人形について

先日、文楽を初めて鑑賞した。この人形を操る古典芸能に接して思ったのは、人形は人間とどのような関わりをもってきたのか、あるいは、人形とは人間にとっていかなる意味があるのか、ということであった。

2016年7月28日のブログ「レオナルドからアンドロイドへ」の中で、人形ではなく、ロボットやアンドロイドという言葉を使ったが、これらは考えてみれば、手工業的な人形の進化形、つまり機械工業技術に置き換えられた「人形」としてとらえられる。人工知能もある意味ではこうした人形の延長線上に登場した技術とみなせるかもしれない。

2016年7月28日のブログの中で、わたしの愛読書、花田清輝著『復興期の精神』の中の「鏡の中の言葉」についてふれたが、花田は実は「人形論」あるいは「玩具論」のようなものを想定していたのである。現代の人工知能のような技術もすでに「人間機械論」の世界の延長であって、決して新しい認識とは言えないと思われる。

人工知能を「人形」のような言葉と相関させて考えてみること、機械人類学(あるいは直接的に言えば、人形人類学)のような学問を想定してみると興味深いかもしれない。我々のまわりは、いつの間にか自動車や電車、コンピューターなど機械に取り巻かれた世界に変化した。そのことと、人形を創作してきた人間の文化とどのような接点をもつものなのか考えてみるとおもしろそうである。

最近興味を持った映画のなかには数々の人形、あるいは、人形らしきものが登場していたことも、わたしが文楽に興味をもったことと無縁ではない気がしてきた。かつて吉祥寺を拠点としていた結城座の操り人形劇の体験も大きい。幼少の頃には、「里見八犬伝」や「サンダーバード」、もっと遡れば、「ひょっこりひょうたん島」などの人形体験も影響しているのかもしれない。「人形」は、現代の最先端の技術から古代までの技術と文化を結ぶキーワードになるかもしれない。

by kurarc | 2018-03-17 18:33 | art