カテゴリ:未分類( 187 )

落し物

3日ほど前にSuicaを落とし、もう出てこないだろうと、使わずに用意しておいた東京駅100年記念のSuicaを使用していたが、今朝方、武蔵野警察署から電話があり、Suicaの落し物が届いているという連絡が入った。

こういう場合、日本人の親切心とかで通常は説明されるが、Suica程度のものでもちゃんと届け出てくれる日本人の律儀さはいったい何なのか?わたしは単なる日本人の親切心とかいうことから説明できる問題ではないのでは、と思い始めた。

わたしが感じるのは、日本人の「もの」に対する感覚が例えば欧米人とまったく異なるのではないか、という仮説をたててみたくなるのである。もしかしたら、欧米人はたとえば、Suica程度の「もの」は「もの」としてしか見ないのではないか。だから、落し物は落とされた時点で誰のものでもなくなる。よって、わざわざ届け出るようなことは避ける。

日本人は「もの」の中に、同時に「人」をみる。「もの」にはその所有者の大げさに言えば「魂」のようなものが感じられ、それを所有しようとは思わないのではないか。「もの」に対する畏怖とでも言おうか?だから、親切心というより、そのものに対する恐怖心のようなものから、それをむしろ手放したい衝動があるのではないか?その行動が、警察に届け出るという行為につながるのではないか?そんなことを思ってみたりするが、定かではない。

それにしても、Suicaのような些細なものを届け出てくれた方に感謝するしかない。

by kurarc | 2020-05-19 18:19

阪神・淡路大震災25年

阪神・淡路大震災から25年が経過した。今から思えば、オウム事件からこの大震災が21世紀の始まりだったのだと思う。

わたしは25年前、この大震災の日、ある著名な建築家の事務所で仕事を手伝っていた。ちょうど、某大学の助手に就任することが決まっていて、それまでの空き時間、アルバイトをしていた。ラジオでまずこのニュースを知った。

アルバイト先から帰宅し、テレビで映される映像を眺めながら、以前、旅行で行った神戸で、たまたま入った床屋のビルが倒壊していることを知った。昨年になるが、ある建築家が被災した経験を話すのを聞いたが、その建築家の方は、ありふれた商店街が倒壊し、その後まったく無味乾燥な商店街へと変貌していったことの寂しさを語っていた。立派な建築でないもの、何気ない風景が重要であることを身にしみて感じたと言う。

阪神・淡路大震災以後、災害は連続して発生し、3.11を迎え、その後も水害など終わりの見えない状況が続いている。今後、地震だけでなく、巨大噴火も懸念されている。わたしはこの巨大噴火(破局噴火)が最も重大な災害と思っているが、それもいつ起こるのかわからない。それは日本だけでない。このブログでも以前に書いたが、リスボンは200年から250年の周期で巨大地震に見舞われている。1755年に大震災を経験したので、いつ巨大地震に見舞われても不思議ではない都市なのである。

大江健三郎は、避けることのできない災いや苦しみを「人生の親戚」と呼んだ。大災害も人にとって「人生の親戚」のようなものだろう。できるのはその大災害をなるべく小さなものにする工夫と知恵をはたらかせることしかない。



by kurarc | 2020-01-17 17:44

HPとblogを統合しました

新年2020年より、HPとblogを統合することにしました。

事務所名も新たに”倉澤智建築デザイン事務所”に変更します。正式には新年2月からを目標に進めています。昨年までは有限会社でしたが、会社組織で続けていくメリットがないことがわかり、個人事務所に改組します。

”デザイン”という言葉を新たに付加したのは、わたしがもともとデザイン学科卒ということ、また、建築だけでなく、デザイン分野、特にプロダクトデザインにも積極的に関わりたいという願いからです。

2020年はポルトガルから帰国し、会社組織の建築設計事務所を立ち上げ20年目という節目の年でもあります。新しい仕事に挑戦していく年にしたいと思っています。

*1月末くらいまでは、古いHPが残存している状態となります。

by kurarc | 2020-01-05 17:31

移住計画

昨年末から日本国内を旅することが多くなった。地方都市を訪れるたびに思うことは、わたしはなぜ東京に住んでいるのだろうか?ということであった。先日、久しぶりに訪ねた福岡の印象がはなはだ良かったこともあり、還暦になる頃、どこか地方都市へ移住するのも悪くないのではと思うようになった。

