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by S.K.

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藤沢 鵠沼橋市民の家(旧後藤医院)の調査演習

今日は午後から神奈川県の邸園保全推進委員養成講座の一貫として、藤沢鵠沼橋市民の家(旧後藤医院)の調査演習を行ってきた。

鵠沼橋市民の家は藤沢駅を南へおよそ7、8分歩いた住宅地の中に位置する。1933(昭和8)年に竣工した木造による医院+住宅の併用建築である。まず、この建築に驚いたのは、その内部の巨大な空間である。平屋でありながら、天井高さは当時3.2メートル。(現在居室は通常の高さに天井が貼られてしまっている)屋根裏は根太天井で、その屋根裏には換気のための巨大な空間を要している。プランは中廊下式であり、その途中に屋根裏に通ずる吹き抜けがあり、換気口は廊下からロープで開閉ができるようになっていた。

さらに、下の写真のように、各居室には規格化された出窓がついており、その出窓は外部が上げ下げ窓、内部が引き違い窓の2重窓で、換気口も仕組まれている。内部のドア廻りは、真壁であることから、柱に直接刻みを入れて、枠なしでドアを収めている。

設計者は不明とのことだが、機能的でシステマティックなデザインであることや、当時の医院建築として通風、換気に細心の注意をはらっていることなど、エンジニアの素質を持つ建築家であったことが推測される。(もしかしたら、海軍関係の技師であったのではないか?)

この建築のように、アノニマスでありながら、地域にどっしりと腰を据えた建築から学ぶことは数多い。最近は年のせいかもしれないが、この建築のように、骨太のしっかりした建築に特に興味がある。築100年以上は維持できる建築であると思われるが、100年生き延びるだけの建築のもつ素性を良く理解し、今後の設計に活かしていきたいとしみじみ感じた。

*この建築に関する資料はこちらから。
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by kurarc | 2010-01-30 21:34 | archi-works

建築家 曾原國蔵との出会い

先日、鎌倉材木座の木造住宅の調査についてブログでお伝えした。ちょうどその1ヶ月前、鎌倉でもう一つの住宅の調査を行っていた。こちらもプライバシーの関係で詳しくはお伝えできないのだが、その住宅を設計したのは曾原國蔵(そはらくにぞう・1925年生まれ)という建築家である。

曾原といって、この建築家を知っている、という方は60歳以上の方か、戦後の建築家の活動に詳しい方に違いない。私はおよそ3年前、鎌倉市の委託による簡易耐震診断の際、調査した住宅の離れであったこの住宅に偶然出会った。

この住宅は10坪に満たない平屋であり、さらに高床住居である。軒の出は妻側が1.7メートルと0.9メートル、平入り側が1.5メートルと今の住宅では考えられないほど深い。そのせいか、わずか10センチ角の柱は築55年以上を経過しているが、ほとんど傷みがない。内部は中心にトイレと浴室が大谷石で取り囲むようにつくってあり、1室住居のようなプランである。(オリジナルでは完全な1室住居のプランであったが、現在は居間と寝室という使い方ができるように改変された。)
この住宅は、私見では、建築家増沢洵の自邸と互角の価値を持つ住宅であると確信している。しかし、現在の建築ジャーナリズムの中では決して取り上げられることのない住宅である。その理由は、建築ジャーナリズムは往々にして、自ら埋もれた価値を発見することに時間を費やすより、情報の再生産に力を入れているからである。

曾原のように目立たない建築家でありながら、優れた仕事を残した建築家たちは全国に数多くいらしゃるに違いない。こうした建築家を、地域で活動する建築家たちが地道な活動の中から発掘し、その仕事の意義を評価し、その価値を引き継いでいくという連携が最も大切なことであると思われる。

