過ぎ、暑さのため少し疲れが出てきていた。それはこの頃つけたメモをみるとよくわかる。メモの量がわずかで歩き回ることで精一杯になっていた。(次のナポリで第1回目の高熱に見舞われることになった)

ローマでは、
サン・ピエトロ大聖堂(システィーナ礼拝堂)
コロセウム
サン・カルロ・アッレ・クウァットロ・ファンターネ教会
サンタンドレア・アル・クイリナーレ教会
パラッツォ・マッシモ
サンティヴォー教会堂
ポルタ・ピア
パンテオン
カンピドリオの丘
オスティア(ローマの外港といえる都市遺跡)等々

西洋建築史の教科書に出てくる建築物を片っ端から観て歩いた。ローマはその後、ポルトガル滞在中にも訪ねたが、そのときの印象と重なりあっていることは、建築物が古代のスケールを引きずっているということだろう。わかりやすく言えば、階高が高いということである。フィレンツェで4階の建物が、ローマでは3階くらいといった感じだろうか。中世を起源としている都市ではないことから、街路の構造も複雑ではないが、歩いていて退屈することはなかった。都市の中には噴水をはじめとする水場やナヴォーナ広場などコミュニティスペースがうまく配置され、暑さを和らげてくれていた。

ローマの建築物の中で最も驚かされたのは、この時の旅ではパンテオン(下:トップライト写真)であったように思う。(その次はボロミーニの建築か)内部空間の陰翳とトップライトの輝きの対比には鳥肌のたつような感覚を味わった。それらは洗練された建築とは異なる肉感的、官能的な建築であり、空間であった。人間がつくり出したものに違いないが、その存在は超越しており、これが古代のリアリティなのだろうとパンテオンを観て感じたように思う。

暑さのあまり、昼間から歩きながら冷たいワイン(紙パック入)を飲んで、ローマを歩く感覚はたまらなく心地よかった。少しふらつきながら歩いた感覚は今でも思い出せるほどである。
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by kurarc | 2011-02-06 16:28 | archives1984-1985

グランドツアー/12 イタリア概観 1984/07/19-

旅もすでに1ヶ月以上が経っていた。パリからローマに移動したのは1984年7月19日。ここローマからイタリアの旅が始まろうとしていた。このグランドツアーにおいてイタリアには延べ2ヶ月の時間をかけた。

イタリアの旅の概要だが、

1)1984年0719-0808
2)1984年1015-1102
3)1985年0124-0129

の3期に分けて旅を行った。1)と2)の間には、ドイツ、北欧、フランス、ベルギー、オランダ、スイス等が、2)と3)の間にはスペイン、ポルトガル、北アフリカを廻ってからイタリアに戻った。
3)はシシリアの旅であり、チュニスから舟でシシリア島に渡った。ちょうど24歳の誕生日を迎えたときにパレルモに到着した。

すでに以前のグランドツアーの中でも述べたが、このイタリアの旅では、バーナード・ルドフスキー著『人間のための街路』という書物に出てくる都市は訪ねるように心がけた。南イタリアのマルティーナフランカといった都市を訪れることになるのもこの書物の影響による。

イタリアでは様々なことを経験した。カメラを盗まれそうになったこともあるし、一泊30円(当時200リラ)の宿に泊まったこともあった。残念なことに今では考えられないことだが、この旅ではイタリア料理を食べた記憶はない。ワインも紙パック入のものを歩きながら飲んだ。

旅においてまず節約できるものは食費と宿代、交通費である。イタリアではピッツァリアや総菜屋に入ったことはあるが、いわゆるイタリア料理店には一度も入っていない。そのくらい節約しなければ、1年間も旅を続けることはできない。宿代を浮かすには夜行バス、夜行列車を使った。そのツケは後のイランあたりの旅で身体に現れはじめ、とうとうインドでダウンするはめになった。

イタリアは都市、建築を勉強するための生きたテキストであった。都市を歩き回ることがこんなにも楽しいものなのか、ということを教えてくれたのはイタリアの個性的な都市、建築の経験による。
以後、まずはローマから話を始めることにしたい。
(下写真 ローマ スペイン広場)
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by kurarc | 2011-01-23 21:27 | archives1984-1985

グランドツアー/11 パリ郊外 1984/07/10-07/18

パリの最後の建築は、オーギュスト・ペレ設計によるノートルダム デュ ランシー(ランシーの教会)の紹介とした。

雨の中、少し迷いながらやっとの思いで探し当てたこのランシー教会(写真)の内部にはこの旅では入ることができなかった。この教会は1988年から外部のコンクリートとステンドグラスをはじめとした大規模な補修を行った。下の2枚の外部写真はその補修を行う前の写真であり、オリジナル時の写真となり、今となっては貴重な画像となった。(旅をしていると快晴の日に見学できるとは限らないので、かなり重い雰囲気になっている。)

