2020年 02月 18日 ( 1 )

神奈川サウダーデ

仕事で茅ヶ崎へ。

東横線、横須賀線、東海道線などを乗り継いで行く。鎌倉に12年住んだから、車窓からの風景は懐かしい。母の実家が鎌倉であったこともあり、幼少からこの路線はよく利用している。大船に近づくと、大船観音が見えてくるが、母の実家からもこの観音様は見えていたから、かれこれ50年以上親しんでいることになる。

鎌倉はわたしにとって、第二の故郷のようなところである。鉄道をはじめ、国道1号線、また横浜横須賀道路など何度利用したかわからない。このあたりは10〜20年前の記憶が染み付いた場所である。

過去(記憶)とは不思議なものである。昨日も過去であり、10年前、20年前、30年前も過去であるが、それぞれ、頭の中に描かれる情景は異なる。10年前くらいの過去(記憶)は鮮明だが、たとえば30年前の過去(記憶)となるともう霧の中にかすかに浮かぶような過去となる。それらはもはや夢の中の幻(まぼろし)のようであり、現実だったのか夢なのか、その境界は曖昧になっている。

過去はもちろん現実として経験したことだが、その輪郭が少しずつ崩れかけてくるようだ。ポルトガル語ではこうした過去を不完全過去(スペイン語では不完了過去)という時制で表現するが、それだけでも不足している。過去は様々なグラデーションをもっている。

母の実家の庭にあったザクロやサルスベリや紫陽花や葡萄棚などはすでに失われたが、50年前には確かに存在していた。その輪郭はわたしの頭の中では砂粒のようなかすかな記憶に変化してしまった。

by kurarc | 2020-02-18 21:04 | saudade-memoria(記憶)