ヒッチコック映画の真実

最近、エリック・ロメールとクロード・シャブロルによる共著『ヒッチコック』の翻訳本が出版された。初版は1957年。ヒッチコック映画好きの人間は、長い間、翻訳が待たれた書物であったと思う。加藤幹郎著『ヒッチコック『裏窓』 ミステリの映画学』によれば、新訳は、ヒッチコックの映画をカトリックの概念を援用して分析されたもの(もちろん、これだけではないようだ。)であるという。
トリュフォーによるヒッチコックとの対談集『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』が著名であるが、あまりにもの長編であるため、ずっと読む気はしなかった。わたしは現在、こちらの書物よりも、ロメールらのヒッチコック論の方に興味がある。それは、加藤氏の指摘から、ロメールらの著作がもう少し深いところでヒッチコック映画をとらえていると思えるからである。
最近見直したロメールの映画に『海辺のポーリーヌ』がある。この冒頭のシーンは、ある別荘の門が写し出され、その門が開かれるところから映画が始まり、最後はその門が閉じられ、車で出て行くシーンでエンドとなる。考えてみれば、このシーンは、ヒッチコックの『裏窓』の冒頭、エンドとそっくりではないか。『裏窓』では、窓のブラインドが開かれるところから始まり、エンドは、そのブラインドが閉じられることで終わる。
これだけではない。『海辺のポーリーヌ』では、恋愛のミステリーが含まれている。(さらに、この映画でも「窓」は重要なトリックをしくむ装置として機能している。)加藤氏も言うように、恋愛映画にヒッチコックの手法を取り込んだのが、他ならぬロメールだったのである。
ヒッチコック映画で最も重要なことは、「外見と内実の乖離」だと加藤氏は言う。『裏窓』という映画は、窓からみえる中庭越しの集合住宅の一室での殺人事件を発見する、というストーリーとして紹介されるが、この映画をよくみてみると、それは状況証拠だけであり、殺人事件が行われたという証拠はないし、語られない。しかし、漠然と映画を見ていると、殺人事件は実行されたかのように思ってしまう。ヒッチコックは、我々を欺いているのである。
ヒッチコック映画を楽しんでみてきたという方々は多いに違いないが、実はいまだに彼の映画の本当の姿を見ていない人はたくさんいる、いや、ほとんどのヒッチコックファンも実は欺かれたままなのかもしれない。ヒッチコックの映画は、一筋縄で解かれるような代物ではないのである。ロメールとシャブロルの書物によって、ヒッチコック映画は数多くの再評価がなされるはずである。
*ヒッチコックの『裏窓』は、ミステリーとサスペンスの映画として傑作であるが、この映画を建築空間に視点をおいてみると非常に興味深い。中庭の使われ方、バルコニーの使われ方、音楽の響く中庭、中庭を介したコミュニケーション・・・etc. ポジティブな居住空間の豊かさを描いた映画としてもとらえることができる。


by kurarc | 2015-03-05 20:13 | cinema