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カテゴリ:武蔵野-Musashino( 14 )

武蔵野と朝鮮

図書館から『柳田国男と武蔵野』という書物を借りてきた。立川柳田国男を読む会編によるものである。柳田は、武蔵野に興味をもっていたようで、特にそのどのような領域に興味をもっていたのか知りたかった。

柳田の時代には、武蔵野は、立川から北西の川越あたりまでを「本式の武蔵野」と意識していたようだ。国木田独歩の『武蔵野』の中にも、そのような記述があるから、共通した意識をもっていたということになる。わたしの現在住んでいる三鷹周辺は、柳田、国木田の頃には、すでに武蔵野の面影は痕跡程度にしか感じられなかったのだろう。

借りてきたこの書物の最初の章、「武蔵野概説」の中に、武蔵野という地名の由来について金達寿氏の説を紹介している。これには諸説あってどれが本当なのかわからないようだが、朝鮮語のムネサシ(宗城・主城)説-朝鮮帰化(帰化は柳田の言葉。渡来というべきか)族の中心を示す宗城・主城の意など、朝鮮と深い関わりがあったことは確かなようだ。

新座や志木、高麗といった渡来系の地名は、以前からもちろん知っていたが、わたしは武蔵野と朝鮮との関わりについて深く意識したことはなかった。

武蔵野のかすかな片鱗を訪ねて、西東京から川越あたりまでの一帯を、今度じっくりと散策してみる必要性があること、そして、武蔵野を知るには、朝鮮文化との連関についても考察しなければならないということである。

*柳田が『武蔵野の昔』を著したのは、大正7年頃。当時、国木田の影響もあり、武蔵野趣味が横行していたらしい。柳田はそれを、あまり好ましいものとは思っていなかった。柳田が『武蔵野の昔』を著したのは、武蔵野趣味から武蔵野研究を志すためであった。



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by kurarc | 2016-11-09 20:51 | 武蔵野-Musashino

紫紙金字金光明最勝王経

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今日は再び国分寺崖線界隈を散策した。お鷹のみちを歩いて行くと、その途中に資料館がある。初めて入館した。様々な古代からの遺物が展示されていたが、その中に、「紫紙金字金光明最勝王経」(上写真)のコピーが展示されていた。全国に建立された国分寺に必ずこの経を納めることが義務づけられていたのだという。

装飾経の一つであり、紫紙(しし)に金泥により写経されたものだという。備前の国のものと予想されるお経が全十巻完全に残っており、奈良国立博物館に保存されているのだという。

この金色に輝く文字は、金泥(金粉を膠水で溶いたもの)で書かれた後、乾かし、猪の牙で磨いたのだという。そうすると、黄金に輝きはじめるらしい。それも、猪の牙でなければ絶対にだめなのだそうだ。

写経された文字の美しさと、それを保存しようとする紫紙、金泥に猪の牙を使用するという古代の技術は、現代では考えづらい。このお経は現在でも黄金に輝いているということである。ハイテクと言う技術は、実はこのような古代技術の再評価から考えられるべきものではないか。

*国分寺とは、正しくは「「金光明四天王護国之寺」といい、『金光明最勝王経』信仰に基づき、四天王による国家鎮護を期待する国立寺院だった」のだそう。(e-国宝より引用)

*資料館には瓦や磚(せん)と呼ばれる古代の煉瓦も展示されていた。磚は巨大な煉瓦であり、主に、建築の基壇下の土を固めたり、1階床下等に敷き詰められた。西洋の赤煉瓦が近代日本に伝わったが、日本人はそれほど驚かなかったはずである。西洋煉瓦の数倍もの大きさの煉瓦を古代からつくっていたのだから。
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by kurarc | 2016-05-01 17:21 | 武蔵野-Musashino

日本造園学会の資料 武蔵野の別邸、別荘について

国分寺崖線やその沿線に分布した別邸、別荘などを調べていると、日本造園学会の発刊する『ランドスケープ研究』といった資料にぶつかる。今日は、そうしたこともあり、渋谷の中心に位置する日本造園学会の事務局に伺い、資料をコピーさせていただいた。

戦前の武蔵野地域に分布した別荘の立地等に関する資料他をコピーしたが、それによって、武蔵野地域に戦前分布していた別荘の立地理由がおおよそ理解できた。また、わたしが予想していた江戸の下屋敷をベースにしたのでは、という考えは、正解であったことがわかった。

