映画『ふたりのベロニカ』再見

渋谷のBunkamura ル・シネマで今日から始まった「キェシロフスキのまなざし」で、再び『ふたりのベロニカ』を再見。映画終了後、深田晃司監督のトークを聞く。
わたしが映画に再びのめり込むようになったきっかけをつくってくれた映画がこの『ふたりのベロニカ』である。映画館でみるのは初めてのことになる。やはり、いつみても興味は尽きない映画である。深田監督は、この映画の主題を「神秘主義」といった切り口で語られていたが、わたしは改めてみて、「死と再生」の映画であることを強く感じた。
この映画では、自分と同じ人間がこの世界にはもう一人いて、同じでありながら、運命は全く異なり、一人の生を引き継ぐ、もう一人の生がある、ということを考えてしまうのである。
つい最近に起きたバングラデッシュの事件のように、人は希望に満ちあふれている途上で死を迎えてしまうことがある。それでも、その希望半ばの生は、別の人間に確実に引き継がれていく、と考えれば、その死も無駄ではなかったのではないか、と思うことができる。
わたしは、この映画をそのようにとらえるようになった。自分と同じであるのかどうかは別として、なんらかの希望は確実に別の人間に引き継がれていく、と考えれば、短命であろうとも後悔することはないのではないかと思えるのである。ある人にとっては、希望は子供に引き継がれるかもしれない。子供のいない人にとっては、後輩のような人間に引き継がれるのかもしれないし、全く別の世界に住む人間に引き継がれるのかもしれない。そう考えると、この映画は、人間の死と生のある断面をとらえた傑作だと言えるだろう。もちろん、それだけではない。その他の豊饒なテーマをみつけることも可能だろう。
正直に言えば、テーマなどどうでもよい、とも言えるくらいこの映画は、映画をみている時間を楽しませてくれる。だからそれだけで、わたしにとっては十分な映画なのである。
キェシロフスキ没後20年の今年、彼の映画をできるだけ楽しみたいと思う。
*この映画は実写映画とアニメーションの中間のような映画にも感じられた。人形が重要な役割を果たしているから、余計にそのように思えるのかもしれない。キェシロフスキはもしかしらた、アニメに興味をもっていたのではないか?ヒロインのイレーヌ・ジャコブが走る(走り転ぶ)シーンが多いが、彼女の走る(転ぶ)姿はアニメの中の少女のようである。
*この映画の中での「鏡」の使い方が気になる。ベロニカとベロニクはいわば鏡に写った対称的な人間像、あるいは、対称性(反転)のようなものを映画の中に導入することが意図されていたと考えられる。それは、現実性と虚構性という対称性もその一つである。映画館の会場に、ポーランドのアーティストPrzemek Sobocki (プシェメク ソブツキ)氏がキェシロフスキ監督の作品『ふたりのベロニカ』から影響を受けて描いた作品(下写真)が展示されていた。彼の絵画もその対称性を感じて描かれたのだろう。
*この映画を希望のリレーととらえることは、実は正確ではない。ポーランドの「ベロニカ」は、天性の声を聴衆の前で披露すること、歌うことが希望であった。フランスの「ベロニク」は、同じような声をもっていたが、その歌をあきらめることによって生きのびる。希望を捨てることで生き続けることを選択することになる。つまり、「現実的な選択」をしたベロニクは「生を選択」したことになる訳である。しかし、彼女は音楽を教える先生として音楽を捨てることはしなかった。ポーランドのベロニカのかすかな希望を引き継いでいることに変わりはないのではないか。
*この映画は「夢」との関連性も指摘できる。ポーランドのベロニカは、実はフランスのベロニクがみていた夢ではなかったか、とも思えてしまうのである。しかし、実際に出会っているのはポーランドのベロニカであり、ベロニクはベロニカに会った記憶はない。(偶然、写真に写っていたベロニカを確認することになるが)こうしたズレがさらにこの映画の迷宮性を高めている。

by kurarc | 2016-07-10 00:16 | cinema