カテゴリ:nature( 89 )

サルディーニャ島のマラリア 免疫と遺伝子

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多田富雄氏の著作『免疫の意味論』は難解な書物である。1990年代に免疫学が注目されたとき、この書物はその中で、必須の文献として紹介された。今更ながら読んでいるが、かなり専門的な内容であり、細部にわたって理解することは困難である。

芸術にも造詣のの深い多田氏の著作であるため、章の始めに芸術に関する話題を導入部に述べる箇所が何章かにある。第11章では、イタリアの孤島、サルディーニャ島の文化に触れながら、この島に流行したマラリアについて言及している。

サルディーニャ島はムッソリーニが大がかりな土地改良や湿地の埋め立てを行う第二次大戦前までは、マラリアが流行したという。しかし、島民はマラリアで全滅しなかった。それはなぜか?島民が生き延びた理由は遺伝病にあった。地中海性貧血と呼ばれる血液の病気をもつ島民が多かったため、マラリアが赤血球に侵入することができなかったのだという。

地中海貧血の患者はマラリアに強い抵抗性を示したため、マラリアの流行を防いでくれたということである。サルディーニャの島民は、地中海貧血という病の代償ははらったものの、致命的な病から救われたことになる。

多田氏はこうした歴史的背景から、悪いと思われる遺伝子を排除することの危険性を指摘する。遺伝子操作が注目されているが、こうした歴史的背景を認識しておくことは重要である。今後、悪いと思われる遺伝子を取り除いていくような治療が許可されるようになったとき、人間は思わぬ陥穽にはまりかねない。そのことを十分肝に銘じておかなければならない。



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by kurarc | 2018-09-17 20:27 | nature

自然という人格

台風の巨大な力に驚いていたのもつかの間、北海道で巨大地震が発生した。この台風と地震とには何らかの関係があると思われるが、人間は未だに大自然を把握することはできないし、今後もすべてを把握できるとは思えない。

様々な自然からの復讐が始まっているように思えて仕方がない。わたしの子供時代は公害問題が大きく取り上げられた時代であった。四日市ぜんそくなど大気汚染や工場排水による水の汚染が大きく取り上げられた。そうした問題は徐々に解決されていったが、その後、大量消費社会に移行し、ゴミ問題、特にプラスチックなどの大量廃棄が海を汚染するようになった。

わたしは自然には人格があり、人間と同じように、会話できる存在なのだと思っている。動物とコミュニケーションするための言語は存在しないが、それは人間が無能なだけで、何らかのコミュニケーション手段があるのだが、まだ気づかないだけなのではないか。星の王子さまのように動物たちとコミュニケーションできる日がくるのではないか。わたしはまず鳥と話がしたいと思っているが、そのときどのような会話がかわされるのか?きっと、人間は鳥たちからいじめにあうに違いない。

自然という人格がどのようなものか、それを知るための学問があれば、今からでも学びたい。


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by kurarc | 2018-09-07 12:51 | nature

心身と鳥のさえずり

以前、高層階の病院に入院したときに気づいたが、朝、目が覚めても鳥のさえずりが聞こえないことが妙に不自然であったことである。井の頭公園近くに暮らしている、ということもあるが、朝、目が覚めると何らかの鳥のさえずり(鳴き声)が聞こえてくる。

鳥の鳴き声に興味を持って、野鳥を観察するようになったが、最近ではその鳥のさえずりがCD化され、本とともに販売されている。わたしも一冊もっていて、たまに、鳥の鳴き声を覚えるために聞くが、この本によれば、鳥の鳴き声を聞くと、セロトニンの分泌が促進されるのだという。

セロトニンは、脳を緊張、興奮状態にさせるノルアドレナリンやドーパミンと、抑制させるGABAのような神経伝達物質のバランスをとる役割があるのだという。つまり、心身のバランスをとるのに欠かせないホルモンなのだそうだ。さらに、鳥のさえずりは、高周波で、規則性と不規則性が混在したいわゆる「1/fゆらぎ」をもつことからも、心身をリラックスさせてくれる効果があるという。(『聞くだけで極上の癒し CDブック 心地よい鳥のさえずり』日本野鳥の会監修より)

