人気ブログランキング |

カテゴリ:architects( 92 )

金沢21世紀美術館

b0074416_23374088.jpg

金沢に行った目的の一つは、金沢21世紀美術館を訪れることであった。この美術館の評判はすこぶる良い。それが何によるのか確かめたいということであった。

結論から言うと、この美術館はコンセプトのみを浮かび上がらせた美術館と言えるものであり、建築自体に興味は持てなかった。しかし、それはこの美術館が優れていないと言っているわけではない。むしろ、稀有な美術館である、と言うことである。

美術館は、いわゆる芸術品を収める場所であるから、多くは大げさな意匠を行う建築が多い。しかし、この美術館にはそうした過剰な意匠はまったく見あたらない。円形のボックスに、高さの異なる直方体が突き刺さったような建築、それだけなのだ。さらに、直方体と直方体の間は室内の街路空間と言えるスペースとなっていて、美術館内を自由に歩き回ることができる。つまり、この美術館は都市内都市として計画されているのである。

こうしたことをやっただけで、大げさなことは一切省かれている。これほど明快なコンセプトを体現した建築はあまりお目にかかれない。建築家たちは通常、ディテールなどを見せびらかしたがる。この建築にはそうしたいやらしさが見あたらない。

こう書くと、この建築を絶賛しているように思われるかもしれないが、そう言っているわけでもない。コンセプトのみが浮かび上がるが、ものとしての魅力には欠ける。この辺りのバランスは非常に難しいが、もう少し、意匠を突き詰められたら、もっと優れた建築になったに違いない。

*ここで、「コンセプト」という言葉を使った。学生などが課題発表のとき、よく使う言葉だと思う。もしかしたら、今ではもう死語なのかもしれない。ジャズギタリストの高内春彦氏の著書を少し前に紹介したが、この著作の中でも「コンセプト」という言葉の定義のようなことが言及されていた。
絵画で言えば、遠近法の表現ではなく、印象派以後の表現、これが「コンセプト」である。「コンセプト」とは自己の定義による表現形式のこと。芸術全般は、19世紀のある時期から自ら定義するものとなった。音楽では、ドミナント・モーションが捨てさられたとき、「コンセプト」がはじまる。印象派の音楽である。「コンセプト」という言葉は、実は近代以後の言葉なのだと高内氏の著書から気づかされた。


by kurarc | 2019-09-27 23:39 | architects

金沢市立玉川図書館

b0074416_02032509.jpg

およそ40年ぶりに金沢を訪れた。金沢21世紀美術館なども訪れたが、わたしにとって思い出深い建築は、金沢市立玉川図書館であったこともあり、再訪した。

谷口吉郎監修、設計は谷口吉生氏という親子共同による仕事として著名な建築であり、40年前にも訪ねた。改めてこの建築を見学したが、日本の図書館建築で、わたしが見学したものの中で最も興味深い建築である。これが金沢中央図書館ではなく、分館であるということにも驚かされる。金沢の建築文化の質の高さを思い知らされる。

この建築が優れているのは、隣接する近世資料館との対比であろう。様式建築とモダニズムの建築がこれほど明確に対比される様相を他に見たことはない。様式建築に媚びることなく現代の建築を素直に設計している。もちろん、隣接する様式建築のプロポーションや高さには注意を払いながら、レンガという素材感だけは何気なく中庭に取り入れて、内部からレンガの質感を鑑賞できるようにして、隣接する近世資料館と連続するようにデザインされている。中庭は連続するための装置でもある、ということになる。

今回、メインは富山の高岡であったため、金沢には時間がかけられなかったが、安い宿でも探し、3日、4日滞在して、じっくりと金沢建築を堪能したくなった。

b0074416_02034611.jpg


b0074416_02040641.jpg


by kurarc | 2019-09-26 02:00 | architects

ガウディと奴隷制度

小説『ダイヤモンド広場』の翻訳者田澤耕氏は、『ガウデイ伝「時代の意志」を読む』という興味深い書物を著している。我々のような建築の専門家はガウディ(ガウディー)の仕事のみに着目しがちであるが、田澤氏は、ガウディが生きた19世紀から20世紀のスペイン、特にカタルーニャ、あるいはバロセロナ(バルサロナ)に着目して、ガウディの背後に隠されている世界を読み解いている。