地方都市の良いところは、自然と都市化というものがうまく共存していることである。福岡についていえば、街を歩いていて海を感じられること(自然が近いこと)、電車が混まないこと、食べ物が美味しいこと、都市がコンパクトであり落ち着いていること、アジア諸国(沖縄含む)に近いことetc.である。もちろん、東京にしかないサービスは福岡では期待できないが、すでに、歳のせいもあり、過剰な情報は必要なくなってきている。必要なのは自分の時間を充実させることである。東京は自分を犠牲にする都市であり、自分を見失うような都市であるとも言える。

もうここ(東京)に住む必要はないのではないか、と今さらながら気が付いてきたのである。但し、わたしは山奥や誰もいないような海辺などに住もうとは思わない。他者と負担にならない程度のコミュニケーションは取りたいし、映画館くらいは行きたい。

それでは、神奈川や埼玉、千葉でよいかというと、そうではない。これらはわたしにとって東京に住むことと変わらない。東京の文化圏であり、東京の呪縛から逃れられないから、そして、人が多すぎるから。

移住ばやりではあるが、本当に考えてみてもよいと思うようになってきた。

*20代の頃、福岡の磯崎新さんOBの方の設計事務所に面談に行ったことがあった。そこでは採用にならなかった。そこで、採用になっていたら、福岡に今でも暮らしていたのかもしれない。

by kurarc | 2019-10-23 22:43

災害をおもう

最近、自然災害が絶えない。特に、今回ショックだったのは、上田周辺の災害で、わたしの姓の故郷といえる別所までの上田電鉄の鉄橋の崩落である。9月末に富山、金沢への旅の折、この辺りの風景を見ながら新幹線を通り過ぎたばかりであったので、信じられない光景であった。

今回は、堤防の決壊が大きな災害の原因となった。しかし、この堤防がつくられる前はどうだったのだろう?堤防に隣接する田畑や住宅のある地域ももしかしたら古代、あるいは中世の頃は川だった箇所ではなかったか?もしそうだったとすると、自然は単に元の状態に戻ろうとしているだけであって、災害を引き起こしているのは、強引な堤防建設をした人間の方に無理があったのではないか、と思えてならない。

わたしの住む地域も、少し南へ下ると、古代の多摩川の流れのあった地域に遭遇する。調布の街あたりは古代多摩川の中に開けたような街である。よって、古代の人間からすると川の中に住んでいるようなものである。

3.11の時にも先人たちが残した神話のようなものが取り上げられた。寺や神社がなぜこの位置に建設されたのかなども注目された。こうした災害を見ると、我々の街づくり自体に問題があったのではないか、と思わざるをえない。街を広げすぎたのである。治水という対処はもちろん必要だが、街をつくるとき、我々は古代にまで視野を広げてつくることが必要になってきているのではないか。自然に対してもっと素直に街をつくるべきではないか。災害に会うたびにそう思う。

by kurarc | 2019-10-15 19:30

2級建築士実技試験

昨日、2級建築士の実技試験が行われた。わたしもその講師をしていることから、夜11時過ぎまで、試験の復元図面を行う受講生と時間を共にした。

今年の試験はかなり難しかった。設計力(設計のセンスも含めて)が試される課題であったと思う。こうした課題に太刀打ちできる教え方ができていたのか、反省すべき点も多くある。

2級建築士は、設計だけでなく、施工、営業、不動産業など様ざまな職種の方々が受験する試験であるから、設計力の方へ偏るのも良くない気がするが、年々、そうした傾向が強くなってきているように思う。

それにしても、試験にのぞむ受講生達の熱心さには驚く。当たり前のことだが、3ヶ月近く、集中しなければならないことになるが、その努力は並並ならぬものがある。そうした熱心な受講生の方々とお付き合いできることが、わたしが講師を続ける理由である。

3ヶ月必死に何かをやればできないことはない、と思わされるのだ。語学や楽器、その他習い事などダラダラやるのではなく、まず3ヶ月集中してやれば、かなりの成果がでるのではないかと思わされる。

つまり、まずは100日やる。その次は、1000日やる。その次は、10000日やる。その次は一生かけてやる、ということかもしれない。

by kurarc | 2019-09-16 12:24

言葉の無限

言葉の無限_b0074416_00001402.jpg

ちょとした試みとして短編小説などに挑戦するようになって、改めて言葉について考えるようになった。言葉について、以前よりさらに興味をもつようになった。それは、言葉が身近でありふれたものだからでもある。