*この住宅は1950年代の雑誌『新建築』を調べると発見できる。

*1階床は地上から約1.06メートル持ち上がっている。この高さによって、1階床下まで日光が入り、シロアリを寄せ付けなかったと推測できる。

*曾原のような建築家はグーグルで検索しても、ほとんど何の情報も入手することはできない。当たり前のことだが、デジタル化されていない情報は検索しようもない。検索できないものの中に重要な情報が山ほどあるということである。
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by kurarc | 2010-01-28 21:45 | architects

YOU DON'T KNOW WHAT LOVE IS

ジャズの好きな方ならジーン・ディポールの曲「YOU DON'T KNOW WHAT LOVE IS」を何らかのミュージシャンのCDの中で聞いたことがあるはずである。最近になって買ったトランペットのCDの中にもこの曲が頻繁に取り上げられていて、それぞれのミュージシャンがそれぞれの解釈でプレイしていることもあり、すっかりお気に入りの曲となってしまった。トランペット以外も含むが、ざっと手元にあるだけでも

JOHN COLTRANE:BALLADS
SONNY ROLLINS: SAXOPHONE COLOSSUS
CHET BAKER: SINGS AND PLAYS
FABRIZIO BOSSO meets FRANCO D'ANDREA
TILL BRONNER :CHATTIN WITH CHET
etc.

これだけ様々な解釈を許すような曲、あるいはミュージシャンにインスピレーションを与える曲というのは一体どういう楽曲の構造をしているのだろう。音楽理論に余り詳しくはないので、よくわからないのだが、こうした曲は少なくとも多くのミュージシャンの共有財産となっているのだから、古典となったと言えるのだろう。ブルースのように決まったコード進行を共有するだけでなく、この曲に作詞された意味深長な歌詞や、メロディーが表現する艶のある同時代性や、さらに様々なミュージシャンによる演奏の蓄積がこの曲の可能性を広げ、より創造力を刺激し、自分の解釈の表出につながっていくのだろう。

その中でも、菊地成孔による演奏は一皮むけた感がある。You Tubeで聞くことができるので、興味のある方はどうぞ。

*その他の古典的名演については、たとえば、こちらのHPのNelson's Navigator ?を参考にして下さい。
*ボーカルのものは歌詞の意味の重さゆえに、軽やかなものは少ない。チェット・ベイカーのボーカルはその中でもよい方だと思う。
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by kurarc | 2010-01-26 21:00 | music

溝口健二の『雨月物語』とフェリーニの『道』

先日、久しぶりに溝口健二の『雨月物語』を見直した。そのとき、フェリーニ監督の『道』との共通性があることに気がついた。この二つの映画は共に好きな映画で、1950年代の同時代の作品であり、そのストーリーは違うものの、言わんとしていることが共通しているように思われる。それは、男の日常を顧みない欲望の果ての世界と、女の日常的な欲望とのズレを表現しており、最後に両映画共に妻(『道』では妻に近い連れ合い)が死んでしまうというストーリーであること。そして、妻が死んでしまったとき、初めて男らはその幻影としての欲望の愚かさに気付くことである。また、溝口の映画では、その悲劇を演じる田中絹代と、フェリーニの映画では道化的悲劇を演じるジュリエッタ・マシーナの演技力や女優としての力量についても互角であり、いわゆる美しいタイプの女優でないところも共通している。映画は溝口の方が早く公開されているが、影響関係はあったのかどうか気になるところである。

これらの映画の良さは、演じる俳優たちがはっきりした個性を持ち、その誰もが記憶に残る演技をしていることである。また、誰一人不用な俳優も存在しないし、不用な場面も存在しないことである。特に『雨月物語』の中で、田中絹代が殺される場面は、不思議なシーンであった。大袈裟な演出をすることもなく、田中が息をひきとる場面もなく、その場面が強調される演出もなかった。しかし、その場面は、それゆえ、かえってリアリティーのあるものとして感じられ、映画が進行した後に彼女がいないことの悲しみがこみ上げてくる。こうした演出も、フェリーニの『道』のジェルソミーナの死と共通している。きっと、フェリーニは溝口を意識していたに違いない。