武蔵野地区にあった別邸、別荘び利用形態は賓客接待型と近郊保養型のタイプに分類されるという。

A 賓客接待型(江戸の下屋敷をベースとする) 事例:王子飛鳥山の渋沢家別荘

B 近郊保養型

1)レクリエーションの拠点として 事例:玉川別邸(松方家、現 聖ドミニコ学園)

2)書斎として 事例:野口雨情の井の頭池畔別荘、岩崎小弥太の静嘉堂文庫

3)農園経営拠点として 事例:東郷平八郎の府中別荘(現東郷寺)

こうした立地が選択されたのは、健康志向、交通の発達、武蔵野という風景観の広がりといった要因によるものだという。わたしの地元では野口雨情が別荘をかまえていたことになるが、それはどのようなものであったのか、気になるところである。

*以上の内容は、日本造園学会『造園雑誌』55(5)の『戦前の武蔵野における別荘の立地とその成立背景に関する研究』、十代田朗他からの研究より引用した。
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by kurarc | 2016-04-06 16:28 | 武蔵野-Musashino

ハケ 下降する空間 滄浪泉園

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昼休みに武蔵小金井駅南口から徒歩10分程に位置する滄浪泉園を散策する。事務所から自転車でも行ける場所である。

滄浪泉園は、明治、大正期に三井銀行の役員、外交官、参議院議員を歴任した波多野承五郎の別荘があった土地である。現在は、都の特別緑地保全地区に指定され、「ハケ」という武蔵野の面影を残す滄浪泉園として一般に公開されている。

「ハケ」とは、古代多摩川の段丘の一つであり、およそ20メートルの崖下の砂礫層から湧き出る地下水を「ハケ」と呼んでいる。わたしの住む三鷹にもそうした「ハケ」地が存在するが、小金井市は、中央線近くに「ハケ」が隣接しているため、三鷹市民よりもその認知度は高いようで、小金井市の景観上の財産となっている。

「ハケ」地の特徴は、言うまでもなく、その崖であり斜面である。わたしの住む三鷹や武蔵野市周辺は、武蔵野台地という台地なのであり、南下するにしたがって、この崖地に出会うことになる。こうした経験を、以前このブログで「下降する空間」と呼んでみたのである。それは、わたしの記憶の中にある地景の記憶のようなものといってよい。

滄浪泉園は初めて訪れた。残念ながら、当時の別荘はなく、庭園も当初の三分の一に縮小したのだという。しかし、この小さな緑地には、貴重な野草も数多く残されている。敷地内に残る「ハケ」からは、現在も透明な水がしみ出し、池に流れ込んでいた。池は一見すると深緑色で不透明なのだが、近くに寄ると透明な水の中に鯉が泳いでいるのが観察できた。

こうした土地を訪れるのは、郷土の学習のためであり、武蔵野の見え隠れする地霊のような土地、空間を自分の意識の中に取り込む作業でもある。
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by kurarc | 2016-03-02 22:17 | 武蔵野-Musashino

武蔵野 「地景」の発見

先週の日曜日に都立中央図書館ヘ行ったことを前回のブログで書いた。この図書館の不満についても書いたが、もちろん、不満だけではなく、よい面も数多くある。まずは立地である。東京の中心の高台に位置していて、環境がよいこと。図書館自体は開架式と閉架式を併用したタイプの図書館であるから、気軽に本に接することができること、食堂、カフェがあり長居ができること・・・etc.

この図書館に行ったのはある建築家の作品集をみることが主目的であったが、もう二つの図書をみることが副題であった。『日本別荘史ノート ー リゾートの原型』と『技師たちがみた江戸・東京の風景』の二冊である。この二冊を購入しようと思っていて、これがどのような本かその内容を吟味したかったためである。

結論として、この二冊は両方とも良書であることがわかり、『技師たち・・・』の方は早速、古書のものを購入することに決めたが、『日本別荘・・・』の方は、以外と高価であるのでためらっているところである。

『技師たち・・・』の著者、笠原知子さんは、「明治・大正期の別荘敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」という研究業績があり、これをインターネット上でみつけ、その著作に興味をもったのである。『技師たち・・・』の本をパラパラとめくっていると、その中に、「地景」という魅力的な言葉を発見し、国分寺崖線帯のような景観を記述するときのキーワードとして使えそうだと思っている。この言葉に出会っただけでも、都立中央図書館に行った甲斐があったと思う。

