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記憶と意識 国分寺崖線帯を歩きながら

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記憶とは意識によって組み替えられるものである、と思っている。記憶は一様に、あるいは等価に脳の中に堆積しているものではなく、意識、つまり記憶のどの部分に眼差しを向けるのかによって、その意味も変化する。

最近、自分の育った空間のアースダイバー(武蔵野ダイバーといったところか)というか、空間人類学というか、そうした試みを暇をみつけては行っている。その中心は現在国分寺崖線帯にそそがれている。国分寺崖線帯は、国分寺から二子玉川までの湧水地帯であり、野川が中心となる流域である。この一体は、私が幼少期から特に高校生だった頃に親しんだ地域であった。高校が深大寺や野川に近かったこともあり、この近辺でよく遊んだのである。

しかし、こうした記憶はいつのまにかすっかり忘れ去っていた。2年前に三鷹にもどり、再び意識の中に立ち上がってきたのである。その中で、大沢の水車(新車)にも出会い、ますますこの地域がわたしの中に重要な意味を帯びはじめた。

今日は、その水車が稼働している状態を見学でき、有意義な休日を過ごすことができた。帰りは、大沢から武蔵小金井まで、野川沿いを歩き、国分寺崖線帯に残る緑地や水辺を確認した。この地帯は、遺跡発掘によると、およそ3万年前に人が住んでいたことが確認されているという。武蔵野の中でも最も古くから人が住み始めた地域と言えるだろう。なぜなら、湧水という水場があったからである。

こうした地域を一つ一つ感じながら、個人的な民俗学、人類学(空間人類学)を構築しはじめている。

*上写真は、大沢の新車と呼ばれる水車で米をついているところ。米の中に埋もれている丸い藁の筒(下写真)は、「ワッパ」と呼ばれるもの。これを入れることにより、米が下から上へと回転運動が起こり、米が循環することにより、同じ場所をつくことがなくなる。
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by kurarc | 2014-11-02 15:46 | saudade-memoria