「組み立てる」文化再考

先日、三鷹市に現存する水車を見学して、気づかされたことある。巨大な水輪や精米するための杵(キネ)にあたる垂直材(ケヤキによる)他が、すべて様々な部品によって組み立てられているということである。

それにはもちろん理由がある。木材が摩耗するので、その箇所だけ部品を交換できるようになっているからである。また、巨大な水輪などはもちろん金属のように一体でつくることは不可能であることもある。組み合わせてつくることで、木材の変形を最小限に抑えられることもあるだろう。杵には摩耗する箇所だけアテ木が施され、すり減った頃、交換ができるようになっていた。

杵を持ち上げる木材は、持ち上げるための爪(木製)に木材があたると木材が摩耗する。摩耗してきた材はまた反転させて使える工夫もみられた。水車全体のメカニズムは、このように小さな手直しが可能なような機構を備え、メンテナンスしながら何百年もの歳月を生き延びることができたのである。

身の回りの製品が、こうした「組み立てる」メカニズムを放棄するようになってきた。コンピューターなどは新しい製品をその都度購入し、古いコンピューターは使い捨てられる。新しい部分だけを組み替えて使い続けられる工夫がないのである。こうしたメカニズムの前提は資本の論理から考えられたものであろう。それらを我々は喜んで購入してよいのだろうか?

資本主義社会(消費社会)の夢とは、まさにこのようなメカニズムによって成立している。

by kurarc | 2014-07-02 11:32 | design