アントニオ・タブッキ作『レクイエム』 面影、断絶と連続、そして離別



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アントニオ・タブッキ作『レクイエム』を再読した。リスボン、あるいはポルトガルを知るものにとってこれほど興味深い小説はない。それも、イタリア人であるタブッキがわざわざポルトガル語まで使い、著した小説なのである。

以前にもこの小説についてブログで取り上げたが、じっくりと読み直すと、先日書いた松尾芭蕉の『おくのほそ道』と共通する小説(物語)である気がしてきた。「わたし」はリスボン、あるいはその周辺を、現在や過去とも定かではない人々の「面影」と会話をしていく。ある時は世間話を、ある時は絵画論を、またある時は哲学、音楽論をという具合に。この小説は一種のリスボン案内とも言えるものになっているし、大きく、ポルトガル案内(ポルトガルの料理案内)にもなっている。ただ、明らかに、リスボンやポルトガルを経験しているものでしか、その内容は深く理解できないだろう。そのあたり、リスボン、ポルトガルを知らないものには不親切と言えるかもしれない。

次に重要なのは、この小説がある断絶と連続を含ませていることである。「わたし」と過去に関係深かった「イザベル」という当然、会話すべき女性を登場させながら、その会話を含ませていない。断絶されている。そして、その続きは、『イザベルに ある曼荼羅』という別の小説に展開していった。こちらも、わたしは読みかけて中断してしまっていた。実は、この続編を読むため、再度『レクイエム』を読み直したということもある。

最後に、食事相手と選ぶのは、名前は登場させないが、フェルナンド・ペソアというポルトガル20世紀最大の詩人との離別の会話であろう。ここでは、すでにヨーロッパ化し、ポスト・モダン化してきたリスボンをペソアが経験する。ペソアはこうした風潮に呆れかえっている。「究極の真実とは虚構にほかならない」という信念をもつ詩人に舌を巻かれながら、「わたし」は面影のなかでしか会えない詩人と実は「本当」に会い、会話を交わしたかったにちがいないのだ。それもかなわず、気がつくと、詩人は消えている。

この小説が成功しているのは、単に、面影と離別のみを主題とせず、その中に「断絶と連続」すべき主題を忍ばせたことだと改めて気づかされた。未完の小説とした、ということである。

作者のタブッキにとって、この小説はどのような意味をもっていたのか?リスボン、ポルトガルと離別とも受け取られなくもない。タブッキにとってペソアは未だに理解しようとしても理解できず消え去ってしまう、そんな詩人であったのかしれない。





by kurarc | 2020-09-14 18:50 | Portugal(ポルトガル)