「風景」という言葉のニュアンスとは異なる「地景」という言葉は、その土地の「地形」がもたらす「景観」という二つの意味を含み、極めて建築的(トポグラフィック)な言葉である。崖地に開けた武蔵野に築かれた別荘、あるいは、江戸期の下屋敷の流れをくむと予想される(わたしが勝手に予想、推定しているだけで、まだ確かめてはいない)建築の建て方が、この武蔵野地区にはかつて数多くみられた。武蔵野地区の大きな建築的特徴の一つに数えられるものであろうとわたしは思っている。

笠原氏の研究は、わたしが生まれ育った土地を新しい視点で眺めることに役に立ちそうなのである。こうした書物に気軽に巡り会えるのが、都立中央図書館である。わたしにとって、不満があるとはいえ、かけがえのないスペースであることもまた事実である。

*『日本別荘・・・』からは、いわゆる「別荘文化」が、平安の王朝時代から(少なくとも10世紀の頃から)あることを教えられた。「別荘」というと、近代のリゾート地の普及からはじまったものという偏見があったが、あの宇治の平等院鳳凰堂は、別荘をその起源としている、ということである。そういえば、「桂離宮」や「修学院離宮」も「別荘」なのである。あの源氏物語は、平安期の別荘文化と密接に関わっているとみることもできる?かもしれない。
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by kurarc | 2016-02-29 22:19 | 武蔵野-Musashino

失われた武蔵野を求めて

荻窪の杉並区立中央図書館の帰り、南口駅前にある岩森書店(古書)に立ち寄る。最近では珍しく、古書にハトロン紙でカバーがしてある。昔の古本屋はほとんどこのようなカバーをしていたと思うが、めっきり見なくなった。この岩森書店は、蔵書が豊富なことも良いが、いまだに昭和の香りのする古本屋であった。

ここで、『カラー 武蔵野の魅力』(文 足田輝一、写真 小林義雄、1979)を購入する。足田氏は植物に造詣が深く、武蔵野の植生を中心に武蔵野の魅力について記述している。この著書のはじめの方で、独歩の『武蔵野』についての章をもうけていて、タイトルを「独歩が愛した落葉林ー明治における風景の発見」としている。この「風景の発見」という言葉は非常に重要で、独歩の『武蔵野』のオリジナリティーはこの言葉に要約されている。

独歩は「落葉林」の美というものを、この『武蔵野』で意識的に評価したのである。日本古来のアカマツ、クロマツといった美ではなく、紅葉し、落葉する美をまさに武蔵野に発見した。

そして、もう一つ重要なのは、この発見が、当時のロシア文学の影響による、ということである。足田氏はそのことを的確に明示していて共感がもてた。30年以上も前の著書であるが、「風景の発見」という言葉の選択は先験性をもつことはいうまでもない。

著書の前半に差し挟まれた写真も美しい。今は出会うことのできない写真が多いと思われるが、著書の最後に地図も掲載されているので、それを頼りに、時間があれば訪ねてみたい。
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by kurarc | 2015-06-22 21:44 | 武蔵野-Musashino

府中 くらやみ祭り

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府中、大国魂神社のくらやみ祭りを見に出かける。この祭りに出かけるのは初めてのこと。秩父の夜祭りにも一度出かけたことはあるが、その祭りに匹敵する規模の地元(東京)の祭りと言えそうである。

但し、今年はどのような祭りか様子を伺いに出かけたようなもの。仕事中であるので、長居もできず、早々に帰宅する。夜遅くに流鏑馬もあり、鎌倉とかなり異なるものらしい。来年、連休がゆっくりできればまた訪ねたい。
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by kurarc | 2015-05-05 23:40 | 武蔵野-Musashino

島としての武蔵野 浅間山(せんげんやま)公園

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府中の浅間山(せんげんやま)公園を訪ねた。(上写真:浅間山へ登る小径)以前、自転車の散歩がたら訪ねたことはあったが、山の中までは入らなかった。今年の初めのブログでも書いたが、ここには「ムサシノキスゲ」という固有種があり、毎年5月の連休の頃から開花するという。今日は下見もかねて出かけた。

浅間山は遠景から見ると、緑で囲まれた古墳のような丘である。この地形は、多摩川が形成される過
程でできたものだという。このあたりは川の水で浸食され土地は平坦だが、ここだけは浸食されず、いわば「島」のように取り残された。「残丘」、あるいは「孤立丘」と言われ、かつての武蔵野が形成される前の地形が残されている。(しかし、現在は植生等、武蔵野に近い)多摩川の対岸、現在川崎市に属する多摩丘陵と同じ起源ということらしい。つまり、東京の中の多摩丘陵とも言える土地である。

