映画『ふたりのベロニカ』 映画のなかの東と西について

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ウクライナで戦争がはじまったとき、急に映画『ふたりのベロニカ』を見返したくなった。この映画はもちろん戦争を描いているわけではないが、東欧世界が解体されようとする1990年頃に撮影された映画で、ポーランドとフランスという二つの国に生きるベロニカ(ベロニク)を対比的に描いている。ポーランドのベロニカは先に死に、それを直感したフランスのベロニクは生き残る。

この映画の監督キェシロフスキーは『キェシロフスキーの世界』(河出書房新社)で、この映画について、政治的な映画であるとは一切言及していないし、むしろ、まったく政治には関心がないとすら言い切っているが、映画の冒頭で解体されたレーニン像をトラックで運搬するシーンや、クラクフの広場で「連帯」と思われるデモシーンを挿入するなど、明らかに当時の政治状況を暗示させる場面を描いている。この映画は、ポーランド(東)の世界が死を迎え、フランス(西)の世界が生き残る、といった政治性をもった映画とみることも実は可能なのだ。しかし、再度、この映画を鑑賞して、そうした単純な図式には収まりきれない映画であることも改めて感じた。

この映画で興味深いのは、ラストに近いのシーン、ベロニク(フランス)が、運命の男(ひと)と思われる作家、人形遣いのアレクサンドルと出会い、アレクサンドルはベロニクの持っていた写真の中にもう一人のベロニカ(ポーランド)の画像を発見し、ベロニクにそのことを気づかせ(ベロニクはそれまで、自分の所持する写真にもう一人の自分が写っていたことを気づいていなかった)、そこから、彼はこのふたりのベロニカ(ベロニク)のストーリーを勝手につくってしまう。つまり、彼女の人生を利用し、物語を考え出した。

興味深いのはアレクサンドルは、2体のベロニカ(ベロニク)の人形をつくる訳だが、その理由は、人形が酷使されるためにあらかじめもう一体つくってあるというのである。つまり、人形のベロニカ(ベロニク)はここでは2体とも生きていることになるのである。

このように考えていくと、実は東と西の世界はともに生きていて、どちらかが酷使されれば、どちらかが生き返るというように読解することも可能なのである。映画の中で、ベロニクはかろうじてポーランドのベロニカの霊感を感じ取り、音楽を諦めることで生き続けるが、そのことがこの映画では幸福になる、とも描かれていない。こうしたシナリオがこの映画を単純な図式で理解することを拒否し、深遠な表現の映画として興味が尽きない所以である。

最後にわたしはこの映画のラストシーン、ベロニクがアレクサンドルに失望し、実家へ車で帰宅するが、家の中で家具づくりをしている父が、ベロニクが車での帰宅に気づくシーン。父親は相当な騒音の中、家具づくりをしているにもかかわらず、外の車の中にいる彼女の帰りに気づくという霊感がはたらくが、これが何を意味するのか、いまだに謎である。この映画のアメリカ版では、やはりこのシーンが不可解であったことから、ベロニクは父に呼び止められ、父が彼女を抱擁する、というシーンで終わるのだという。このアメリカ版のラストはよいとは思えないが、映画の中でベロニカ(ベロニク)を霊感をもっている女性として描いてきたが、最後になぜ父親の霊感を描かなければならなかったのか、わたしにはいまだに理解できていない。しかし、理解できないことが嫌だと言っている訳ではない。このシーンが映画に余韻を残していることは確かであるし、こうした謎が多いほど、謎解きをするために再度映画を観たくなる動機にもなるのである。



by kurarc | 2022-02-28 21:57 | cinema(映画)