「仮託」という思想

建築家青木淳氏の『建築文学傑作選』について、少し前にこのブログでふれたが、その解説の中に、もう一つ重要な言葉を発見した。それは、「仮託」という言葉である。この「仮託」という言葉は以前、今関敏子著『旅する女たち 超越と逸脱の王朝文学』という書物の第4章、紀貫之の『土佐日記』を論ずる文章で出会った言葉でもある。紀貫之は、この日記文学で女性に仮託して新しい表現に挑戦した。

そこで、建築ではどうか。青木氏は興味深い建築作法について書いている。「建築は、自分が自分から離れるための行為でもある・・・」と。常々わたしが建築を設計するときに思っていたことを的確に表現してくれていた。それを青木氏は「仮託」という言葉で説いていたのである。

「建築家は、自分がいいと思うものをそのままつくっているわけではなく、自分の感覚を置いておいて、つまり丸腰になって注文主の懐に飛び込んで設計している。・・・つまり、建築家は注文主の感覚に仮託する。自分のための建築ではなく、他の人のために設計しているからである。」

以上のように述べた上で、さらに青木氏は以下のように付け加えている。

「仮託しなければ思い通りの建築ができるので、そのほうがうれしいか、というとそうでもない。なぜかというと、それでは、自分の感覚の枠組みを決してこえることはできないからだ。・・・仮託によって、自分の感覚が組み変わる瞬間、・・・この瞬間のために、建築をやっているといってもいい。・・・」

今まで、わたしが無意識に思っていた考えを明確に表現してくれたような言葉であった。これをわたしは「仮託の思想」と呼ぶことにしたい。それはわたしであり、わたしでもないものをつくること、表現する行為であり、わたしを超えるための思想となるだろう。

*「仮託」という言葉に出会ったのはおよそ10年程前に書いていたブログ「紀貫之の革新性 仮託という思想 旅する女たち」(2009年8月30日のブログ)であった。自分の言葉になるには随分と時間がかかってしまった。ここでも、わたしは「仮託という思想」という言葉を使っていたことをすっかり忘れていた。さらに、ここで、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの「異名」という表現行為についても言及した。


by kurarc | 2019-01-14 12:35 | books