漂流学へ

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アジア以東の海域史について学習しているが、海について調べていると当然、船について気になってくる。日本は海に囲まれた国土をもっているから、古くから造船技術はあるレベルのものを保持していたのだろうし、北前船のように、全国の交易に船は活用されていたわけが、ここで一つの疑問が浮かび上がる。それは、なぜ日本はポルトガルが日本に到達したように、たとえば、アジアを超えて、アフリカやヨーロッパへ到達するような航海ができなかったのか、ということである。こうした疑問に対して、明快に答えている書物が『江戸時代のロビンソン 七つの漂流譚』(岩尾龍太郎著)である。この書物の序章で岩尾氏はこの点について簡潔に答えているので、簡単に紹介したい。


まず、結論から箇条書きに書いておく。


1)造船技術の停滞

2)外洋航行技術の未発達

3)情報・経験交流の欠如


である。


まず、造船技術についてであるが、徳川幕府に移り、造船技術は衰退したのである。むしろ、徳川以前において、日本ではミスツィス造りといわれる西欧帆を取り入れた中国ジャンク船の改造型の船の建造は可能であった。しかし、徳川幕府は水軍力を抑制するためと同時に、朱印船貿易を停止して、貿易を統制した。つまり、海禁政策(すなわち、これが鎖国であった)をとったわけである。自由貿易を廃し、藩が財力を蓄えられないよう抑制したということである。


航行技術については、以上のような経緯から、大型船をつくることはできなくなり(武家諸法度で定められた)、当時の日本では、陸地の目印を頼りに頻繁に寄港する地乗り(沿岸航法)を基本とし、沖乗り(大洋航行)に必要な観測装置、特に18世紀、西欧で発達した高精度の観測技術(4分儀、6分儀、クロノメーターほか)の装備を欠いていた。


最後に、情報・経験交流の欠如とはなにかということだが、和船は西欧の船に遅れをとっていたものの、つくりは頑丈であったがために、海上で遭難を繰り返すようになった。無人島に遭難漂流し、帰還するものや、外国で救助されるものなど現れるようになったが、徳川幕府は、そうした帰還者を犯罪者扱いし、幽閉したり、遭難時に経験した知識を公開することを固く禁じた。よって、貴重な経験は共有されることなく、闇に葬られてしまったのである。


以上のような経緯から、江戸時代において、あらゆる面において船舶技術は停滞し、日本は欧米から大きく遅れをとってしまったのである。


*関連したブログ:2015年2月22日、2015年2月16日(ダニエル・デフォーについて)


*吉村昭著『漂流記の魅力』によれば、帰還した漂流民である水主(かこ)らは、奉行所での過酷な取り調べがあるものの、キリシタン宗門と無関係であることがあきらかになると、扱いは穏健になったとのことである。その後、幕府は有能な学者に命じて、漂流民らの漂流の経緯、異国への漂着、見聞、送還された事情など、あらゆる事柄を入念に問いただし、記録したということである。岩尾氏の見解は、こうした記録が公に公開されることがなかったということだと思う。


by kurarc | 2021-06-04 17:23 | books(本(文庫・新書)・メディア)