ガウディがあれほど数々の仕事をこなすことができたのは、カタルーニャの経済事情と彼を支えたパトロン達によるわけだが、その一つの理由として、カタルーニャとクーバとの交易、特に奴隷売買との関係を考えなければならない。

カタルーニャ人は、クーバ(キューバ)との間で取り交わされた貿易、特に奴隷売買で巨額の富を得たことが、バルセロナという都市の復興には欠かせない要素であったと田澤氏は指摘している。18世紀後半まで、カタルーニャは、アメリカ(コロンブスらが発見した世界)との貿易は禁じられていたが、1765年、バルセロナが貿易港として認められると、19世紀初頭からクーバとの交易が活発化し、多くのカタルーニャ人がクーバへ移住した。クーバへの移民は「5年辛抱、一財産」と言われていたといい、カタルーニャ人たちはクーバでものを作り売るという今までのスペイン人にない手腕で、クーバ経済を牛耳るようになった。

その中でも、もっとも割りが良かったのは奴隷の売買であった。1865年まで奴隷貿易は続いたが、それはガウディが生きていた頃(ガウディは1852生まれ)にも続けられていたことになるという。後にガウディに数多くの仕事を提供するパトロン、グエイ氏は、このクーバで巨額の富を築いたジョアン・グエイ氏の長男であった。こうしたことを知ってもガウディの仕事の偉大さは失われることはないが、わたしはこうした背景を知ると、何か気まずさを感じずにはいられない。ガウディが敬虔なキリスト教徒になったのも、こうした世界から遠ざかり、身を清めたいと思ったからではないか。

現在でも多くの建築は巨大な富と切っても切り離せないが、わたしにはまったく無縁の世界である。しかし、住宅であっても建築を建設できるクライアントは貧しくては不可能だから、わたしも一切無縁かというとそうも言えない。これは建築という世界が持つ運命のようなものといえる。

*この書物にピカソのことが登場するが、あのキュビズムの誕生を告げる名画「アヴィニョンの娘たち」という絵画であるが、これは南フランスのアヴィニョンではなく、バルセロナの歓楽街アヴィニョ通りから来ているのではないか、と田澤氏は指摘している。これは、すでに、高階秀爾氏の名著『続 名画を見る眼』でも指摘されている。



by kurarc | 2019-09-02 20:07 | architects

沖縄からのメール

5月末から6月にかけて訪ねた沖縄の末吉栄三計画研究室の末吉礁君からメールが届いた。お父様を亡くされた後、仕事がとれたetc.との内容である。

沖縄の特に学校建築で実績を残した末吉栄三さんの後を継いで、新たな出発を始めたという知らせである。沖縄からメールが届くというのも感慨深い。メールというのも捨てたものではない、よいツールだなと思う。沖縄を訪れ2ヶ月以上が過ぎたが、改めて沖縄という場所、世界を大切にしなければとつくづく思う。

礁君からメールをもらった時、わたしが沖縄に旅立った時の光景が思い出された。自宅のすぐ近くのバス停からリックを背負って、バスに乗り、ふと後ろを振り向くと、バス通り沿いに両親が並んで立ち、わたしを見送っていた光景である。両親が並んで立つという光景をその後、わたしは一度も見ていない。多分、その時が最初で最後である。沖縄での仕事をやめ、東京に戻ってからすぐに父も他界してしまったからである。

