ローマは真夏だった。ローマに着いてまず驚いたのは、都市のいたるところに咲き乱れていた夾竹桃の花であった。この花は、台北ですでに出会っていたが、ここローマで再び見ることになるとは思ってもみなかった。この花でアジアとのつながりを感じ取ることになった。旅も1ヶ月半が過ぎ、暑さのため少し疲れが出てきていた。それはこの頃つけたメモをみるとよくわかる。メモの量がわずかで歩き回ることで精一杯になっていた。(次のナポリで第1回目の高熱に見舞われることになった)
ローマでは、 サン・ピエトロ大聖堂(システィーナ礼拝堂) コロセウム サン・カルロ・アッレ・クウァットロ・ファンターネ教会 サンタンドレア・アル・クイリナーレ教会 パラッツォ・マッシモ サンティヴォー教会堂 ポルタ・ピア パンテオン カンピドリオの丘 オスティア(ローマの外港といえる都市遺跡)等々 西洋建築史の教科書に出てくる建築物を片っ端から観て歩いた。ローマはその後、ポルトガル滞在中にも訪ねたが、そのときの印象と重なりあっていることは、建築物が古代のスケールを引きずっているということだろう。わかりやすく言えば、階高が高いということである。フィレンツェで4階の建物が、ローマでは3階くらいといった感じだろうか。中世を起源としている都市ではないことから、街路の構造も複雑ではないが、歩いていて退屈することはなかった。都市の中には噴水をはじめとする水場やナヴォーナ広場などコミュニティスペースがうまく配置され、暑さを和らげてくれていた。 ローマの建築物の中で最も驚かされたのは、この時の旅ではパンテオン(下:トップライト写真)であったように思う。(その次はボロミーニの建築か)内部空間の陰翳とトップライトの輝きの対比には鳥肌のたつような感覚を味わった。それらは洗練された建築とは異なる肉感的、官能的な建築であり、空間であった。人間がつくり出したものに違いないが、その存在は超越しており、これが古代のリアリティなのだろうとパンテオンを観て感じたように思う。 暑さのあまり、昼間から歩きながら冷たいワイン(紙パック入)を飲んで、ローマを歩く感覚はたまらなく心地よかった。少しふらつきながら歩いた感覚は今でも思い出せるほどである。 ![]()
旅もすでに1ヶ月以上が経っていた。パリからローマに移動したのは1984年7月19日。ここローマからイタリアの旅が始まろうとしていた。このグランドツアーにおいてイタリアには延べ2ヶ月の時間をかけた。
イタリアの旅の概要だが、 1)1984年0719-0808 2)1984年1015-1102 3)1985年0124-0129 の3期に分けて旅を行った。1)と2)の間には、ドイツ、北欧、フランス、ベルギー、オランダ、スイス等が、2)と3)の間にはスペイン、ポルトガル、北アフリカを廻ってからイタリアに戻った。 3)はシシリアの旅であり、チュニスから舟でシシリア島に渡った。ちょうど24歳の誕生日を迎えたときにパレルモに到着した。 すでに以前のグランドツアーの中でも述べたが、このイタリアの旅では、バーナード・ルドフスキー著『人間のための街路』という書物に出てくる都市は訪ねるように心がけた。南イタリアのマルティーナフランカといった都市を訪れることになるのもこの書物の影響による。 イタリアでは様々なことを経験した。カメラを盗まれそうになったこともあるし、一泊30円(当時200リラ)の宿に泊まったこともあった。残念なことに今では考えられないことだが、この旅ではイタリア料理を食べた記憶はない。ワインも紙パック入のものを歩きながら飲んだ。 旅においてまず節約できるものは食費と宿代、交通費である。イタリアではピッツァリアや総菜屋に入ったことはあるが、いわゆるイタリア料理店には一度も入っていない。そのくらい節約しなければ、1年間も旅を続けることはできない。宿代を浮かすには夜行バス、夜行列車を使った。そのツケは後のイランあたりの旅で身体に現れはじめ、とうとうインドでダウンするはめになった。 イタリアは都市、建築を勉強するための生きたテキストであった。都市を歩き回ることがこんなにも楽しいものなのか、ということを教えてくれたのはイタリアの個性的な都市、建築の経験による。 以後、まずはローマから話を始めることにしたい。 (下写真 ローマ スペイン広場) ![]()