この建築は内部に入らないと意味がなかったといってもよいが、外部からでもその建築の質の高さは感じられた。フレンチスタイルブログから画像を借りた内部写真を観て感じられるのは、その軽快なコンクリート打ち放しであり、ステンドグラスによる光の雫があふれるような透明感のある建築ということだろう。

さらに注意深くみると、3廊式のプランでありながら、その内部は一室空間に近い。いわばホールチャーチのような空間であるということも大きな特徴と言える。そのことがステンドグラスの面積を巨大にし、さらに劇的な空間を導きだしたのだろう。


パリのパンテオン近くに、何回かお世話になった中華料理屋があった。中年のフランス人のウエイターのいる店で、日本語のメニューもあり、おじさんは日本語も片言しゃべることができた。そのおじさんに会えるかもしれないと、11年ぶりにパリを訪ねた1995年にその店に行ってみたが、中華料理屋はなく、違う店になっていた。旅先でお世話になったレストラン、ホテルなど再度訪ねてみたいところは数多くある。中華料理屋がなくなったことは残念だったが、それでもヨーロッパは日本ほど急激な変化はなく、旅の思い出をつくるにはよい場所である。日本にはなつかしさがなくなることが多いが、海外にそれは存在することになる。

パリの後、いよいよイタリアへの旅となる。パリから一挙にローマまで移動し、その後、ほぼイタリア全土を旅することになった。(パリに次に戻ってきたのは、イタリアからドイツ、北欧の旅を終えておよそ2ヶ月後の1984年9月8日であった。)来年はイタリアの旅の紹介からこのカテゴリをはじめることにしたい。

*下内部写真はフレンチスタイルブログから借用いたしました。
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by kurarc | 2010-12-28 20:36 | archives1984-1985

グランドツアー/10 パリ 「ガラスの家」 1984/07/10-07/18

初めてのパリでは様々な建築を見学できた。前回はパサージュを紹介したが、今回は、ピエール・シャローの「ガラスの家」を紹介したい。

パリに行ったら必ず観ておきたい建築が「ガラスの家」であった。しかし、住所を調べ、現地に赴くと、中庭へ入る門が閉ざされており、残念ながらあきらめるしかない状況であった。門の前をうろうろしていると、ちょうど住人の方が門から出てきて、我々を見るやいなやすぐに察してくれたのか、中に入ってよいという許可をくれた。(中庭までで、ガラスの家の内部に入った訳ではない。)そのおかげで撮影できたのが下の写真である。

この住宅については、A.D.A.EDITA Tokyoから『ガラスの家:ダルザス邸』というすばらしい書籍が出版されている。この書籍は一日中眺めていてもあきることのない内容となっていて、この住宅の建設経緯から、写真、図面、ディテールに至るまで一冊に収まっている。

この書籍の内容を参考にこの住宅を分析していくと、この住宅に埋め込まれた論理や思考、あるいは既存の住宅を破壊することなくこの住宅を設計しなければならなかったという苦闘の痕跡などが浮かび上がってくる。

まず、この住宅を特徴づけるガラスブロック(ネヴァダ型ガラス・レンズ)は、当時発売されたばかりの商品であり、彼の大胆な使用方法の提案にガラス会社は保証を断ったという。シャローは、ガラスブロックを6×4の24個単位に分節し、その廻りにスチールのグリッド枠を設け、ガラスブロックに荷重を負担させることを避け、この素材の難題を切り抜けることになった。こうしてできたガラスブロックのパネルは、この建築内外を様々なパネルによって構成していくというコンセプトに結実していくことになる。

また、ガラスブロックの使用は、興味本位によるものでなく、奥深い中庭に面した住宅に採光をもたらすために選択された実用的な理由による。レンズの効果により、光は住宅の奥まで拡散し、日本の障子紙のような効果をもたらした。

さらに興味深いのは、このパネルの横巾寸法がちょうど91センチ(正確には912㎜)であり、日本で使われる半間の寸法にあたることである。彼の建築がなにか日本人にとって親しみやすいのは、偶然に選択された日本のモデュールとの近似によるのかもしれない。

