『戦争論』(多木浩二著)再読

およそ1年前の3月29日、このブログで多木浩二先生の著作『戦争論』を取り上げた。そのとき、もちろん現在のウクライナのような状況が起こることは想定していなかったが、この著作を改めて読み直し、この著作から読み取れることを再度確認しておきたくなった。

今回、特に第3章以降を再読した。多木先生の言葉でまず気になったのは、戦争は日常性を破壊するものだが、その日常性が現在、政治の内部にとりこまれた、ということである。それはフーコーの言う権力が人々の生そのものを管理する時代がきたということである。日常は人間が生存していく上でかけがえのないものだが、一方、我々はその日常のありとあらゆるものが何らかの支配にのみ込まれていることを常に感じる。なぜ、コンビニで買い物をしなくてはならないのか、外ではなぜコーヒーを知らず知らずのうちに飲んでいるのか、それらはたわいのない日常そのものであるが、その背後に隠れている大きな力を感じずにはいられない。まず、現代はそのような世界に取り囲まれている。

現在のロシアとウクライナの状況に即してみていくと、この状況はアウシュヴィッツのようなジェノサイドではないし、また、バルカン内戦のような民族紛争でもない。プーチンは、ウクライナをロシアともとは同一の民族であると公言しているから、むしろ、内戦に近い状況であるとする見方もできる。多木先生の著作のなかからわたしが考えられると思ったは、ロシアという帝国(インペリウム)と国民国家を成熟させようとするウクライナとの対立(そのウクライナの背後にあるNATOとの対立)という見方である。

EUという政治的、経済的統合体は、国民国家を相対化する権力である。国民国家であることをEU内の国家は認めながらもそれらを超えた組織を構想するモデルとすることで、グローバル化する世界に対応しようとした。ウクライナもそうした組織の一員となる方向を望んでいたのだが、ロシアはそうした方向に対し、暴行(ポグロム)したのである。つまり、ロシアは帝国としての権力を拡大したいがために、19世紀的価値観を押し付けようとするアナクロニズムに陥っているということではないか。

世界には現在、アメリカ、ロシア、中国という3つ帝国が巨大化し、支配しているが、ウクライナの状況はこうした帝国と民族をベースとした国民国家との対立(そして、その背後に見えがくれする帝国同士の対立)のようにわたしには思える。ハイブリッド・ワーであるといった議論は単に戦争のテクニックの議論であるからここでは問題にしない。大きくは国民国家とそれらをどのように統合していくのかという21世紀的難題、矛盾の噴出ではないか?

今後の動向を注視しながら、また改めて考えてみたい。



by kurarc | 2022-03-15 23:45 | books(本(文庫・新書)・メディア)