「武蔵野」という空間 国木田独歩の『武蔵野』を読む

行きつけの図書館でふと国木田独歩が目にとまり、『武蔵野』を読んでみる。中学生の頃、読んだような読まなかったようなあやふやな記憶しかない作品だ。

独歩の『武蔵野』は、東京という都市から外れたいわば郊外の空間、つまり「武蔵野」を描いている。独歩の時代にすでに「武藏野」は、半ば失われた過去の空間として意識されているが、「武蔵野」の特殊な空間をとらえる独歩の感性は交通機関が急激に発達し、都市化が加速し始めた東京という都市と密接に関わっている。

独歩が「武蔵野」の特徴としてとりあげるのは、まず、ナラ林などの広葉樹(落葉樹)の林の美しさ、独歩の言葉では「詩趣」であるという。また、その林が北海道のような大自然の林ではなく、都市の境界に位置する林であるということである。「生活と自然が・・・密接している」空間の心地よさを独歩は意識化している。松林が日本において重んじられてきたが、独歩は松林の平凡さ、色彩の乏しさからは「武蔵野」を意識することはなかったであろうことも述べている。さらに興味深いのは、「武蔵野」が明確な「路」をもたず、「当てもなく」歩くことができるような曖昧な空間を宿していたことであった。

かつて、私は「武蔵野らしき」土地で育っただけに、以前ブログでも書いたが、林(雑木林)の空間に対する郷愁がある。林影の中に住居や建築物が佇むような都市(東京)がなぜできなかったのだろうか、と独歩の文章を読んで思うが、独歩の頃の「武蔵野」は少なくとも、私が体験した「武蔵野」とは異質で趣のある空間であったようだ。たまに「武藏野」のかすかな片鱗を味わいに東京へ行くこともあるが、それはすでに解体された後の建築物のあった場所を彷徨うようなもので、独歩の「武蔵野」は、東京が都市化していくプロセスで誕生した幻の空間であったのであり、もはや存在しないといってよい。

*図書館で読んだのは、筑摩書房の『明治の文学 第22巻 国木田独歩』であった。このシリーズは今世紀になってから出版されたもので、文章の下に丁寧な注と簡潔な図版などが掲載されていて、もはや古典となった明治文学の理解に役立つ編集となっている。

*この文章を書いていてふと頭をよぎったのは、インドネシアのジョクジャカルタの集落であった。樹種は異なるものの、「武蔵野」の雰囲気は東南アジアの集落のイメージに近いかもしれない。

by kurarc | 2010-08-01 21:53 | books