宮澤賢治と「建築」

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宮澤賢治の晩年、サラリーマン時代について書かれた新書を読んでいるとき、テレビで偶然にも宮澤の故郷花巻に開店したカフェが紹介されている番組をみた。そのカフェの庭には宮澤のデザインした花壇があり、この花壇は、宮澤のデザインを知ることができる唯一のものであると紹介されていた。(カフェの名は、「茶寮 かだん」である。)

『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)は、その宮澤の晩年のサラリーマン時代に焦点をあて、宮澤の生き様を淡々と記述した著書である。この著書によって、宮澤家は代々、建築と縁の深い家柄であったことを知った。そうした縁もあったし、元来、鉱物に並並ならぬ興味を持ち続けていたこともあり、さらに最晩年、賢治は鈴木東蔵との出会いから、東北砥石工場という企業の技師兼セールスマン(今でいう営業職)となる。賢治が命を落とす2年ほど前のことである。

それ以前、いやいや家業をみることになったときにも(家業を継いだのは弟清六であった)、現在のアスファルトルーフィングに相当する建築材料の販売を行なっていたこともあった。農民の知識の向上を目指し設立した羅須地人会の「羅須」(ラス)もこの著書によれば、建築素材ラス網の「ラス」、あるいは英語の「lath」(木摺)、また、ラスキンの「ラス」など様々な説があるとのことだが、わたしが思うには、多分、建築用語としての「ラス」が先に頭にあり、それからラスキンの「ラス」ともつながることから命名したのではないかと想像される。つまり、この「羅須」も建築に関連した命名であったことは間違いないのではないか。

文学者(児童文学者)、詩人、化学者(技術者)etc.として今や誰もが尊敬する宮澤賢治が、最晩年にどう考えても彼には向いた仕事とは想像できない営業マンをし、地方から東京まで駆け回っていたということをわたしはまったく知らなかったが、賢治はこうした仕事をかなり熱意を持って進めてようとしていたらしい。それは、今まで親の財力に頼りきっていた自分への決別の意味もあったのだろう。しかし、感性だけでなく身体も繊細であったと思われる賢治はこの仕事で病に倒れ、命を落とすことになる。

これもこの著書で知ったことだが、賢治の「雨ニモマケズ・・・」は、この営業マンの仕事をこなしているとき、手帳にメモされた詩であったということである。賢治は、この詩をメモしながら自らを鼓舞し、苦しい仕事に耐えようとしていたに違いない。こうした詩を彼の実生活と安易に結びつけることは避けなければならないが、一方、こうした詩がなぜ著されたのか、その背景を知ることは賢治の理解のために必要であると思う。賢治に対する極端な神話化を避ける意味においても、賢治の晩年の実生活を知ることができるこの著書の意義は大きい。

*本書「おわりに」によれば、この著書は、建築材料の専門誌『月刊建築仕上技術』(工文社)に2年半に渡り連載した「宮澤賢治と建築」がもとになっているという。


by kurarc | 2022-06-13 21:45 | books(本(文庫・新書)・メディア)