そして、不思議にもこの土地だけにムサシノキスゲが咲く。標高(およそ80m)としては現在わたしの住む三鷹と大差はない。数百年、数千年前は三鷹の周辺でももしかしたら咲いていたかもしれないキスゲがここだけ残ったということらしい。

それはなぜなのか?これは勝手な予測でしかないが、丘としての地形に関係するのではないか?この土地だけ丘状にそびえ立つことによって、この土地ならではの微気候のようなものが温存され、ムサシノキスゲにとって絶好の環境が偶然にも形成されたのかもしれない。あるいはこの土地ならではの地質によるのかもしれないが、その謎は後日調べてみたい。

ムサシノキスゲは、まだ一輪、二輪みかけた程度であったが、連休中から5月中旬にかけて見頃になるという。再度足を運びたいと思っている。(カメラのモードの選択を誤り、ろくな写真が撮影できなかったので、ムサシノキスゲはまた次回のブログで掲載しようと思う)

*ムサシノキスゲがここにだけ咲くという理由の一つに、この近辺に居住した渡来人が持ち込んだという説があるという。真偽の程は定かではないが。
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by kurarc | 2015-04-26 16:17 | 武蔵野-Musashino

東京の中の「浅間山」

府中市郷土の森博物館を訪れた。博物館だけでなく、館内敷地には、府中をはじめ、三鷹市や稲城市等から府中に移築された民家の復元を見学できる。

博物館内は、ゆったりとしていて、国府として栄えた府中の郷土史がわかりやすく展示されていた。氷河期から解説された展示をながめていると、浅間山という山が紹介されていた。なぜ、群馬の浅間山が、と思ったが、それは府中市内の浅間山(せんげんやま)のことであった。

氷河期に関東一帯は海であったが、その後、火山噴火による堆積や、川による浸食を経て、現在の関東平野の原形が形成される。その時に、川による浸食から逃れて、島のように残った山(丘陵)があったのである。それが浅間山で、現在、浅間山公園として整備されているという。わたしの住まいから自転車で20分くらいのところにある。

この浅間山が貴重なのは、武蔵野台地が誕生する以前の「残丘」である、ということらしい。詳しくはこちらのwikipediaを参照してもらいたい。日本で唯一の「ムサシノキスゲ」(下写真)の自生地であるという。
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by kurarc | 2015-01-04 22:29 | 武蔵野-Musashino

武蔵野市という地名の起源

武蔵境駅前の武蔵野プレイスにて、森安彦氏(国文学研究資料館名誉教授)の『武蔵野村の誕生と甲武鉄道』を聴講。この講座は、武蔵野市立武蔵野ぶるさと歴史館が12月14日に開館することを記念したプレイベントである。

明治維新前後から武蔵野村の誕生までと甲武鉄道開通までの郷土史を学習する。私の住む地域は江戸時代の武蔵県(武蔵国)から品川県、神奈川県と変遷し、東京市から東京都に併合されるという経過があるが、その間、明治初期から廃藩置県以後、大区小区制、三新法体制、明治地方自治制という流れの中で、多くの村が合併され、武蔵野市の前身である武蔵野村が誕生することになる。

武蔵野村という名称に決定するまでのいきさつが興味深い。武蔵野村は、当初吉祥寺村になるはずであったが、統合される前、最も大きかった吉祥寺村は、他の3村(関前村、境村、西窪村)の賛成を得ることができず、やむを得ず新しい村の名前をつけることでなんとか合意を得た。さらに、当時今の埼玉に武蔵野村という村があったが、こちらは同じく村の合併により名称が変更になった。政府は同じ村の名前を許していなかったが、埼玉の武蔵野村が消滅したために、武蔵野村の名称が成立したということである。もし、吉祥寺村という名称が成立していたならば、現在の武蔵野市は吉祥寺市になっていたのかもしれない。

こうした町村分合の時代に、国木田独歩は新しく開通した甲武鉄道(明治22年)で境駅(現在の武蔵境駅)を訪れ、玉川上水沿いの桜などを楽しみながら、『武蔵野』(明治31年)を描いたのである。

つまり、独歩は、当時の都市交通の発展のおかげで、”武蔵野”を発見し、武蔵野の片鱗の残る最後の風景、詩趣を我々に伝えてくれたことになる。そういう意味で小説『武蔵野』は、都市小説、あるいは、都市郊外小説と言える。
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by kurarc | 2014-11-30 20:03 | 武蔵野-Musashino


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