わたしが鳥のさえずりに興味をもったのは、もしかしたら、心身の疲れを癒やそうと自然に身体が反応したのかもしれない。日常の中で鳥のさえずりを聞くためにも、樹木の高さを遙かに超えるような超高層ビルには暮らしたくない。鳥のさえずりが聞こえる程度の低層階の環境がわたしには向いていると思う。

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by kurarc | 2018-06-30 23:33 | nature

波へ 音と光

久しぶりに風邪をひいてしまった。やっと落ち着いてきたが、この間、頭の中にあったのは「波」についてである。

協力させていただくことになった音響設計事務所の所長さんからお借りした『騒音・振動環境入門』(中野有朋著)のまえがきに、「・・・人間は、まさに波間に漂う小舟のようなものである・・・」という文がある。これは、比喩でもなんでもない。この場合、「波」とは音(騒音)であり、振動であり、電波、電磁波、また、光という波etcなど様々な「波」の中に知らずのうちに囲まれている、ということである。

今年のわたしのテーマはこれらの「波」を数学的、物理的に理解すること(フーリエ解析など)、さらに、環境の中の波について理解すること、それらをどのように建築に昇華していくかについて考えること、特に、光についてはカメラを通じて考えてみること等々とすることにした。

我々は誰もがサーファーである、ということかもしれない。我々は様々な波をどのように乗りこなしていくのかについて無意識に学んでいる。それらをもっと科学的に捉え直すことが今年の目標である。音にしても、今までは感覚的につかんでいただけであった。楽譜を正確に読めばよいということでもないし、音楽理論をマスターするということでもない。音響設計に関わることは、音を物理的に解析できるような視点を持つことが要求されることになる。

「波」という言葉はなんと魅力的な言葉であろうか、「波」という言葉からどれだけの世界が広がっていくだろう・・・

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by kurarc | 2018-06-10 11:38 | nature

井の頭公園のムサシノキスゲ

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井の頭公園でムサシノキスゲが開花し始めた。以前このブログで、府中の浅間山(せんげんやま)に群生するムサシノキスゲについて取り上げた。実は、井の頭公園の梅園近くの斜面にも植えられていて、ゴールデンウィークの頃に咲かせるのである。

ムサシノキスゲは、幻の花。武蔵野にオオムラサキの蝶が羽ばたいていた頃、どこにでもみられた花であったと思われるが、現在は、浅間山などごく限られた地域でしか見ることができない。

井の頭公園のものは、まだ群生まで達していないが、昨年より増えている気がする。あと10年、20年したら、井の頭公園の名物になるのかもしれない。季節柄、初夏を知らせる花と言えるだろう。開花は一日だけ。日陰にあるものはまだ開花していない。見たいのであればこの1週間しかない。

*写真は、2017年5月11日早朝に撮影された井の頭公園のムサシノキスゲ。多分、浅間山から移植されたものと思われる。

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by kurarc | 2017-05-11 19:05 | nature

テニスをする鳥

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最近、小学校時代の幼なじみと、野鳥を楽しむ会のようなものをつくった。わたし以外の二人は、カメラ機材もプロ級で、巨大な望遠レンズを担いで、現場に現れる。

わたしは野鳥は好きであったが、観察するようなことはしていなかった。少し前のブログで野鳥がわたしに話しかけてきた、といったようなことを書いたが、それは、いわゆる「聞きなし」というもので、野鳥の鳴き声を人間の言葉のようにわたしが聞いてしまった、ということのようである。

野鳥の何に興味があるかといえば、そのすべてに、ということだが、野鳥の観察が具体の科学を学ぶ格好の材料となることが最大の魅力である。鳥の飛行、鳥の形態及び身体の構造、羽毛の機構、鳴き声、羽毛の色彩、その生態から活動、行動に到るまで、野鳥を学ぶことは、真に生きた科学を学ぶことに等しい。