*今年2月、下関に田中絹代ぶんか館がオープンするらしい。ぶんか館は、1920年代の作風である分離派の影響を受けたモダニズム建築で、オリジナルは、旧逓信省下関電信局電話課庁舎だった建築物を保存活用したもの。
詳しくはこちらまで。

*溝口映画の中では、『西鶴一代女』の田中絹代が圧巻であり、溝口映画の中で、最も好きな映画である。
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by kurarc | 2010-01-24 18:42 | cinema

コメント欄の削除について

最近、いたずらとしてのコメントが多くなったこともあり、コメント欄を削除することにしました。ブログの記事について、ご意見、ご感想などありましたら直接Eメールアドレスまでメールいただけると助かります。今までに、ブログを読み、誠実なコメントを頂いた方々に御礼申し上げます。
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by kurarc | 2010-01-23 12:42

グランドツアー/03 出発1984/06/20

1984年6月20日、那覇空港から台湾の台北に向けてグランドツアーの第一歩が始まった。

グランドツアー前の沖縄での生活状況
私が沖縄で働きはじめた頃、就職先の末吉栄三計画研究室は、那覇市西1丁目(下の地図参照・ラジオ沖縄付近)にあった。小さなコンクリート造のビルの4階に事務所があったため、見晴らしが良く、近くの那覇港やその向こうに那覇空港を望むことができた。那覇港は軍港であり、よく米軍の戦艦が停泊していた。港内に定食屋があり、ゴーヤチャンプルーなどをよく食べに行った。私は事務所から歩いて10分程の辻という住所のところにアパートを借りた。事務所へ行く途中の雑貨屋さんで、よくおにぎりを買って朝食とした。コンビニのおにぎりのような味気ないものではなく、沖縄のおばあちゃんが握った手作りのもので、おいしかった。洗濯機は持っていなかったが、事務所に洗濯機があったため、日課は、朝まず事務所に自分の洗濯物を風呂敷で包んで持って行き、洗濯し、屋上に洗濯物を干し、事務所の掃除をしてから仕事をした。事務所の掃除は、事務所で飼っていた5匹の猫たちの世話も含まれていた。

私が最初に海外に降り立った国は台湾となった。しかし、台湾は空港からホテル(ホリディ-イン)までの往復のみであり、トランジットと等しかったため、海外に来たという実感には乏しかった。さらに、沖縄と台湾は気候も似ていたために、異国という感じも希薄であった。印象的であったのは、空港からホテルへ向かうバスの移動中に、道端に咲いていた夾竹桃の花が満開であったことであった。この夾竹桃の花は、後に思いもかけない都市、すなわちローマで再度体験することになるとは、その時に思っても見なかった。

海外の地を踏み、都市の中をさまよい、このような都市があるのか、という驚きを味わい、カルチャーショックを受けたのは台北から次に降り立ったタイのバンコクという都市であった。その意味で、初めての海外は私にとってタイのバンコクという都市だと言える。

*旅のメモには、「この旅は何か自分の意志とは別の力が働いて、何かにひきづられているような気がする。・・・」と書いている。沖縄に来て3ヶ月も働かない内に旅に出ていたのだから、そのように思うことも無理はなかったし、沖縄に出たことが大きな旅の始まりであったということである。

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by kurarc | 2010-01-18 23:09 | archives1984-1985

鎌倉材木座 木造住宅の調査へ

今日は、日曜日であったが、神奈川県の邸園保全活用推進員養成講座の一貫で、鎌倉の建築家の方々計5名で、材木座の木造住宅の調査を行った。平面図からはじまり、断面図(矩計図)、立面図などをその場でスケッチし、寸法を測って記入していくという調査である。プライバシーの関係で、写真などはお見せできないが、鎌倉における昭和初期を起源とする住宅調査であり、数多くのことを学ぶことができた。