鋼製の柱はよくみると、リベット接合とボルト接合が併用(上部の住宅を支持するために構法上選択されたものと思われる。部材はリベット接合で製作され、継手はボルト接合となっている。)され、スチールの接合部の防水に防水皮革の使用が見受けられる。また、アルミ、真鍮、スチール、ジュラルミンなど金属を適材適所に使用し、家具デザイナーであったシャローの力量を存分に発揮している。協働設計者として、オランダ人の建築家B・ベイフォートと、金属細工職人のL・ダルベの協力も大きかったに違いない。

20世紀の初頭に行われた「建築による建築の破壊」は、この「ガラスの家」が一役買ったことは間違いないだろう。
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by kurarc | 2010-10-10 01:11 | archives1984-1985

グランドツアー/09 ロンドンからパリへ 1984/07/10-07/18

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*写真は、パサージュ・ジュフロワ内グレヴァン蝋人形館の出口。私が訪ねた1984年時点では出口上部レリーフに彩色がなかった(上写真)が、鹿島氏の本(後述)では、彩色されている。出口左手は、オテル・ショパンの入口。シュールレアリストの聖地とされたパサージュ。

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1984年7月9日の夜、ロンドンを発ち、パリに10日早朝着。初めてのパリとなる。パリはロンドンに比べて古典主義の壮大な建築物が数多く存在するために、都市に威厳があることにまず驚いた。それはロンドンとの決定的な差異であった。

山田さん、渡部さんとの3人の旅(2009年12月27日のブログ参照)はまだ続いていた。我々はリュクサンブール公園近くの宿に泊まり、ここを拠点に7月18日まで過ごすことになった。ロンドンでのイングリッシュ・ブレックファストは旅をするものにとっては、朝からベーコンエッグなどを食べることができ、腹持ちがよく、活動するには重宝したが、ここパリでの朝食は、クロワッサンとカフェオレへと変化した。朝7時くらいだっただろうか、老紳士が銀製のポットにホットミルクとコーヒー、それに人数分のクロワッサンを運んでくれた。コーヒーとクロワッサンがあまりにもおいしいせいか、これはこれで満足するものであった。

パリでは、まずは、コルビュジェやペレー、マレ・ステヴァンス、アドルフ・ロースらの近代建築や、ルドゥーの関門などを見学。また、パサージュを14箇所(+ギャラリー1箇所)見学する。

パサージュは、1984年時点ではかなり寂れていた。鹿島茂著の『パリのパサージュ』(コロナ・ブックス、平凡社)によれば、ベンヤミンの『パサージュ論』が1982年に出版されたことで、20世紀転換期にはかなり活性化したようだが、この当時、いくつかは廃墟に近いものも存在した。(1995年にパリを旅したときにはパサージュはかなり活気に満ちていたように感じた。)
鹿島茂氏前掲書によれば、通常我々が思い浮かべるパサージュは、パサージュ・クヴェールpassage couvert(ガラスの屋根で覆われたパサージュ)で、単にパサージュとういうときには、通り抜けという意味しかもたないという。

鹿島氏のパサージュ・クヴェールの定義によれば、

1:道と道を結ぶ、自動車の入り込まない、一般歩行者用の通り抜けで、居住者専用の私有地ではないこと。

2:屋根で覆われていること。

3:その屋根の一部ないしは全部がガラスないしはプラスチックなどの透明な素材で覆われており、空がみえること。

だという。

1の定義から、袋小路は除かれ、ヴィッラvillaなどの居住者専用の私道も除かれるという。また、2の定義から、露天の通り抜けもパサージュ(クヴェール)ではないことになる。また、3の定義から、ビルのなかのモールのような空間も除かれることになるそうだ。

パリはこのパサージュを見学に行くだけでも意義のあるくらい、濃密な都市であった。グランドツアー時には合計3回に渡ってパリを訪ねることになる。異なる季節に訪れることができたこともあるが、この都市は何時行っても、なにか郷愁のようなもの感じ、繰り返し訪ねたくなる都市の一つとなった。パリでは多くのものを見学できたので、数回にわたり紹介することにしたい。

*この旅(1984年)で訪ねたパサージュは以下の通り。
01)PASSAGE DES PRINCES
02)PASSAGE DE L'INDUSTRIE
03)PASSAGE BRADY
04)PASSAGE REILAC
05)PASSAGE DES PETITES-ECURIES
06)PASSAGE DU DESIR
07)PASSAGE DU GRAND CERF
08)PASSAGE PONCEAU
09)PASSAGE PRADO
10)PASSAGE VERDEAU
11)PASSAGE JOUFFOY
12)PASSAGE CHOISEUL
13)PASSAGE DU PERRON
14)PASSAGE DAUPHLNE
15)GALERIE VERO-DODAT

