デカルト 「思うわ、ゆえに、あるわ」
それは、よく知られた「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの『方法序説』の言葉についてである。柄谷によれば、デカルトは『方法序説』の中で、この言葉のみラテン語で書き、その他はフランス語で書かれているのだという。それはなぜなのか?
柄谷は、フランス語で書いたとすると、主語を省略することができず、
Je pense, donc je suis.
となり、主観の存在が強調されてしまう。しかし、ここでデカルトが言いたかったのは、一人称で指示されるようなものではなく、カントが「超越論的主観」と呼んだようなもの、一人称で指示される自己とは異なるものだというのである。
さらに、日本語もそもそも主語と言うべきものは希薄で、明治以後、英文法にもとづき考案されたものであり、西洋の小説の翻訳を通じて変化したものだという。
このような考察の後、デカルトの
Cogito ergo sum.
を関西弁で、
思うわ、ゆえに、あるわ。
に訳し直したいというのである。この場合の・・・わ、の「わ」は柳田国男も指摘していたというが、人称代名詞にあたるものだという。「先に行ってるわ」の「わ」である。わたしもたまにこうした言葉を使うが、これも日本語本来の一人称代名詞の表現であるということらしい。
『世界史の実験』の中で一息つける箇所であった。
by kurarc | 2019-03-20 23:24 | books(本(文庫・新書)・メディア)