パリの最後の建築は、オーギュスト・ペレ設計によるノートルダム デュ ランシー(ランシーの教会)の紹介とした。
雨の中、少し迷いながらやっとの思いで探し当てたこのランシー教会(写真)の内部にはこの旅では入ることができなかった。この教会は1988年から外部のコンクリートとステンドグラスをはじめとした大規模な補修を行った。下の2枚の外部写真はその補修を行う前の写真であり、オリジナル時の写真となり、今となっては貴重な画像となった。(旅をしていると快晴の日に見学できるとは限らないので、かなり重い雰囲気になっている。) この建築は内部に入らないと意味がなかったといってもよいが、外部からでもその建築の質の高さは感じられた。フレンチスタイルブログから画像を借りた内部写真を観て感じられるのは、その軽快なコンクリート打ち放しであり、ステンドグラスによる光の雫があふれるような透明感のある建築ということだろう。 さらに注意深くみると、3廊式のプランでありながら、その内部は一室空間に近い。いわばホールチャーチのような空間であるということも大きな特徴と言える。そのことがステンドグラスの面積を巨大にし、さらに劇的な空間を導きだしたのだろう。 パリのパンテオン近くに、何回かお世話になった中華料理屋があった。中年のフランス人のウエイターのいる店で、日本語のメニューもあり、おじさんは日本語も片言しゃべることができた。そのおじさんに会えるかもしれないと、11年ぶりにパリを訪ねた1995年にその店に行ってみたが、中華料理屋はなく、違う店になっていた。旅先でお世話になったレストラン、ホテルなど再度訪ねてみたいところは数多くある。中華料理屋がなくなったことは残念だったが、それでもヨーロッパは日本ほど急激な変化はなく、旅の思い出をつくるにはよい場所である。日本にはなつかしさがなくなることが多いが、海外にそれは存在することになる。 パリの後、いよいよイタリアへの旅となる。パリから一挙にローマまで移動し、その後、ほぼイタリア全土を旅することになった。(パリに次に戻ってきたのは、イタリアからドイツ、北欧の旅を終えておよそ2ヶ月後の1984年9月8日であった。)来年はイタリアの旅の紹介からこのカテゴリをはじめることにしたい。 *下内部写真はフレンチスタイルブログから借用いたしました。 ![]() ![]() ![]()
初めてのパリでは様々な建築を見学できた。前回はパサージュを紹介したが、今回は、ピエール・シャローの「ガラスの家」を紹介したい。
パリに行ったら必ず観ておきたい建築が「ガラスの家」であった。しかし、住所を調べ、現地に赴くと、中庭へ入る門が閉ざされており、残念ながらあきらめるしかない状況であった。門の前をうろうろしていると、ちょうど住人の方が門から出てきて、我々を見るやいなやすぐに察してくれたのか、中に入ってよいという許可をくれた。(中庭までで、ガラスの家の内部に入った訳ではない。)そのおかげで撮影できたのが下の写真である。 この住宅については、A.D.A.EDITA Tokyoから『ガラスの家:ダルザス邸』というすばらしい書籍が出版されている。この書籍は一日中眺めていてもあきることのない内容となっていて、この住宅の建設経緯から、写真、図面、ディテールに至るまで一冊に収まっている。 この書籍の内容を参考にこの住宅を分析していくと、この住宅に埋め込まれた論理や思考、あるいは既存の住宅を破壊することなくこの住宅を設計しなければならなかったという苦闘の痕跡などが浮かび上がってくる。 まず、この住宅を特徴づけるガラスブロック(ネヴァダ型ガラス・レンズ)は、当時発売されたばかりの商品であり、彼の大胆な使用方法の提案にガラス会社は保証を断ったという。シャローは、ガラスブロックを6×4の24個単位に分節し、その廻りにスチールのグリッド枠を設け、ガラスブロックに荷重を負担させることを避け、この素材の難題を切り抜けることになった。こうしてできたガラスブロックのパネルは、この建築内外を様々なパネルによって構成していくというコンセプトに結実していくことになる。 また、ガラスブロックの使用は、興味本位によるものでなく、奥深い中庭に面した住宅に採光をもたらすために選択された実用的な理由による。レンズの効果により、光は住宅の奥まで拡散し、日本の障子紙のような効果をもたらした。 