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再び「民族音楽」へ

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先日、このブログでコルシカ島のポリフォニーについて書いたが、この音楽をきっかけに「民族音楽」に再び意識的に付き合いたいと思うようになった。井の頭コミュニティーセンター内図書館で、『民族音楽 世界の音を聴く』(江波戸昭著)を借りてくる。この書物を借りたのは、コルシカ島のポリフォニーが取り上げられていたからである。(わたしが所有していた他の民族音楽に関する本はコルシカ島のポリフォニーを取り上げていなかった)

江波戸氏は、「はじめに」の中で重要な指摘を行っている。すべの音楽は「民族音楽」である、と。われわれはそれらを時に「クラシック音楽」や「ジャズ」と呼ぶだけなのだが、このことを以外と意識していない人が多いのではないか。特に、クラシック音楽を「民族音楽」といったら、怒り出しそうな人もなかにはいるかもしれない。

但し、江波戸氏は、「民族・・・」という言い方には、西洋の規範に対する非西洋を対置する言い方であり、本来は好ましい表現でないという指摘も忘れてはいない。しかし、日本での表現の状況を踏まえてあえて「民族音楽」という差別化した表現を使用した、と断っている。

コルシカ島のポリフォニーにふれたが、それでは対岸のサルディーニャ島にはどのような音楽があるのか。この書物では、サルディーニャ島にもポリフォニー音楽があり、さらに、シチリアには・・・というように、音楽を通じて、世界を連続した文化として捉えられる見方が示されている。コルシカで言えば、これらの音楽はジェノヴァやニースあたりにも同様の音楽があり、ヨーロッパ本土とのつながりも指摘されていて興味は尽きることがない。

わたしの専門とする建築についても同様の見方が可能であろう。日本という枠を超えようとしても、日本という民族性がどこかに顕在化してしまうことをいち早く述べたのは建築家の坂倉準三であった。コルビュジェの弟子でありながら、その建築を吸収し、自らの表現を模索しながらも、坂倉はその中に「日本」という避けて通ることのできない民族性が現れることを述べている。坂倉が優れていたのは、初めから「日本」を意識し、表現しようとしていたのではない、ということである。「日本」を超えようとしているにもかかわらず、「日本」が避けようもなく現れることを指摘したのである。

「民族」という枠組みを超えることは果たして可能なのだろうか?民族を超える、ということを考えること自体、実はナンセンスなのかもしれないが、民族音楽を聴きながら、そのことについて今後も考えてみたい。

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by kurarc | 2018-05-12 17:52 | music
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