映画『西鶴一代女』再び
いつもながら、お春を演じた田中絹代さんの演技に圧倒される。フェリーニの『道』のジュリエッタ・マッシーナの演技と重なるが、わたしはこの田中絹代さんの演技が優っていると思う。映画を観終わったあと、拍手をしたくなる、そんな演技である。
三船敏郎さんが映画の最初に登場するが、田中絹代さんの陰に隠れて、大きな印象を残さない。三船さんは黒澤映画で輝くことになる。この映画『西鶴一代女』は、黒澤明監督が『羅生門』でヴェネチア映画祭グランプリをとったことに触発され、溝口健二監督が力を入れたことで知られている。
当時の笑い話だが、『羅生門』が誰も賞をとるなどとは思ってもいず、ヴェネチアに映画界からは誰も代表団を送っていなかったという。賞が出るとわかり、日本大使館から慌てて人を送り、賞を受け取った、ということが依田義賢さんの著書『溝口健二の人と芸術』に書かれている。敗戦から間もない日本で、当時誰もが日本の映画がすでに世界を感動させるような力量を持っていることなど誰も思ってもいなかったのである。映画『羅生門』は、そういった意味では日本人をいい意味で裏切り、日本人に希望を与えた映画となった。
『西鶴一代女』をみていて感じられないが、撮影には相当苦労したらしい。依田義賢さんの前掲書には、撮影場所の近くに京阪電車が通っていて、その電車音を避けた合間に撮影されたということである。溝口監督は、同時録音にこだわったこともあり、カットの長さを把握し、電車が行きすぎたことを見計らって撮影されたという。
『西鶴一代女』はお春という一人の女の転落していく人生を描いているが、田中絹代が幼い頃から苦労してきた実人生とも重なってみえる。それは、「がんばれば」変えられるような人生でもない。前回のブログでも紹介した河合隼雄さんの著書の最後の章に書かれているが、自己実現をすることの辛さを描いた映画とも言える。これを、河合さんは、「それ=無意識」に対比して「あれ=外で起こったこと」と表現している。これは、大江健三郎の小説『人生の親戚』から学んだ表現である。お春は自分の内面ではなく、家族や男、時代という外の世界に翻弄され転落していくが、そうした外の世界「あれ」も自分とは切り離しようもないのである。
そして、お春の人生は、わたしの母の人生とも重なって見える。この映画が好きな最も大きな理由がそこにある。
by kurarc | 2019-12-31 11:39 | cinema