例えば、コンピューターもなく、スマホもなく、テレビやラジオもないような世界でも、言葉は失われない。言葉とは最も省エネの文化である。1年病院に入院することになったとしよう。上にあげたすべてのものがなくても、辞書一冊あれば、退屈はしないだろう。聖書一冊でもよいかもしれない。あるいは、長編小説1冊でもよいかもしれない。言葉に機械は必要ない。何なら、10冊の長編小説があれば、1年は十分楽しめる。

ジュリアン・グラックの『ひとつの町のかたち』(上)という書物をやっと古本で手に入れたが、このタイトルの「かたち」という単純な言葉の中に、グラックはゲーテまで遡ることを要求している。何気ない言葉の中には、その人の膨大な記憶と命がけの生き様が表現されるものであるということを見落としてはならない。

仕事で交わされる言葉はもちろん粗末にはできないが、精神を解放するようなことは稀で、むしろ言葉の世界を矮小化する場合が多い気がする。言葉はもっと創造性をもつものでありたいし、そのように使用したい。

そうした意味でも、創作として言葉を考え、トレーニングする習慣をつけることは大切である。言葉について、より深く考える習慣を身につけなければと思うこの頃である。

by kurarc | 2019-08-18 23:58

ブログの社会性

以前、「避難階段」というタイトルで書いたブログの検索がやけに多いと思っていると、あるブログでわたしの記事が引用されており、その波及効果によるものだということがわかった。「京アニ」火災に関するブログである。

ブログは有名人のブログは別とすると、非常に個人的なメディアで、わたしの場合は備忘録、メモに近い内容のものが大半である。そうした内容でも時には社会性をもつことになるのか、と少し驚いている。「京アニ」火災の問題は消防法だけでなく、建築基準法、条例など様々な観点から検証されるべき問題だと思うが、わたしも詳しく火災にあった建築について知り得ていないので、ここでは深入りしないでおきたい。

わたしは最近、福祉施設の設計がつづいており、特に老人の避難経路などには注意を払った設計に心がけるようにしている。消防法では建築を防火対象物として位置づけるが、それは、建築は火災が起こるものと想定しているからである。もちろん、この考えは正しく、万が一のときに備えて、建築の利用者が迷うことなく、避難できるようにしなければならない。また、近隣が火災にあったときに、防火できる仕上げをほどこさなくてはならない。

例えば、今回の「京アニ」のビルではバルコニーがなかった建築ではなかったかと思う。バルコニーは建築に必ず設置する必要のない空間であるが、わたしであれば、「京アニ」規模の建築であれば必ず設置したと思う。そこから避難器具で避難できるし、避難器具を設置する必要が法的にない場合でも、一時避難場所になる。

そうした余裕のある設計をすることが設計者には求められると思う。建築は火災にあうものである、という前提を忘れてはいけないのである。

*報道番組を見たが、「京アニ」ビルには小さなバルコニーはついていた。なぜ、こうした空間がありながら、避難できなかったのか不思議である。火災のメカニズムから検証すべき問題だと思われる。





by kurarc | 2019-07-26 19:22

コンビニ問題

都内でたまたま某コンビニの株主総会会場の前を通ることがあった。警察などが警備にあたり、並々ならぬ雰囲気を漂わせていた。コンビニオーナーと思われる方々が通り過ぎる市民にビラを配っている。わたしもそのビラを手に取った。

そのビラには、マスコミを騒がせている24時間営業の是非をはじめ、劣悪な労働環境について、過労死について、また、株価の低落など様々な問題が書かれていた。コンビニというビジネスモデルが崩壊しかけているということのようである。

コンビニは便利だ、という理由で利用する市民も悪いのだが、なぜ24時間営業になってしまったのだろう。それに、なぜこれだけの件数が増加したのだろうか。わたしは以前からコンビニを地域に密着したビジネスモデルに変換すべきと思っているが、なぜそのようにならないのか?どのコンビニに行っても、並んでいる品々は似たり寄ったりであるのはなぜか?疑問をあげれば切りがない。

コンビニを新たなビジネスモデルとして再構築できるかどうか、できるコンビニが生き残り、できないコンビニは廃業に追い込まれる、そのような構図になることは目に見えている。この時期に新しいコンビニへの転換を図るしかないと思われるが・・・

by kurarc | 2019-05-23 18:17