現在特に注視しているのは、野鳥の鳴き声である。井の頭公園に響く野鳥の鳴き声に耳を澄ますことが日課となっている。野鳥たちがどのようなコミュニケーションを行なっているのかも気になる。野鳥は、「自然という都市」の中に暮らしている生き物と考えてみても良いかもしれない。自然が野鳥たちの障害物となって、そのため、鳴き声を発達させたという見方も存在するからである。

人間の言語の誕生と野鳥の鳴き声との関係を真剣に研究する学者も現れている。この辺りが、わたしの最も注目するところである。

カラスの中には、テニスコートでテニス遊びの真似事(もちろん、ラケットを持ってやるようなものではない)をすることが観察されているという。大脳が最も進化したカラスは、今後もわたしたちをアッと言わせるような習性を身につけていくかもしれない。

今、鳥がおもしろい。

*写真は、アントニオ・カルロス・ジョビンのアルバムのタイトルにもなったブラジルの小鳥「Matita Pereマチータ・ペレ」。

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by kurarc | 2017-03-16 21:39 | nature

鳥との出会い

最近、神秘的な体験をした。井の頭公園を歩いていると、鳥がわたしに語りかけてきたのである。わたしが勝手に語りかけてきた、と勘違いしただけかもしれない。その日から、わたしは野鳥の観察をはじめた。

記憶の中にある鳥との出会いで、最も幼少期のものは、自宅に迷い込んできた手乗り文鳥である。わたしは、その鳥を手乗り文鳥であることから「TENO」と名付けて、溺愛した。自宅にはわたしが生まれる前から、「タマ」というネコがいて、そのネコも溺愛したが、「TENO」はそれ以上であったと思う。確か小学校1、2年生のときであったが、その文鳥とコミュニケーションができているかのようであった。そのくらい、わたしの言うことをよく聞く文鳥であった。

ある日、鳥かごの中に「TENO」がいないことに気づいた。2階に鳥かごは置いていたが、鳥かごを置いていた窓際には1階の屋根があり、その上に野良猫がいて、わたしの方をにらんだ。窓を開けっ放してでかけてしまったのがまずかった。しかし、死骸のようなものはなく、「TENO」は消えてしまったのである。その野良猫に食われてしまったのか、あるいは、鳥かごから出て、どこかへ飛び去って逃げたのかわからない。その時の悲しみは今でも忘れられない。

最近、鳥を意識したのは、実は映画の中でのことである。わたしの好きなアントニオーニやロメールの映画を観ていると、映画音の中に鳥の鳴き声が聴こえてくるのである。自然の中で撮影しているからだろう、鳥の鳴き声が映画の撮影と同時に録音されているのである。登山を楽しんでいたときには、よくライチョウに遭遇した。鎌倉に住んでいるときには、コノハズクの鳴き声を楽しんだ。ブログにアオバトの飛来について取り上げたこともある。しかし、継続して観察するような習慣はなかった。考えてみれば不思議なことである。それは、本当は鳥のことが好きなのに、自分で好き、ということに気づいていなかったのである。
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幸い、小学校時代の幼なじみに野鳥好きが2人いて、先日、井の頭公園を一緒に散策した。野鳥の楽しみは、ネコのようなペットとは異なり、遠くから自然の姿を観察する楽しみである。決して近づくことはできないし、手に取って可愛がることもできないが、自然に生きる動物に敬意をもって接することの学習となる。わたしは手にとろうとしても絶対に手にとることが許されない「野鳥という自然」に最も興味があるのかもしれない。

*写真は、井の頭公園にて撮影(ハシビロガモ 2017年2月末日)
*ブログのバグは、HTML編集を操作することで、調整できることがわかった。どうも文章を編集している間、勝手にHTMLを編集してしまうようなバグがこのブログにはあるようだ。

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by kurarc | 2017-03-07 22:42 | nature