さらに興味深いのは、このパネルの横巾寸法がちょうど91センチ(正確には912㎜)であり、日本で使われる半間の寸法にあたることである。彼の建築がなにか日本人にとって親しみやすいのは、偶然に選択された日本のモデュールとの近似によるのかもしれない。 鋼製の柱はよくみると、リベット接合とボルト接合が併用(上部の住宅を支持するために構法上選択されたものと思われる。部材はリベット接合で製作され、継手はボルト接合となっている。)され、スチールの接合部の防水に防水皮革の使用が見受けられる。また、アルミ、真鍮、スチール、ジュラルミンなど金属を適材適所に使用し、家具デザイナーであったシャローの力量を存分に発揮している。協働設計者として、オランダ人の建築家B・ベイフォートと、金属細工職人のL・ダルベの協力も大きかったに違いない。 20世紀の初頭に行われた「建築による建築の破壊」は、この「ガラスの家」が一役買ったことは間違いないだろう。 ![]() ![]() ![]() *写真は、パサージュ・ジュフロワ内グレヴァン蝋人形館の出口。私が訪ねた1984年時点では出口上部レリーフに彩色がなかった(上写真)が、鹿島氏の本(後述)では、彩色されている。出口左手は、オテル・ショパンの入口。シュールレアリストの聖地とされたパサージュ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1984年7月9日の夜、ロンドンを発ち、パリに10日早朝着。初めてのパリとなる。パリはロンドンに比べて古典主義の壮大な建築物が数多く存在するために、都市に威厳があることにまず驚いた。それはロンドンとの決定的な差異であった。 山田さん、渡部さんとの3人の旅(2009年12月27日のブログ参照)はまだ続いていた。我々はリュクサンブール公園近くの宿に泊まり、ここを拠点に7月18日まで過ごすことになった。ロンドンでのイングリッシュ・ブレックファストは旅をするものにとっては、朝からベーコンエッグなどを食べることができ、腹持ちがよく、活動するには重宝したが、ここパリでの朝食は、クロワッサンとカフェオレへと変化した。朝7時くらいだっただろうか、老紳士が銀製のポットにホットミルクとコーヒー、それに人数分のクロワッサンを運んでくれた。コーヒーとクロワッサンがあまりにもおいしいせいか、これはこれで満足するものであった。 パリでは、まずは、コルビュジェやペレー、マレ・ステヴァンス、アドルフ・ロースらの近代建築や、ルドゥーの関門などを見学。また、パサージュを14箇所(+ギャラリー1箇所)見学する。 パサージュは、1984年時点ではかなり寂れていた。鹿島茂著の『パリのパサージュ』(コロナ・ブックス、平凡社)によれば、ベンヤミンの『パサージュ論』が1982年に出版されたことで、20世紀転換期にはかなり活性化したようだが、この当時、いくつかは廃墟に近いものも存在した。(1995年にパリを旅したときにはパサージュはかなり活気に満ちていたように感じた。) 鹿島茂氏前掲書によれば、通常我々が思い浮かべるパサージュは、パサージュ・クヴェールpassage couvert(ガラスの屋根で覆われたパサージュ)で、単にパサージュとういうときには、通り抜けという意味しかもたないという。 鹿島氏のパサージュ・クヴェールの定義によれば、 1:道と道を結ぶ、自動車の入り込まない、一般歩行者用の通り抜けで、居住者専用の私有地ではないこと。 2:屋根で覆われていること。 3:その屋根の一部ないしは全部がガラスないしはプラスチックなどの透明な素材で覆われており、空がみえること。 だという。 1の定義から、袋小路は除かれ、ヴィッラvillaなどの居住者専用の私道も除かれるという。また、2の定義から、露天の通り抜けもパサージュ(クヴェール)ではないことになる。また、3の定義から、ビルのなかのモールのような空間も除かれることになるそうだ。 パリはこのパサージュを見学に行くだけでも意義のあるくらい、濃密な都市であった。グランドツアー時には合計3回に渡ってパリを訪ねることになる。異なる季節に訪れることができたこともあるが、この都市は何時行っても、なにか郷愁のようなもの感じ、繰り返し訪ねたくなる都市の一つとなった。