近松門左衛門の方へ

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溝口健二監督の『近松物語』を観る。文学への関心は、最近では江戸時代へと向かっている。溝口の映画で、西鶴、秋成、近松の世界に近づいていたが、今もっとも興味があるのは近松門左衛門である。

それは、彼の生い立ち(武士を捨てた生き様)にもあるが、彼が民衆を常に意識して創作を続けたことによる。近松の世界は、世話浄瑠璃(文楽)の誕生へと収斂されていくが、恋に命をかけるというストーリー、つまり悲劇の中で人間らしさをあらわしたこと、そのことが浄瑠璃だけでなく、映画という表現に適した現代性を持ち合わせていると思えるからである。穂積以貫(これつら)は、近松の芸術を、「虚実皮膜 きょじつひにく("ひまく"ではなく"ひにく"と読んでいた)」、すなわち、「芸というものは実と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也」と書いたというが、こうした表現の同時代性にもあらわれているように、近松の創作は現代につながっている。

それにしても、溝口の『近松物語』もそうであるが、溝口映画の光の感じ、空間のつくりかた、物語の展開のスキのなさ、各々のシーンの象徴性(記憶に残るようなシーンの連続)など、すべてはわたしの好みと合致する。本当に素晴らしい映画をつくる監督である。映画から興味を持った江戸の文学をこれから、その文字そのものを読み、味わっていきたいと思っている。「虚実皮膜」のような魅力的な言葉に再び出会いたいためでもある。

*映画評論家の佐藤忠男氏はその著書『溝口健二の世界』のあとがきで、興味深い指摘を行なっている。
「小津安二郎を理解するためにはエルンスト・ルビッチやキング・ヴィダーを理解しなければならないし、黒澤明を理解するためにはジョン・フォードを知ることが欠かせないが、溝口健二を理解するために誰かヨーロッパやアメリカの巨匠を研究する必要はとくにない。それよりまず、歌舞伎や新派劇や能、日本舞踊に親しんで・・・その表現の形式がいかに形を変えて溝口の映画の様式に取り込まれているかを知ったほうがいい。」(平凡社ライブラリー版のためのあとがきより)

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by kurarc | 2017-11-15 01:03 | cinema