触覚

久しぶりに風邪をひく。子供の頃にも感じていたことだが、風邪をひき寝込んでいるときに、身体は研ぎすまされてくるような感覚を味わうことがある。きっと、いつもは不自由なく働く身体が不自由になることで、自由でいられる視覚、聴覚、触覚などが覚醒するためではないか?

最近、老眼で目がかなり不自由になってきた。また、聴覚も以前より退化しているように思う。そうした退行の一方、触覚がそれらの退行を補おうとしているように感じる。たとえばヒゲを剃るとき、以前は視覚だけで十分確認できたが、最近は肌に手を触れながら確認するようになった。指先の触覚でヒゲの剃り残しを判断するのである。

中高年の趣味の一つに陶芸があげられると思うが、陶芸は触覚が重要な要素を占めるから、視覚が衰えた中高年の趣味には適しているのかもしれない。建築や家具を認識するときにも、むしろ視覚を重要視するのではなく、触覚、手触りのような感覚を感じながら眺めるようになってきた気がする。かといって、それは民芸品のような素朴な素材感を重んじる、という単純な感覚とも異なる。そうした感覚を求めながらも、それを批判的に問い直し、もう一つ先に進んで行くための契機と認識するのである。

これらはベンヤミンが言った「触覚的受容」とリンクする知覚と言えそうである。ベンヤミンの使う「触覚」とは「視覚」と対置された知覚であり、手触りといった単純な感覚とは次元が異なることは、以前ブログで書いたが、触覚的知覚と記憶は時間が関係する概念であるから、これらを一度頭の中で整理することが、現在の私の興味の中心と言っていい。
by kurarc | 2013-10-14 00:06 | archi-works