パリでは多くのものを見学できたので、数回にわたり紹介することにしたい。 *この旅(1984年)で訪ねたパサージュは以下の通り。 01)PASSAGE DES PRINCES 02)PASSAGE DE L'INDUSTRIE 03)PASSAGE BRADY 04)PASSAGE REILAC 05)PASSAGE DES PETITES-ECURIES 06)PASSAGE DU DESIR 07)PASSAGE DU GRAND CERF 08)PASSAGE PONCEAU 09)PASSAGE PRADO 10)PASSAGE VERDEAU 11)PASSAGE JOUFFOY 12)PASSAGE CHOISEUL 13)PASSAGE DU PERRON 14)PASSAGE DAUPHLNE 15)GALERIE VERO-DODAT *その他、パリのパサージュの起源、歴史等ついては、鹿島氏の著書を参考にしていただきたい。
初めてのイギリスの旅もいよいよ終盤に差し掛かっていた。グラスゴーからロンドンへ帰る途中、リバプールやオクスフォードに立ち寄ったが、このあたりの記憶は曖昧で、メモにもほとんど記述がない。この間、当時の新しい建築物をいくつか訪ねているが、その中でも重要なものが、建築家ノーマン・フォスターのルノー社部品配送センター(下写真、上から2枚目まで)、建築家ジェームズ・スターリングのレスター大学工学部棟(内部写真、下)である。
この二つの建築物は、デザインの質はかなり差はあるが、大胆な屋根の構造に共通した特徴がみられる。フォスターのデザインは、大地に鉄骨のテントを広げたような建築で、そのデザインの密度には圧倒された。 建築家磯崎新さんの著作で有名となったスターリングのデザインは、直方体上のガラスの箱を45度傾け連結し、屋根とした大胆なもので、鉱物的なデザインはフォスターのデザインとは異なるが、両者ともに既製の屋根や開口部、壁といった概念を払拭し、「皮膜」の概念に近づいた建築をつくっていたのは新鮮であった。旅行メモにも「ガラスの皮膜」という言葉が記されていて、この約3ヶ月後訪ねることになる建築家フライ・オットーのミュンヘン・オリンピック競技場とのつながりを類推させた。(スターリング氏には、この約3ヶ月後、シュトゥッツガルト美術館を訪ねたときに偶然、お会いすることになる。) 初めてのヨーロッパとしてイギリスの旅は感動の連続であったが、この当時、理解しがたい面も数多く目にした。その一つが、休日の広場のゴミである。休日の夕方、イギリスのスクウェアーに行くと、きれいな芝生の上はゴミの山となっていた。美しい田園風景とこのゴミの山の汚さ、地下鉄駅の汚さなどは理解できないものであった。25年以上前の話だが、現在はどうなっているのだろうか? (11年前にロンドンに滞在したときは、それほどゴミは気にならなかったように思う。) この後、ロンドンからドーバー海峡を鉄道を乗せた船で渡り、いよいよパリに向かうことになる。プラス面、マイナス面などいろいろ換算しても、初めてヨーロッパの空気を味あわせてくれたロンドンという都市は一生忘れられないだろう。 ![]() ![]() ![]()
グラスゴーへ行った目的は、建築家チャールズ・レイニー・マッキントッシュの仕事を見学することであった。大学時代、マッキントッシュの水彩画の模写の課題があったこともあり、彼の作品は非常に印象に残っていたためである。
旅行中のメモによれば、まずHill Houseを見学に行った。しかし、このHill Houseのインテリアについては本でみていたのとは印象が異なり、家具の色彩など稚拙な感じが目立ち、インテリアのメンテナンスもよい状態ではなく、あまり感心しなかったこと、むしろ、このHill Houseについては、プランと外観のボリュームの連結の巧みさに興味を覚えたことが記されている。 7月4日に朝一番で、Willow Tea Roomへ向かう。このティールームでは装飾は勿論のこと、グランドフロアから続く階段とその上に広がるトップライトの心地よさや、プランに感心が注がれた。その後、Glasgow School of Artを見学に行くが、この仕事がマッキントッシュの集大成といえるものであることを確認する。 