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窓をめぐる永遠の物語

昨年、このブログにwindowというカテゴリーを追加したとき、「窓の宇宙史」といった構想について簡単に書いた。その後、映画をみていて、たびたび興味深い「窓」のとらえ方、使い方に遭遇することが多く、また、今年はじめに読んだT.E.A.ホフマンの短編『隅の窓』といった小説に出会ったこともあり、窓というものに昨年以上に特別な興味をいだいている。

建築において「窓」は内部と外部の境界に位置する。窓は、世界を分割すると同時に連続させる境界でもある。一方、近代以降の透明なガラスの進化は、壁と窓との境界をあいまいなものに変化させた。ガラスとしての壁の出現によって、境界としての窓は曖昧になり、内外の境界の消失をもたらすことになる。窓はガラスのスクリーンへと変化した。

しかし、そのことによって、フレームとして存在していた窓が逆照射されることにつながっていく。特に住宅のような建築において、ガラススクリーンのような窓-壁は普通の感性の人間であれば生活空間にはなりえない。それは、ガラス張りの住宅の傑作、ミースのファンスワース邸の住人が正気を失ったことからも明らかである。

かつて、バシュラールが屋根裏部屋を哲学したように、「窓」というものを多角的に考察し、哲学することができないだろうか?それは、もちろん、建築に限らない。小説、映画、芸術、乗り物など様々なジャンルに登場する「窓」を取り上げ、そこに大きな意味を探っていくような試みである。

こうした構想を思い立ったのは、ヒッチコックの映画『裏窓』がそもそもの出発点であるが、ヒッチコック自体、この映画を構想するにあたり、過去の小説を参照したのではないかと考えられる。

窓をめぐる「永遠の物語」についてまとめることはできないものだろうか、ということである。
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by kurarc | 2016-01-18 21:34 | window

E.T.A.ホフマン著『隅の窓』 眼下に望む人生の縮図

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正月の三箇日は読書や映画を楽しむことにしている。今年初めて読んだ短編小説は、E.T.A.ホフマン著『隅の窓』である。『ホフマン短編集』(池内紀編著、岩波文庫)所収。

両足が不自由になった従兄とわたしとの対話による短編。部屋の窓の眼下に広がる広場で繰り広げられる市に集まる群衆を望遠鏡で観察しながら、その人の生い立ちを次ぎ次に想像していく。作家である従兄の観察眼はするどく、人を眺めただけで、その人の出生、身分や性格にいたるまで次々と読み解いていく。

従兄からは、その広場に集まった群衆、民衆への愛情が語られる。そうしているうちに、広場の市は終わり、次々と雑踏が消え去って行く。「人生の縮図」である広場讃歌としての短編。従兄にとって「窓」とは、「小宇宙のパノラマを映し出す広大な鏡」(池内)に等しい。

この足の不自由な従兄は、池内によれば、ホフマン自身と重なるという。46年という短い生涯の中で、晩年は脊椎カリエスを病み、足腰が立たなかったというホフマン。この短編も口述筆記によるものだという。

小説の中に、従兄のベッドの天蓋に掲げられたラテン語の言葉は、

「タトエ今ハ酷(むご)イトシテモ、イツマデモ酷イママニ続キハシナイ」

と大きな紙に記されていた。それは、ホフマン自身へ投げかけられた言葉であったのだろう。正月早々、よい短編に巡り会った。
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by kurarc | 2016-01-01 15:53 | window

窓の宇宙史へ

最近、特に「窓」について興味をもっている。建築のデザインをやるものが窓をテーマとすると、その性能であるとか、ディテールであるとかに走ってしまうが、それだけではない。窓から見える風景であるとか、逆に窓を通した室内であるとか、あるいは、そもそも窓というものを日本人をはじめ、世界の人はどのようなものとして考えているのかとか、様々なことである。

なぜこのようなことを考えはじめたかというと、映画の影響が大きい。そのきっかけを与えてくれたのは、ヒッチコックの『Rear Window』という映画だが、この映画に影響を受けた映画が数多いことを発見したためである。それは、欧米人たちが、なぜ、窓にこだわるのかという疑問を思い浮かべずにはいられない。

日本の映画をみていると窓への意識は希薄である場合が多く、窓というものそのものの存在感が欠如しているし(寺社などの古建築を除く)、日本の建築は内と外との境界が曖昧なデザインが多いので、窓のような境界部分の印象が希薄になることは必然的でもある。また、そのことが日本的といわれるのなら、あえて、欧米のように表現することはない、とも言える。

しかし、わたしは、いわゆる「日本的なもの」には全く興味がない人間なので、欧米人たちの感性に大いに興味があり、刺激を受ける。窓から眺められる風景は日常的な自然(大自然ではない)の風景もよいが、都市であるのもよい、と思う。しかし、日本の都市は相変わらず眺められるような詩趣に欠ける。そこが問題である。

こうした感性は、やはり、ポルトガルのリスボンに暮らした経験が大きいかもしれない。それは家だけではない。海外に行くと、夜、何気なく入ったレストランから窓越しに見える都市(街)の趣きが記憶に焼き付くような経験は数えきれないが、日本でそのような経験をすることは滅多にない。

建築家がいくら性能のよい窓をつくっても、それはそれだけのことである、ということである。(もちろん、環境に配慮された窓と言えるものにはなる)その窓からみえる都市とか、都市からみえる窓がどのように人間を豊かにしてくれるのか、そこが最も大切な気がする。

すでに同じことを考えている人は数多いと思われるが、「窓の文化史」、「窓の文明史」といった領域への興味と言えるのかもしれない。そして、それらを広げて、窓がもつ様々な可能性を考えるフレーム、「窓の宇宙史」を提唱したいということである。


*東京工業大学 塚本由晴研究室が「WINDOW SCAPE」という概念を提唱している。この著書はまだ読んでいないが、きっと、同じような考えのような気がする。

*検索するとYKKAPのHPの中に、「窓学」というコーナーがある。考えることは皆同じである。

*わたしも最初は「窓学」ということばにしようと思ったが、すでにかなり流通しているようなので、「窓の宇宙史」とすることにした。このことは大袈裟に聞こえるかもしれないが、「窓」とはもしかしたら、人間の存在そのもの、人間の本質を知るための最も身近な道具であり、空間であり、フレームであるのだから、決して大袈裟とは言えない。映画を19世紀がつくった「窓」の一変種ととらえることもできるし、PCのディスプレイは「20世紀の窓」と言える。

*「窓」をテーマとしたルイージ・ピランデッロの『よその家のあかり』という短編は、興味深い。ヒッチコックが彼の小説から影響を受けたことは十分考えられる。映画『仕立て屋の恋』はこの小説からインスピレーションを得たのだろう。

*日本的な空間の一つに、縁側のような中間領域が指摘される。これを、空間としての「窓」ととらえるとまた違った発想に展開できそうな気がする。

*「映画の中の窓」というテーマも興味深い。ヒッチコックだけでなく、優れた映画は必ずといってよいほど、「窓」が重要な役割をになっているから不思議である。

*建築で考えれば、もちろん建築全体が都市にあたえる影響が大きい。「窓」だけに特化してもよい建築にはなりえないが、可能性として「窓」、「壁」、「屋根」といった個々のエレメントがもつ力は重要になる。窓だけでなく、それら全体を常に意識することが重要であることに変わりはない。

*カテゴリに新しく「window」を追加しました。
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by kurarc | 2015-08-21 21:59 | window


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