*その他、パリのパサージュの起源、歴史等ついては、鹿島氏の著書を参考にしていただきたい。
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by kurarc | 2010-09-26 23:40 | archives1984-1985

グランドツアー/08 グラスゴーからロンドンへ 1984/07/04-07/09

初めてのイギリスの旅もいよいよ終盤に差し掛かっていた。グラスゴーからロンドンへ帰る途中、リバプールやオクスフォードに立ち寄ったが、このあたりの記憶は曖昧で、メモにもほとんど記述がない。この間、当時の新しい建築物をいくつか訪ねているが、その中でも重要なものが、建築家ノーマン・フォスターのルノー社部品配送センター(下写真、上から2枚目まで)、建築家ジェームズ・スターリングのレスター大学工学部棟(内部写真、下)である。

この二つの建築物は、デザインの質はかなり差はあるが、大胆な屋根の構造に共通した特徴がみられる。フォスターのデザインは、大地に鉄骨のテントを広げたような建築で、そのデザインの密度には圧倒された。

建築家磯崎新さんの著作で有名となったスターリングのデザインは、直方体上のガラスの箱を45度傾け連結し、屋根とした大胆なもので、鉱物的なデザインはフォスターのデザインとは異なるが、両者ともに既製の屋根や開口部、壁といった概念を払拭し、「皮膜」の概念に近づいた建築をつくっていたのは新鮮であった。旅行メモにも「ガラスの皮膜」という言葉が記されていて、この約3ヶ月後訪ねることになる建築家フライ・オットーのミュンヘン・オリンピック競技場とのつながりを類推させた。(スターリング氏には、この約3ヶ月後、シュトゥッツガルト美術館を訪ねたときに偶然、お会いすることになる。)

初めてのヨーロッパとしてイギリスの旅は感動の連続であったが、この当時、理解しがたい面も数多く目にした。その一つが、休日の広場のゴミである。休日の夕方、イギリスのスクウェアーに行くと、きれいな芝生の上はゴミの山となっていた。美しい田園風景とこのゴミの山の汚さ、地下鉄駅の汚さなどは理解できないものであった。25年以上前の話だが、現在はどうなっているのだろうか?
(11年前にロンドンに滞在したときは、それほどゴミは気にならなかったように思う。)

この後、ロンドンからドーバー海峡を鉄道を乗せた船で渡り、いよいよパリに向かうことになる。プラス面、マイナス面などいろいろ換算しても、初めてヨーロッパの空気を味あわせてくれたロンドンという都市は一生忘れられないだろう。
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by kurarc | 2010-09-01 22:31 | archives1984-1985

グランドツアー/07 ケンブリッジからグラスゴーへ 1984/07/03-07/04

グラスゴーへ行った目的は、建築家チャールズ・レイニー・マッキントッシュの仕事を見学することであった。大学時代、マッキントッシュの水彩画の模写の課題があったこともあり、彼の作品は非常に印象に残っていたためである。

旅行中のメモによれば、まずHill Houseを見学に行った。しかし、このHill Houseのインテリアについては本でみていたのとは印象が異なり、家具の色彩など稚拙な感じが目立ち、インテリアのメンテナンスもよい状態ではなく、あまり感心しなかったこと、むしろ、このHill Houseについては、プランと外観のボリュームの連結の巧みさに興味を覚えたことが記されている。

7月4日に朝一番で、Willow Tea Roomへ向かう。このティールームでは装飾は勿論のこと、グランドフロアから続く階段とその上に広がるトップライトの心地よさや、プランに感心が注がれた。その後、Glasgow School of Artを見学に行くが、この仕事がマッキントッシュの集大成といえるものであることを確認する。

マッキントッシュの仕事は、装飾的で繊細であることと同時に、光の取り入れ方やプランがしっかりしていること、つまり、装飾を支えるベースがしっかりしていることが彼の作品をよりすぐれた建築にしていることに改めて気付かされた。そのことがこの見学での大きな収穫であった。現在であれば、彼の装飾をケルト文化から読み解くような発想も可能であろうが、このときはそのような余裕は全くなかった。
その後、エジンバラにも立ち寄りながら、またロンドンへの帰路へ。
(下の写真は、ウィロウティールームから2枚、グラスゴー美術学校から2枚、トップライトを中心に。いつもながら26年前のポジフィルムからの画像なので、あまりきれいではありませんが、ご容赦ください。)

*このブログ記事を書いているとき、マッキントッシュを検索していると、イングリッシュ・ローズの中に、この建築家と同名のバラがあることをはじめて知った。

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by kurarc | 2010-07-15 11:50 | archives1984-1985


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