多木浩二著 『映像の歴史哲学』通読

武蔵野市立中央図書館で借りてきた多木浩二先生の『映像の歴史哲学』を通読する。

まず引き込まれたのは第1章の「ルプレザンタシオン-世界を探求する」である。この章は多木先生の言わば自伝的内容。東大に入る前、江田島の海軍兵学校へ入り、終戦の年、江田島から40キロほどの広島の原爆投下を目撃したことが記されていた。

私が勝手に考えていた多木先生のエリートとしてのイメージとは全く異なる20代を過ごしていたことを初めてこの書物で知ることになった。とはいえ、戦前に幼少の頃からベッドで寝ていたというブルジョアの生活をしていたことも明かされている。

しかし、多木先生が優れていたのは、その感性から選択される研究対象であったと言える。それは旧制高校時代からフランス語を学んだということにも大きく左右された違いない。旧制高等学校の学徒は今の高校生の世代で、英独仏の三か国語を学ぶのを常としていたから、それは当たり前のことではあったのだろうが、その中で映像(特に写真)を研究の対象としたことが出発点となった。

この章の終わりに編者の今福龍太氏が述べているが、世界を探求するためには映像と出会うのは必然なのだ、ということ。それは「時間を自由に往復する」こと、「どのようにでも交錯できる時間として考えてみる」ことを映像が可能にした、と多木先生は述べているように、新しい知をもたらすための重要な経験であったのである。そして、そうした認識に光をあてたシュルレアリスムをベンヤミンが評価したことの理由もここから理解できるとしている。

多木先生は歴史あるいはこの書物のタイトルとなっている歴史哲学というものを、言語を通じて自由な時間感覚で探求した哲学者であったのだ。最近、映画、映像に特に興味を見出してきたのも、もとをたどれば多木先生の影響なのかもしれない。

第6章で、多木先生はカントの「クンスト」というドイツ語のキーワードを取り上げている。「クンスト Kunst」とは、人間の文化活動に必要な日常生活、といった意味としてとらえられている。多木先生はこの「クンスト」を失なわせるものとしての現代の世界から、いかに「クンスト」を守り抜けるのかが最も大切なことであると訴えている。多木先生のこうした認識については初めて知る。
こうした認識は、あの「アンネの日記」の中で、アンネが訴えたことに等しい。

3.11を前に読むのにはふさわしい内容の書物であった。

by kurarc | 2014-03-10 23:23 | books