心の中の破片を拾い集めること

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わたしのような歳になると、確実に死ぬまで時間より、生きてきた時間の方が圧倒的に長いため、過去の出来事、経験、記憶が頭の中に蘇ることが多くなった。

最初の海外旅行を終えた25歳くらいの時、フランス語を勉強しようと思った。ル・コルビュジェに興味を持ったからである。しかし、帰国後仕事やら、途中から入り直した大学院でドイツ語をやるようになり、すっかり忘れてしまった。大学院を出る頃には、ポーランド語を始める始末であった。それが今、30年の月日が経ち、フランス語を学ぶようになった。若い時の中途半端な経験は、破片のような断片として心の中に散らかっていて、それらをもう一度拾い集めて、もう少し綺麗なかたちにしておきたいと思うようになった。

多くの海外旅行を経験しながら、その膨大な経験を未だに大きく実らせていないことは腹立たしいが、あまりにも大きな経験をし過ぎてしまったのだから仕方がない。それらを少しずつでも目に見えるかたちにしたいのである。

昨日もプラハの建築に関する新書を古本屋で購入してきた。プラハに行ったのは、まだチェコスロバキアと言われていた頃のことであり、その暗い街の雰囲気が忘れられない。カレル橋を渡り、カフカの住んでいた旧市街を彷徨った。旅した時の魂のようなものは未だに生きていて、ふとわたしを目覚めさせる。『プラハを歩く』(岩波新書、田中充子著)といったタイトルが目に入ってくるや、30年以上前の記憶が蘇ってきたのである。きっとわたしは20代に旅した国や経験のことを死ぬまでこだわり続けていくのだと思う。


by kurarc | 2017-06-23 22:19 | saudade-memoria