マッキントッシュの仕事は、装飾的で繊細であることと同時に、光の取り入れ方やプランがしっかりしていること、つまり、装飾を支えるベースがしっかりしていることが彼の作品をよりすぐれた建築にしていることに改めて気付かされた。そのことがこの見学での大きな収穫であった。現在であれば、彼の装飾をケルト文化から読み解くような発想も可能であろうが、このときはそのような余裕は全くなかった。 その後、エジンバラにも立ち寄りながら、またロンドンへの帰路へ。 (下の写真は、ウィロウティールームから2枚、グラスゴー美術学校から2枚、トップライトを中心に。いつもながら26年前のポジフィルムからの画像なので、あまりきれいではありませんが、ご容赦ください。) *このブログ記事を書いているとき、マッキントッシュを検索していると、イングリッシュ・ローズの中に、この建築家と同名のバラがあることをはじめて知った。 ![]() ![]() ![]() ![]()
ロンドンからバースの街へ移動する。この町を訪れた目的は、建築家ジョン・ウッド父子がバースの街に建築したロイヤル・クレセントやザ・サーカスと呼ばれるテラスハウスを見学することだった。
バースの街は鉱泉がでることから、ローマ人が駐屯地としてつくった街と言われている。湯浴みが健康によいということがジョージアン時代に流行し、ロンドンからやってくる家族を滞在させるための住居として多くのテラスハウスが建設された。(ヒュー・ブラウン著、『英国建築物語』)その中でも、ジョン・ウッドが活躍した18世紀はイタリアの建築家パッラーディオの再評価(パッラーディアニズム)が行われ、古典主義建築が復興した時期であった。 ウッドのロイヤル・クレセントと呼ばれる三日月型のテラスハウスやザ・サーカスと呼ばれる円形のテラスハウスには、古代ローマの建築を想起させるオーダー(柱の装飾)が付加され、住居でありながらも宮殿のような佇まいをみせていた。また、バース周辺には採石場があることから、これらのテラスハウスは石造であることも建築物に威厳を与えていた。 小さな丘に囲まれたバースの街の美しさが忘れられず、ポルトガル滞在中の1999年、ちょうど分子生物学研究のためロンドンに留学していた高校時代の同級生S夫妻と15年ぶりにバースを訪ねた。街のもつ心地よさは全く変化がなく、改めてよい街であることが確認できてほっとした。 バースに一泊した後、ケンブリッジへと向かう。当時ケンブリッジには恩師である英文学者I夫妻が滞在中であった。I先生は最近、ジョウゼフ・コンラッドの短編を翻訳され、ちくま文庫より出版された。ケンブリッジでは、建築家ジェームズ・スターリングの歴史学部校舎などを見学。この街では旅の出発にあたり一息つく場とし、後のスコットランドへの旅の計画を練ることに時間を費やした。 *写真上はロイヤル・クレセント全景。下はバースの街。写真は26年前のものなので画像が荒れていることをご了承ください。 ![]() ![]()
私にとって初めてのヨーロッパはロンドンという都市から始まった。Earl's Courtという駅の近くのペンションに宿泊し、そこからロンドンの遊歩を楽しんだ。
まず、驚いたのは乾燥した空気であった。湿気の多いタイのバンコクから着いたこともあったが、乾燥した初夏の空気は心地よかった。その空気感だけですっかりヨーロッパを感じてしまったほどであった。 メモによれば、6月24日はビクトリア駅からQueen's Gallery、St James Park、Trafalger Square、大英博物館、Rusell Squareをぬけ、Fundling Courtへ。帰りはSoho街からCovent Gardenを楽しみ、6月25日はEarl's Court駅からビクトリア駅まで歩いて行き、Tate Gallery、テムズ川を北上しBig Ben、Westminster Church、ジョン・ゾーン博物館を観てから再度Covent Gardenを訪ねた。はじめの2日間は歩くにまかせてロンドン市内を彷徨いながら、ロンドンの概要を把握し、残りの日にちで、Pimlicoのハウジング、Harlow New Town、Hampsteadなどニュータウン、田園都市(ガーデンシティ)の実例を見学に行く。 最終日の6月28日には、Royal Accademy内でクラシックギタリストのジョン・ウィリアムズのコンサートを楽しんだ。