沖縄に何か貢献できることはないか、遅ればせながら今、そう思っている。年末には末吉栄三さんの回顧展が開催されるかもしれない、と聞いている。多分、また今年、沖縄を訪れることになりそうである。

by kurarc | 2019-08-09 22:46 | architects

沖縄 原点への旅

b0074416_09352350.jpg

22年ぶりに沖縄を訪ねた。1984年から85年にかけて沖縄で働いていたときお世話になった建築家末吉栄三さんが亡くなられ、そのお墓参りを兼ねて、5日間滞在した。梅雨の時期ではあったが、幸い建築を見学中に雨に降られることもなく、傘を使うことはなかった。

那覇市内中心部の変貌ぶりには驚かされ、モノレールにも初めて乗った。都市部は物質的には本土並みに整えられ、東京と変わらないが、相変わらず時間の流れ方は穏やかである。

今回は末吉さんの仕事を中心に見学し、また、いつも沖縄でお世話になる建築家の山田正永さんの仕事も見学させていただく。その他、北部大宜味村まで車を走らせ、過去に訪ねた集落や建築を含め見学してきた。

末吉さん、山田さんの仕事は小学校、中学校、幼稚園など学校建築が多く、それぞれ見学先で沖縄の子供たちにもふれ、その人なつっこさ、明るさに元気をもらってきた。那覇市内の学校は末吉さんをはじめとする建築家たちの努力もあり、東京の学校建築にはみることができない豊かな空間づくりに成功している。

いつもながら末吉さんの事務所の先輩や、今回は末吉さんの息子さん、末吉礁君とも多くの時間を過ごすことができ、沖縄について多くを教えていただき、充実した滞在となった。わたしの方は東京での生活に追われ、沖縄についての学習を怠っていたことに改めて気づかされた。

沖縄はわたしが社会に出て初めて過ごした場所。これからもこの場所を大切にし、もう少し頻繁に訪れることができるようにしたい。

*写真は那覇市前島の「ふみや」という料理屋。わたしが沖縄で働き始めた初日に末吉さんに連れてきていただき、「ジューシー」と「イナムドゥチ」をご馳走になった。この味が忘れられず、沖縄を訪れるときにはいつも立ち寄る。今回も初日と最終日に立ち寄った。35年前と変わらない味と店構え。次に訪ねられるのはいつだろう。


by kurarc | 2019-06-02 09:46 | architects

求道会館、求道学舎見学

b0074416_21434653.jpg

武田五一設計の求道会館、求道学舎を見学した。東京ヘリテージマネージャーの会、設立記念シンポジウムの一環で行われた見学会であった。

求道学舎(上写真)は、一部個人宅の内部まで見学させていただく。求道学舎は階高が高く、リノベーションには非常に適していたという。わたしが最も興味をもったのは、求道学舎(リノベーション)が規則的な開口部をもつ建築物であり、決してインテリアから発想された開口ではないにもかかわらず、内部のインテリアについては、その規則的な開口の中で自由に発想され、なにか不自然な、あるいは不自由なプランになっていなかった点である。(見学させていただいた個人宅は、一部廊下部分が部屋にされていた。)

建築家はプランを優先的に発想し、そのプランに適した開口部を考えることが普通である。それによって、全体の外観を考えるとバランスを失った開口部になることもある。それらをまた設計変更して、バランスを調整していく訳だが、この求道学舎の仕事を考えると、新築においても外部から建築を発想することも可能なのではと思わされたのである。

この発想は、古典的な発想と言えるかもしれないが、はじめに規則的に開口部の位置を設定することはコストの面から、また構造の面からも非常に合理的である。そのように外殻を決めてから、その開口部に内部のプランを適合させていくという進め方ができる、ということをこの求道学舎のリノベーションが証明している、ということである。
(たとえば、超高層ビルはほとんど規則的な開口部をもつ。リノベーションを行う場合は、その規則性に従わなければならない。)

