映画 何がよいのか?

このところ、ひと月に一度くらいの頻度で繰り返しみている映画がある。『トリコロール 赤の愛』(キェシロフスキ監督、以下『赤の愛』と表記)である。キェシロフスキの最期の映画として知られているこの映画の何にひきつけられるのか、映画をみながら考えている。

1)光

まずこの映画にひきつけられるのは、光である。映画をみていくとわかるが、それはスタジオでの撮影の場合、屋外での撮影の場合と、光の明度、質がかなり異なる。『赤の愛』ではその光がわたしにとってなじみやすいのである。概して、スタジオでの撮影の光はなじめない。明るすぎる場合が多いからである。考えてみると、ひきつけられる映画はおよそ光が落ち着いていて(自然光に近い光)、どちらかというと薄暗いものが多い。(映画『エル・スール』のように)

この『赤の愛』は、撮影都市ジュネーブの稜線に落ちる夕暮れの光の情景など、晩秋の光の感覚が心地よいのである。

2)声と音

ひきつけられる映画で重要なのは、俳優の声である。ヴァランティーヌを演じるイレーヌ・ジャコブの声がよい。それは愛情があふれ出ている声といったらよいだろうか。いくら容姿端麗な女性の俳優でも声があわないとみるに耐えなくなる場合がある。(たとえば、ヒッチコックの『汚名』でのイングリッド・バーグマンの声には耐えられることができず、最後までみることができなかった。)

それから、音。これは声、映画音楽も含めてのことだが、映画の中に響くすべての音の調和。映画の中の音は、自然の音(風、雨、葉音など)から俳優の息づかい、さらに機械音(車の音、都市の音など)、動物の鳴き声から落ち葉のざわめきなど様々である。これらが均衡して映画全体としてよい音をつくることになる。(映画はたとえ目をつぶってみても、よい映画かどうか判断できるのではないだろうか?)

3)シナリオ

シナリオは重要である。それはあまりに詩的であってはいけないし、あまりに単純でもおもしろくない。それでも、シナリオに謎は必要だ。なぜこの台詞がここで使われるのか、映画全体の中で常に検討されるべきであろう。それは、映画に深みをあたえる。『赤の愛』の中では、ヴァランティーヌが「人間はもっと寛容なものよ」とつぶやくシーンがこの映画のシナリオの中心、核をかたちづくる。

4)色彩

『赤の愛』のように初めから色彩が重要なテーマになっているものもあるが、光とともにどのような色彩が映画の基調となるのかは重要である。色彩は舞台となる自然や都市、部屋のインテリア、俳優の服装、小道具など様々であり、常に映画の隠れたテーマの一つになっていると言えるだろう。

5)仕掛け

映画の楽しみの一つは、何気なく使用される部屋のなかに、映画監督が巧妙に仕掛けを挿入していることを発見することにある。最近気づいたのは、『赤の愛』の中で、将来ヴァランティーヌと結ばれると思われるオーギュストの部屋の中に飾ってある絵画、のけぞったバレリーナの姿をしたものは、ヴァランティーヌがモデルのレッスン時に行うのけぞるポーズと連関していることを発見した。これは一つの例だが、映画監督は撮影空間の中に、その映画のシナリオや主題と関係するような仕掛けを設定しているのである。そうした仕掛けは、映画を一度みただけではわからないものが多い。何度もみるうちに、その仕掛けがみえてきて、映画の奥行きが楽しめるようになる。つまり、よい映画は必然的に何度も繰り返しみることを求められるということになる。

*下:横尾忠則氏による『トリコロール 赤の愛』のポスター
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by kurarc | 2014-08-24 12:22 | cinema