日本で彼のコンサートを聴くとすれば現在は5、6千円はかかるのだろうが、当時は3ポンド。日本円にしておよそ1,000円足らずで世界で3本の指に入るようなギタリストのコンサートを聴くことができたのは驚きであった。但し、ギャラリーにクッションを置き、日本間に座るようにあぐらをかいて聴くスタイルであった。 ロンドンは、テラスハウスあるいはローハウスと言われる都市住居や集合住宅、それに郊外のガーデンシティーを訪ねるなど建築と都市が不可分に結びついた有機的な都市の実例を直接経験することができたこと、また、都市の中に張り巡らされた様々なSquare(小さな公園)は、都市の緩衝帯として機能していることに興味をそそられたことがメモに残されていた。 ロンドンの次はBath(バース)へ移動する。 *写真は、グランドツアー時に撮影した26年前のコベントガーデンの風景 *ロンドンは当時から物価が高かった。ランチはLondon University内のBar等を利用した。メモには2ポンドとあるので、660円程度であったことがわかる。ちなみに朝食は2.2ポンドとあるので、約730円程度であった。 *このグランドツアーでは、ものとしての建築を見学するだけでなく、建築と都市、都市と交通、街路と都市など建築を取り巻く様々な関係を見学することに重点が置かれた。そうした意味で参考になったのは、バーナード・ルドフスキー著の『人間のための街路』の中に出てくる都市であり、この本に出てきた都市はピックアップし、できる限り訪れるようにした。 ![]() ![]()
1984年6月21日に台北からバンコクに到着した。前回のブログでお伝えしたように、バンコクは実質的には初めての海外の地となった。それからすでに26年が経過したが、グランドツアーの帰りに再びバンコクに戻って以来、バンコクには脚を運んでいない。噂には、東京のように何もかもがそろう大都会となったと聞くが、私が訪れたときのバンコクはそうではなかった。
まず驚いたのは、空港であった。空港を出ると一面に水田が広がり、水牛がゆっくりと水浴びをし、都心行きのバス停がぽつんと空港の前に立っていた。そこでいつ来るのかわからないバスを待つはめになった。しかし、都心へ近づくにつれて、のんびりした雰囲気は一掃され、スモッグと喧噪の街へ一気に変化していった。「アジアの都市」の壮絶さを初めて経験し、写真を撮ることも忘れ、街をさまようことになる。まるで夢の中の都市を歩いているような感覚を味わった。 翌日、すぐに安チケットを捜し、その夜、次の都市ロンドンに向かう。飛行機はルーマニアの航空会社(TAROM タロム航空)で、バンコク-アブダビ-ブカレスト-ブリュッセル-ロンドンというルートで飛行した。ロンドン着は23日の午前11時30分頃とメモ帳にある。 *その他、バンコクで驚いたのは非衛生的な街の風情であった。日本は世界でも珍しく「衛生上きれい」な街だが、バンコクは今まで経験したことのない汚さであった。(汚いということを非難しているわけではない。どちらかというと、きれいな都市(東京のような)の異常さを非難したい。)しかし、帰りにインドを経由して再びバンコクに戻って来たときには、インドのすさまじさを経験していたこともあり、きれいに感じられた。 *バンコクで宿泊したホテルは、HOTEL マレーシアであった。旅の最初くらいはと良いホテルに泊まった。(中庭にプールのある立派なホテルであった。3人で当時1泊374バーツ。1バーツが約11.5円であったので、1泊約4300円、一人1433円であった。) *このおよそ11ヶ月後、バンコクに戻ってきたときに泊まった安宿は、「楽宮」というバンコク駅近くの牢獄のような宿。1泊50バーツ、およそ575円であった。宿は2階にあり、1階には日本語のメニューのある安レストランがあった。ここは、当時、日本人のバックパッカーの常宿といってよいところであったと思う。(現在はすでにないのだろう。)この宿のトイレは、インド式。便器の脇の水槽に水がたまっていて、その水を汲んでおしりをきれいにしなければならなかった。 < 前のページ次のページ >
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