*南側の開口部は壁量に余裕があったことから、幅を900mmから1200mmに変更しているとのこと。それにしても、規則的な開口部の位置は根本的には変わっていない。



by kurarc | 2019-05-12 21:21 | architects

イームズハウスのプロブレマティーク


b0074416_01035967.jpg
b0074416_18554399.jpg

昨日、ギャラリーエークワッドで『イームズハウスの魅力を語る』と題する建築家岸和郎氏と評論家植田実氏の対談を聴講した。

イームズハウスは日本のインテリア雑誌で度々取り上げられ、建築関係者以外でもファンの多い住宅であると思う。しかし、その成立過程、立地、建築のディテールなどをみていくと、様々な問題群(プロブレマティーク)が浮かび上がってくる。そうした問題群を出発点として、この住宅の意味を捉え直すという主旨の講演+対談であった。

特に、上の問題群は岸氏より提出され、議論された。イームズハウスには第1案(上写真)があったが、彼らはそれを放棄し、第2案をつくり建設した。岸氏によれば、第1案は、敷地が海に近いこともあり、その景観を取り込むような案で、普通の建築家であれば誰もが考えつく案であるが、これを止めたところにイームズの素直でない部分がある、と指摘していた。
(素直でない、とは悪い意味で使っている訳ではない。イームズ夫妻は次元の異なる解を選択した、ということである。)

また、実現されたイームズハウスの出隅に着目すると、こうした収まりはミースのような「建築家としての収まり」とは思えないとし、彼らは建築家という感じがしないことも指摘していた。

また、イームズハウスが色彩を採用した壁面など、スクリーン(マルチスクリーン)を意識したものづくりを行っていることに着目し、極めて映像的な建築、面の連続を意識した建築であることなども指摘していた。

その他、様々な問題群を取り出し、この建築がいかに特殊な建築であるかを述べていた。ジャーナリズムの中では、単に魅力を述べるだけで終わる場合が多いが、我々のような建築家はそうした見方につられてはならない。この建築がまずどのような都市(ここではロスアンゼルス)に建設され、どのような特性をもった敷地であり、なぜ既製部材で組み立てられたのか、近隣にはどのような建築があるのか、敷地内にはどのような植栽があり・・・などあげれば切りがないが、そうした文脈を一つ一つ考えながら、この建築を批判的に読解していかなくてはならない。単に「きれい」、「美しい」ではすまされないのである。

b0074416_18561500.jpg
b0074416_19013211.jpg
b0074416_19014503.jpg



by kurarc | 2019-03-29 18:56 | architects

RCR Arquitectes カタルーニャの建築家たち

b0074416_23065513.jpg

TOTOギャラリー間でスペイン人(カタルーニャ人)3人(ラファエル・アランダ、カルマ・ビジャム、ラモン・ヴィラルタ)を中心メンバーとする建築家たちRCR Arquitectesの展覧会を見学してきた。2017年には建築家のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した建築家グループである。年代もほぼわたしと同世代の建築家たちである。

彼らの仕事(仕事の事例 上写真:バルセロナ、サンタント二図書館)が興味深いのは当然のことだが、その拠点が、バルセロナから北へ100km程(グーグル・マップでみた限り)離れた自然のなかで、古いヴィラ(ラ・ヴィラと呼ばれる)を改築した建築内で建築研究所を立ち上げ仕事をしているようなのである。

これは東京を中心とすると、群馬の高崎、あるいは栃木の宇都宮、静岡の伊東あたりを拠点に活動している感じであろうか。こうしたいわば地方で活躍する建築家たちでありながら、地域性と国際性という両価的な仕事をこなしていることが高く評価されたようだ。

会場内では彼らの活動のビデオが流されていたが、多分、彼らの話す言葉はカタルーニャ語であったのではないか?通常のスペイン語のような乾いた響きが感じられなかったから、そのように思ったのである。仕事は、外部廻りではモダンな装飾性の強い仕事ではあったが、日本の建築のように、設計に時間がかけられなかったことがわかるような仕事ではない。きっと日本の3倍以上の時間を設計に費やしているはずである。建築自体の印象が重々しく、暗い印象であったことは気になったが、設備を含めた素材の選択、収まりに相当の時間が費やされたのがわかる。

