「写す」ということ

「写す」という行為が最近気になっている。わたしの言う「写す」とは写真を撮ることではなく、自らの手をつかってなんらかのテキストを写すような行為のことである。

考えると、子供の頃はいろいろなものを写していた。小学生の頃、日本地図をトレーシングペーパーに写し、その写した地図の中に川を写し、平野、山脈等を写した。手を動かすことによって、日本の地形を暗記し、把握できた。また、大学に入り、建築を学び始めた頃は、建築家の作品を写したり(トレースしたり)、名作の家具図面やドローイングなどの模写を行った。そうすることによって、その建築家の思考まで自らに写し、肉体化することができた。

民俗学者の南方熊楠は、『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶して筆写したという。また、12歳迄に『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等をも筆写したと言われている。彼は、写す行為によって、自分を消し、学問の世界に入り込んだのだと思う。

写経のような行為も、写すという行為により、無心になることによって自分の中の自我を解放し、お経の内容を自分の中に取り込む行為だと言えるのではないか。大人になると、無心になることがなかなかできなくなる。いろいろなものが頭の中に詰め込まれているから、新しく何かを学ぶことが億劫(おっくう)になる。

また、「写す」という行為が機械(カメラ、コピー機、スキャナー等)によって簡単に行われるようになったことは、「写す」という行為のもつ意義が薄っぺらなものになりつつあると言えるのかもしれない。

50歳を過ぎてから、謙虚さを失わないためにも、何かを無心になって「写す」ことによって、自我をリセットすることが最近特に重要な気がしてきた。

*文字を読む(本を読む)という行為も、頭(脳)の中に文字を写す行為と言えるような気がする。書かれたテキストを正確に頭の中に写すことは、難解である。これも煩悩が邪魔をする。
by kurarc | 2015-04-25 21:22 | saudade-memoria