野鳥観察事始め

今年から、井の頭公園を中心として野鳥を観察しようと思っている。不思議なことだが、急に興味が湧いてきたのである。

野鳥はネコのように人間にこびないところが好きである。生きるのに人間を必要としていないように思う。むしろ人は邪魔な存在だろう。野鳥たちのえさ場を次々となくしているのは人間だからである。このわたしも建築に携わる身として心が痛む。(わたしの知る限り、ロンドンは別である。たとえば、ロンドンのハイド・パークでエサを手にして持ち上げると、野鳥達がこれでもかと寄ってきて、エサを食べにくる。)

若くして亡くなった幼なじみと、大学を卒業する頃だったと思うが、井の頭公園で野鳥を観察したことがある。彼は、鹿児島まで鶴を見に行くような野鳥マニアであった。わたしも今後どうなるのかわからないが、まずは身近な井の頭公園で観察することとしたい。

先日、国立の郷土資料館に行ったときに、悲しい事故の話を聞いた。郷土資料館は、地下に埋もれたプランだが、地下の中庭に面した開口部は大きなガラス張りである。そのガラスを野鳥は認識できず、隣接する森から飛び立った野鳥がガラスに衝突して、死んでしまうのだという。郷土資料館では、そうした野鳥の死骸を剝製にして、資料館内に展示してあった。(ガラスに周辺の風景が映り込んでしまう場合も、野鳥はガラスを認識できないことになるらしい)

こうしたことも、人間は野鳥の敵である証拠である。自然の豊かな地域で建築をつくる場合、この野鳥のガラス事故は常に気にかけるべきことかもしれない。鳥が認識できるようなガラスの開発を望みたい。

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by kurarc | 2017-02-09 18:47 | nature

鳥の鳴き声

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今年は酉年ということもあり、野鳥に注目したいと思っている。早朝、井の頭公園を散歩しながら、聴こえて来るのは鳥の鳴き声である。カラスの鳴き声はあまり聴きたいとは思わないが、驚くほど多様な鳴き声を聴くことができる。

アントニオ・カルロス・ジョビンの歌にも、「sabia」や「passarim」といった鳥をテーマとした歌がある。この2曲は名曲で、わたしの大好きな歌であるが、ジョビンは、リオの生活の中で聴こえてくる鳥の鳴き声に耳を澄まし、その鳴き声からインスパイアーされ、作曲されたものと思われる。

今日、写真でとらえたのは「ルリビタキ」(メス、上写真)あるいは、「コルリ」(メス)のようだ。わたしは野鳥の名前には疎いが、今はよい小図鑑があり、それで調べている。野鳥はよく観察すると実に可愛らしい。そして、色彩に富み、実に美しい。

井の頭公園ほどの自然があれば、野鳥をはじめ、様々な自然を学習することができる。貴重なスペースである。今年5月、井の頭恩賜公園は、いよいよ100周年を迎える。




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by kurarc | 2017-02-01 21:32 | nature

樹木の地図

今日は朝食の後、いつもの井の頭公園周辺を散歩した。ナザレ修道院が玉川上水沿いにあるが、ここは、わたしが小学生の頃、「ドングリ林」と名付けていて、カブトムシやクワガタ、蝉などを採集した林であった。その2/3は修道院になってしまったが、1/3は裏庭として一般に開放されている。

小学生の頃と比べると、樹木は間引きされ、きれいになり、林は鬱蒼とした雰囲気はなくなったが、この中のクヌギをはじめとする樹木は、わたしが子供の頃から生き続けている樹木である。

この中のどの木でカブトムシだのクワガタだのを採集したのか、今となっては思い出せない。子供の頃に、この林の木一本一本を地図にして、記録しておけば、どの木が残っていったのかわかるはずであるが、今となってはそれは望めない。

何気なく残る木々を眺めていると、子供の頃からわたしを見守ってくれている、と感じるときがある。木と会話ができたならいろいろな想い出話ができるだろうに、と思うのである。そう考えると木々が愛おしくなってくる。

身の回りの木々を一つ一つ地図にして、プロットしていくこと、それは大自然の中では不可能だが、都市の中の限られた自然の中では可能なことなのである。木々をもっとよく観察しなければと思うこの頃である。

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by kurarc | 2016-12-24 21:07 | nature

Archiscape


by S.K.
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