下降性 あるいは、下降する地景について

昨日は二子玉川から徒歩で20分ほどの場所に位置する旧小坂邸住宅を見学した。二子玉川駅北側には五島美術館をはじめ、多くの名建築があるが、その立地はすべて国分寺崖線上に位置する。その中で、唯一戦前からの様相をとどめているのが旧小坂邸住宅である。住宅内ではボランティアの女性から、この住宅周辺にかつてあった別邸、別荘の解説や、二子玉川の歓楽街としての歴史の話などをお聞きする。二子玉川では、かつて鮎が採れ、多くの料亭が建ち並んでいたという。(その中の一つが今でも営業している)

このブログでもたびたび書いている「下降」という言葉を、もう少し意識的にとらえてみたいと思っている。旧小坂邸も崖の上から崖下にかけて庭園をつくり、その「下降性」といった空間を楽しめるよう計画されている。この場合、下からみれば上昇する空間が立ち現れることになるが、それは二次的なものであり、中心は上からの視点、「下降性」である。

かつて、建築家の原廣司氏はこうした「下降性」を粟津邸や自邸(下写真)の中で表現した。住宅の中心に下降していく階段をしつらえ、谷の地形を住宅空間の中に取り込んだ。大学時代、原氏の建築をゼミで取り上げ、研究していたが、彼は、数学者としても通用するような数学通であり、理知的な人間であるが、「下降」という現在一つの中心と言えるような感性をとらえていたのではないか、と思う。

階段は上るため、下るためのしつらえであるが、エレベーターやエスカレーターが普及した現在では、その主要な機能は「下る」ためのしつらえになりつつある。特に住宅以外の公共性の高い建築物において、階段は、上ることより、下ることが主要な機能となるように変化しているのではないか。

東京の中でも、たまたま武蔵野台地という標高60メートル程度の土地に生まれ育ったこともあり、わたしのまわりの環境には「下り坂」が多かった。そのことをもう少し普遍的な主題として考えてみようと思い始めた。それを、「下降する地景」としてとらえたり、その景観、空間を意識的にとらえてみたいということである。

このようなことを考えるようになったのも、わたしがもはや50も半ばにさしかかったことと無縁ではないように思う。山登りでも、登ることより下ることが実は大変である。登ることばかりに眼を向けていないで、下ることの楽しみを味わうような歳になったということなのかもしれない。
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by kurarc | 2016-03-27 22:04