人間のなかの植物

久しぶりに風邪をひいてしまった。こういうとき、何か頭の中は全く異なる場所の回路が作動し始める。過去のことが思い出されたり、新しい発想が出てきたりと。

過去にこのブログで取り上げた銅金裕司氏の植物に関する知見が気になり、ネットで検索していると、興味深い記事に巡り会う。

たとえば、植物の二酸化炭素吸引力の違いであるとか、モーツァルトを聞かせると植物の生育がよくなる、というのはモーツァアルトの音楽のせいではなく、そうした発想をする人間の心が植物に影響しているのだとか、ランという花の特異性だとか。

植物は微弱な電位を発していて、それは様々な環境によって左右されるのだという。植物どうしは、そうした微弱な電位によってコミュニケーションをしていると考えられている。銅金氏は、3.11以後、放射能を帯びた環境をつくり、植物の電位を測定し、それを音に変換する、といったアート作品を発表している。福島では人間の被爆のことばかり問われているが、植物のような動くことのできない生物も被爆に沈黙しながら、声にならない叫びをあげていることになる。

銅金氏によれば、人間も植物的な部分をもっていると言えるのでは、という。たとえば内蔵。病になるとわかるが、内蔵は何も言葉を発することなくある日、病になると気づくが、その間、何年も微小な変化の結果なのであり、それは非常に植物的な部分ではないかという。それを、治癒させるのには実は同じ年月が必要と思われるが、それを薬によって性急に対処するのが現在の医学の方法である。

性急に物事を判断するのではなく、長い時間を必要とする「植物的な知」という知性が、現在求められているような気がしてきた。そして、建築も植物のように動かないものとしてとらえられるから、植物の知性から多く学ぶことがあると思われる。
by kurarc | 2014-07-09 12:51 | art