彼らのように今後、地方の素材や技術を再評価し、地方でゆっくりと仕事をこなしていくような建築家のあり方に益々注目が集まっていく時代となるかもしれない。このわたしも、できればそのような工房をもつことができればと思わなくはない。工房をもてないとしても、彼らのように、様々な地域と関わっていけるような仕事をしたいものである。

by kurarc | 2019-03-24 23:04 | architects

リリー・ライヒ ミースの影に隠れた女性建築家

b0074416_20311610.jpg

昨年はアイリーン・グレイという女性建築家が話題になった。映画にもなり、コルビュジェとの確執も生々しく描かれていた。岸和郎氏の著作『デッドエンド・モダニズム』には、そのグレイと、もう一人、リリー・ライヒについて書かれている章がある。

リリー・ライヒについてはわたしも詳しいことはわからないし、調べてみたこともない。ミースの協働者であり、特にミースの建築のインテリアに携わった女性デザイナー、建築家である。

岸氏の指摘では、ミースの影に隠れ、忘れ去られた建築家であったが、1996年のMOMAで彼女のカタログ(上写真)が出版され、その全体像が見えてきたという。どうも、ミースの建築の「センシャル」な部分を彼女が補っていたのではないか・・・

数多くの建築をつくる建築家たちは、所員を数多くかかえ、その中でコンペティションなども行い、優秀な案を選択して、所長の名前で発表することは珍しいことではない。わたしはそうしたやり方に賛同するものではないが、自分とは異なる感性をもつような建築案を取り入れ、全く新しい建築をつくっていくという行為自体は肯定的に考えている。

ミースの代表作と言われている様々な建築に特有な生々しい素材感は、もしかしたら、リリー・ライヒの感性から生み出されたものが数多くあったのではないか・・・来年は、リリー・ライヒが日本のメディアの中で数多く取り上げられる気がする。

*あの名作、ファンスワース邸のカーテンは、シルクシャンタンが使われているという。こうした選択も、ライヒが関わった(この建築が竣工した時点で、ライヒは亡くなっていたが、彼女の感性を継承したという可能性)可能性が高いのではないか?どう考えても、ミースが選択したとは想像できない。

*ライヒのカタログはインターネット上でpdfとしてダウンロードできる。

by kurarc | 2018-12-13 20:28 | architects

インド人建築家 ドッシ氏 プリツカー賞受賞

b0074416_21454458.jpg
インド人建築家、都市プランナーのバルクリシュナ・ドッシ氏がプリツカー賞を受賞したことを知った。

以前、このブログでも書いたが、1985年3月に初めてインドを訪れ、旅の途中にドッシ氏(ル・コルビュジェのお弟子さん)のアトリエを訪問した。当時、インド留学中であり、現在、徳島で活躍される建築家の新居照和氏に連れて行っていただいたのである。あいにく、ドッシ氏は不在であったが、建設されてからまだ日の浅いアトリエ(上下写真、Business insider Japan HPより引用)を内部も含め、見学させていただいた。

このアトリエには、外部に送風機が仕組まれ、水に浸された布状のもの?を風が通過し、気化熱を奪われた冷風が建築内部に取り入れられるというシンプルなエアコンの仕組みがデザインされていた。環境建築の先駆けといってよい建築であった。

以前ブログでも書いたが、ちょうど3時頃訪ねたこともあり、所員の方々はティータイムで、外部の庭で優雅に紅茶を味わっていた。その間、わたしはアトリエを見学させていただいたのである。ボールト状の開放的な屋根がインドの強烈な日差しを遮断し、深い陰影をつくるデザインである。

インド人では初めてというプリツカー賞であるが、今後ドッシ氏の事務所出身の建築家たちが、多くの優れた建築をつくっていく(すでにつくられている)ことになるのだろう。
b0074416_21515722.jpg

by kurarc | 2018-05-01 21:46 | architects