興味深かったことを列挙すると、たとえば、台所が1階の南の日当たりのよい場所に位置することであった。通常であれば、居間かあるいは主寝室にしてもよいような位置に台所が位置していた。この理由は、どうも南の庭先に井戸があり、戦前はその井戸から水を汲み調理をしていたらしく、台所がその位置に配置されたということが予測できたことである。つまり、戦前の住宅では井戸の位置と台所の配置は深い関係にあるということ。

また、この住宅は海に近いせいもあり、雨戸と雨戸の間に方立てを立てて、暴風時(台風時)に雨戸のがたつきをなくすような工夫も見られた。各開口部は出巾が600ミリ程度の小庇がついており、そのデザインは、それぞれ角材や丸太などを使い分け、異なるデザインがなされていた。こうした住宅は、昭和30年代頃には鎌倉の地元の大工さんにより増改築がなされていたそうだ。

最後に最も興味深いエピソードを紹介したい。門をつくった大工さんの話だが、作業小屋で仮組みをして、ちゃんと組み立てられることを確認した後、現場に材料を運んできたが、どうしても湿気の問題で材料が膨張し、うまく組み立てられなかった。その大工さんは、そのとき、その場で材料を調整して組み立てるのではなく、湿気が収まるまで何日も待ったという。木材が湿気で膨張したのをその場でごまかして収めることはしなかったというのだ。その場で調整したら、材料に無駄なあそびができてしまうからである。昔の鎌倉の大工さんは、このくらいの余裕をもって仕事をすることは当たり前だったのだろう。
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by kurarc | 2010-01-17 21:49 | archi-works

建築家エドゥアルド・ソウト・デ・モウラ/パウラ・レゴ美術館について

イタリアの建築雑誌カザベラ783(最新号)に、ポルトガルの建築家エドゥアルド・ソウト・デ・モウラの最新作パウラ・レゴ(ポルトガル人画家)という画家の美術館が掲載されている。この美術館があるカスカイシュという街は、リスボンからテージョ川沿いを電車で40分ほどいったテージョ川河口の街で、東京からだとちょうど横浜か湘南へ行くような雰囲気に近い。

ソウト・デ・モウラは、私的には彼の師であるアルヴァロ・シザ・ヴィエイラより興味のある建築家である。彼の建築は小細工がなく、プロポーションがきれいで、歴史に根ざしている。

この美術館に特徴のある二本のピラミッド状のトップライトについて、カザベラの中で建築批評家のフランチェスコ・ダルコ氏は、啓蒙主義期のフランス建築家ルドゥーの大砲鋳造工場計画案(写真上)とのアナロジーでとらえているが、私はむしろポルトガルの伝統的建築の中のボキャブラリーからの引用(あるいはその両方からの影響)であると理解したい。ダルコ氏もポルトガルのアルコバサ修道院の厨房煙突を想起させもすると記述しているのだが、むしろ私もそちらの方が正解であると思われる。
彼の代表作である国営ホテル、サンタ・マリア・ドゥ・ボウロ(修道院を国営ホテルに保存再生したもの)の中にもこれに似た厨房煙突をトップライトに変更していたし、有名な建築としては、リスボン近郊の街シントラの王宮(写真下)の二本の厨房煙突を想起させる。この煙突については、イタリアの建築家アルド・ロッシの名著『都市の建築』のポルトガル語版序文の中に写真が挿入されている。

低予算の美術館であったと思われるが、厳格なプロポーションで勝負した建築と言えそうだ。外観はコンクリートを朱色で着色したのみのようだが、どのように断熱しているのか気になるところである。断面図を見た限り、内部を二重壁とし、その空隙を極端にとっているところをみると、その中で調整しているのかも知れない。スケール感のよい美術館である。

*ソウト・デ・モウラの「de=デ」の発音は、日本語では「デ」と記述するが、ポルトガル語の発音は「デゥ」あるいは「ドゥ」という発音に近い。英語の「make」の「e」の感じか。

