三密、不要不急と文化

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新型コロナというカタストロフィーのような現象は、常に日常という惰性のなかで忘れさられているものを無残にも露わにする。その一つが、われわれが文化と呼ぶものである。音楽や芸術、風俗にいたる文化は、三密の中で生まれてきたこと、また、はからずも、たとえば音楽文化は風俗文化と同様、不要不急の枠組みにくくられてしまった。音楽=高級、風俗=低級という区別はコロナ禍においてはまったく通用しなかった。そもそも文化に高級、低級という区別をつけることは避けられるべきだが、普段は同一の土俵で扱われることのないものが、すべて一括りにみなされたことは事実である。


特に文化活動のなかでも音楽を生業とするものへの危機的状況は悲惨であった。コンサートをやることも、生徒に音楽を教えることも一時はできなくなったし、合奏のような演奏形態をとる音楽表現も禁止される事態となった。音楽が三密という今まで誰もあたりまえで気づくことのなかった人間と人間の距離の中で活動されるものであることを改めて気づかされた訳である。そうした状況を打開するために、You tubeのような場で音楽を配信するミュージシャンたちが激増することになる。音楽をある距離を保って提供するという仕組みを模索しはじめたということである。また、ホールのような人が密集する場での表現活動を避けることも同時に意図されることになった。


最近、『音楽の危機』(岡田暁生著、中公新書)を読んだが、こうした現状を踏まえ、本書はポスト・コロナの音楽はどのような状況になるか、どのような音楽になるべきかについて考察している。岡田氏によれば、コロナによる音楽の危機的状況は、実はコロナ以前から予測されていたし、コロナ以前から様々なミュージシャン、作曲家による実験的な試み(シュトックハウゼン、ピンク・フロイドほか)は行われていたという。そもそも、巨大なホールで音楽を演奏するという近代市民社会の常識自体が疑問視されていたのである。こうした巨大なホールによってクラシックといった音楽は完成されたのであり、その典型が、ベートーヴェンの第九であるということである。簡潔に結論をいえば、近代市民社会の音楽のあり方そのものを反省し、再考する時代であったということであり、それをコロナが加速させたのである。


岡田は第九が体現しているものは「右肩あがりの時間」であり、「盛り上がる物語」の呪縛であり、「勝利宣言」であるとみなす。そして、だれももはやこうした時間も物語も共有できるような時代ではないことは気づいているのである。それにもかかわらず、いまだに巨大なホールをつくりつづけ、テクノロジー賛歌によって音楽がつくられる現状のオルターナティブとしての音楽を考えること、あるいは創造することが必要な時代にきているということなのである。


それでは、新しい音楽とはなにか?岡田は、たとえばミニマル・ミュージック、ジャズで実現したように新たな時間モデルを内包した音楽、反復やズレを許容する音楽にヒントを模索している。また、ホールといった場ではなく、通りすがりの人々に分け与えられるような音楽の場やホールのような閉じた場ではない空間での音楽など、新たな場の構築から次の音楽は生まれてくるのではないかと予測している。


もちろん、ホールのような空間がすべて悪いという訳ではない。クラブのように密集することから新しく生まれる文化もある。一方で、人が集まれなくなった場合の音楽文化の可能性を考えることも別の新しさを生み出す契機となるはずである。コロナが終わったからといって、また、以前と同じような場で音楽を奏でればよい、ということにはならないはずである。音楽に限らず、すべての文化は現在、思考実験にさらされているのである。


by kurarc | 2021-07-09 17:43 | books(本(文庫・新書)・メディア)