多木浩二著 『スポーツを考えるー身体・資本・ナショナリズム』を読む

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オリンピック問題で揺れ動いている現在、スポーツを捉えなおすことは無駄ではないはずである。多木先生のこの新書は手元にあったが、ずっと読んでいなかった。今がまさに読みごろを迎えた書物のような気がする。

スポーツはプレイするものであり、普通は考える対象ではないと思うが、多木先生はそれは大きな間違いであることを教えてくれる。手短に言えば、スポーツという「ゲーム」は、近代以後成立した社会の縮図のようなものだからである。

スポーツは、当初、イギリスのジェントルマンという地主階級の余暇から誕生した。非暴力的なゲームとして誕生したスポーツは、暴力抜きで政権が交代するという政治形態や議会主義の成立と無関係ではない。こうした暴力離脱のモデルとしてのスポーツを分析したのは、ノルベルト・エリアスで、多木先生の著書も彼の著作(『文明化の過程』)に大きな刺激をうけている。

そのスポーツが、19世紀転換期に、フランス人のクーベルタンにより、オリンピックという都市の祝祭として国家を巻き込むようになると、いよいよスポーツは、政治に接近してくることになる。その後、そのスポーツがアメリカに渡ると、クリケットから野球のようなスポーツが、また、バスケットボールやバレーボールといったスポーツが生み出される。これらのスポーツが団体競技でありながら、個人の活躍が目につくようにつくられている、という多木先生の指摘は興味深い。スポーツがスーパースターを生み出し、大衆を熱狂させるメカニズムは、まさに大衆社会の表現そのものとなる。

以上のような論考を進めながら、多木先生らしく、スポーツの記号論、スポーツと身体、スポーツと女性の問題へと進み、スポーツとネイション・ステート(国民国家)、ナショナリズムetc.との関連を論じていく。

先にも述べたが、現代社会が「ゲーム」であり、スポーツはその縮図なのである。「スポーツ」を考えることは、国家やメディアについて考えることでもある。だからといって、スポーツを非難しようというのではない。スポーツをすることは楽しいが、頭の片隅に、スポーツを相対化する視点をもつことが大切である、ということである。

by kurarc | 2020-11-28 15:50 | books(本(文庫・新書)・メディア)