*この美術館の正式名称は、直訳すると「パウラ・レゴ 歴史の家」だが、historyの原義に則して言えば、「パウラ・レゴ 探求の家」である。「美術館」と名乗っていないことは興味深い事実であり、この建築のコンセプトを表現したものと理解できる。
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by kurarc | 2010-01-11 11:36 | architects

建築士法 業務報告書提出完了

今日、建築士法23条の6に定める昨事業年度の業務報告書を県庁に提出。
最近は建築士事務所もお役所に提出する書類が増えてきて、大変である。
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by kurarc | 2010-01-07 15:55 | archi-works

グランドツアー/02 装備品について

グランドツアーの装備品についても記しておきたい。

カバン:カリマー社のザック
カメラ:ペンタックスSPF 標準レンズのみ
リバーサルフィルム:コダック コダクローム ASA64・36枚撮り 140本
その他:ガイドブック、本(建築資料)、ノート、地図、筆記用具、アルコール固形燃料(META)、衣服、ウォークマン(カセットタイプ)、パスポート、航空券(帰りの分)、トラベラーズチェック、現金(米ドル)、ユーレイルパス、トーマスクック時刻表、シュラフ(寝袋)、コッヘル(金属製の皿)、鎖、鍵、ナイフ・フォーク類等々

装備は今から思うといたって簡素であった。今であればカメラがデジタルになり、フィルムがなくなるので、相当軽量化できたことだろう。装備の総重量は20キロを超えていた。また、旅の途中荷物が増え、パリでオレンジ色のミレーのザックを購入した。カリマーやミレーは今では東急ハンズなどで手軽に購入できるようになったが、25年前は山用品屋に行かなくては手に入らない高級品であった。私は山岳部出身であったことから、山用品で旅に使えるものは持参した。たとえば、アルコール固形燃料(META)は、水をお湯に沸かすなどのために持参したが、螺旋コイル状電熱器でコップに入れて湯を沸かす器具を旅先で購入し、水を沸かすのはこちらを主に使い重宝した。鎖と鍵は特に北アフリカ以降の旅で、バスの屋根に荷物を載せ、その荷物を固定するために使用した。

カメラのアサヒペンタックスSPFは、中年以上の方かカメラ好きの方を除いて、現在知っている方は少ないと思う。シンプルなよいカメラであった。標準レンズだけしかもっていかなかったので、写せるものが限られてしまったことは残念であった。カメラにお金をかける余裕はなかったので、やむを得なかった。旅先でレンズにごみが入り、ブリュッセルのペンタックス支所に修理に行ったが、この当時からカメラメーカーは海外に支所を持つなどグローバルな企業であったことは頼もしかった。
ウォークマンなどは時代を感じさせるものである。今であればipodというところか。ウォークマンは持っていったが、途中から音楽を聴くような余裕は全くなくなってしまった。

撮影し終わったフィルムや海外で購入した書籍は、ある程度溜まると東京の自宅に船便で送り返した。一人旅になってから、寂しさを紛らわすために、バルセロナで子供用ギターを購入し持ち歩いていたこともある。さすがに持ち運びに嫌気がさしてきて、モロッコから送り返したが、ちゃんと自宅に届いていた。
リスボンに着いたとき、このギターをもって、リスボンの街が一望できるサン・ジョルジョ城に登りギターを弾いた。この時、この丘の上の公園には誰一人いなかった。リスボンの町を眼下に眺めながらギターを弾くことは最高の気分であった。この時の記憶とポルトガル、エヴォラの街の記憶は、後にリスボンに遊学することになる強烈なモチベーションの一つとなった。よって、リスボンに行ったとき、まずこのサン・ジョルジョ城に登るのは、その時の記憶を確かめるためである。
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by kurarc | 2010-01-05 12:16 | archives1984-1985


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