鈴木大拙館と白蓋、白山について


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建築家、谷口吉生さん設計の鈴木大拙館には2度訪れている。細部まで丁寧につくられた建築は、訪れるたびいつも関心する。特に、この建築物の中で圧巻の空間は、水鏡の庭とそこに浮かぶように立ち上がる思索空間と命名された方形のシェルターである。展示空間や学習空間が周辺に追いやられていることもあるが、この水に浮かぶ白い箱に強く印象づけられる。

前回のブログで色彩のフォークロアについて取り上げたが、そうしたテーマを取り上げた名著の一つに『白のフォークロア 原初的思考』(宮田登著)がある。その著作の初め「ウマレキヨマル思想」の章に愛知県北設楽郡を中心に行われる花祭りが取り上げられている。この花祭りは歌舞を基調とする冬祭りで、花神楽と言われる神事である。その神事の中で現在は行われなくなったが、「浄土入り」の儀式があった。それは61歳を迎えた神子(かんご)の立願であり、死の儀礼といえるものだという。畑の中に白い幣(ぬさ)で覆われた方形の構築物がつくられ、そこに舞いを終えた男女が白装束の姿で籠るという儀式であった。
*神子(かんご):儀式に参加すべく祈願したものたちのこと。

その内部は浄土であり、黄泉への旅立ちを意味し、夜が明けると、夜を徹して舞い踊っていた鬼たちがその白い構築物に乱入、最後には籠もった男女は構築物から出て行くのだが、それは浄土から再びこの世に戻ってきたという儀式を意味するものなのだという。

この白い構築物は「白山(しらやま)」と呼ばれていたということだが、谷口さんは意図していた訳ではないだろうが、わたしはこの神事を知ってから、鈴木大拙館の思索空間は、この「白山」に重なって見えてきたのである。谷口さんは禅宗寺院の方丈のように見立てたということのようだが、わたしにとっては無の空間だけでなく、激しい祭りの空間とも重なるように感じられてきた。それはもちろん、白山(はくさん)信仰というイメージにも飛躍するが、これらは、わたしのあくまで個人的な思い込み、解釈に過ぎない。

*上写真:鈴木大拙館 水鏡の庭と思索空間。2020年8月9日、金沢訪問時に撮影。






by kurarc | 2022-10-04 23:49 | architects(建築家たち)