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沖縄の建築家 末吉栄三さんのコラム記事

日本建築学会に雑誌のバックナンバーを調べに立ち寄った。30年以上前の『建築文化』という雑誌のある記事をコピーするためである。同じ雑誌の中に「変容する沖縄の風景」という特集があり、末吉先生ほか沖縄の建築家の仕事や対談も掲載されていた。

事務所に戻ってから、末吉先生からいただいた原稿などまとめたファイルを久しぶりに開くと、「唐獅子」という沖縄タイムズだと思うが、末吉先生が25回にわたり担当したコラム記事のコピーがあることに気がついた。1978年から1979年に掲載されたものであり、先生が33から34歳のときに書かれたものである。わたしが沖縄にいるときにいただき、すでに読んでいたが、改めて読んでみると、末吉先生から教えられたことがわたしのベースにあることに気づかされた。

この記事を読んでいなかったら、わたしはアムステルダムのアンネ・フランクの家やウィーンのカール・エーンが設計したカール・マルクス・ホーフは見学しなかっただろう。また、スペインのポル・ボウを通り過ぎた時、ここがベンヤミンが自死した場所であることを想像できなかったと思うし、バルセロナのランブラス通りを歩きながら、スペイン戦争やジョージ・オーウェルを思い浮かべることはできなかったと思う。

『建築文化』の特集のなかで、末吉先生は、那覇の廃墟が出発点であったことを述べている。大木などなにもないような街が先生の原風景なのである。だから、沖縄にいるとき、植物へのこだわりが人一倍強いことを身近にいて感じていた。

このコピー原稿の最後のページ裏に、沖縄在住時、暮らしていたアパート(アパートといっても沖縄なので鉄筋コンクリート造である)の住所とその家賃28,500円というメモが書いてあった。アパートの名称は「みどり荘」であった。

*末吉栄三先生は、昨年、逝去されました。

by kurarc | 2020-02-14 14:11 | architects(建築家たち)

立原道造によるブルーノ・タウト講義ノート

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本日、パナソニック汐留美術館で開催されている『モダンデザインが結ぶ暮らしの夢展』を見学してきた。

タウトやレーモンドなど日本おいていまだに人気のある建築家たちの展覧会であり、すでに日本でも数多く開催されていることもあり、展示品はそう変わりばえしないのではないか、と思っていたが、その予想は見事に裏切られ、わたしにとって初めて見ることができた仕事、資料が数多く展示されていた。

個人的には、タウトの日記の現物、上野伊三郎の竹による椅子に興味をもったが、その中に、立原道造の東京大学で受講したタウトの講義ノートが展示されていた。

以前、わたしは修士論文を書くとき調べたが、1934年7月9日、7月10日、7月12日、7月13日、7月16日、7月17日の計6日にわたり連続して講義が行われていることはわかっていた。この講義ノートはその時のもののようで、立原がどのように講義を理解し、ノートしたのか気になった。ショーケースの中に展示してあるだけなので、内容まではわからない。是非、ノートの内容を公開すべきだと思われる。

参考までにタウトの講演題目を下に記しておく。

1934年
7月9日 :建築の優れた質を成就する根本条件としての自由建築家
7月10日:建築の発展を担当した西洋建築家たち
7月12日:住宅建築
7月13日:ジードルンク建築
7月16日:一般建築
7月17日:都市計画



by kurarc | 2020-02-11 21:01 | architects(建築家たち)

ドキュメンタリー映画『スケッチズ・オブ・フランク・ゲイリー』

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カナダ生まれ、アメリカの建築家フランク・ゲイリーの自伝的なドキュメンタリー映画をみた。ロシア(父)やポーランド(母)のユダヤ系の血をひいていることもあり、かなりの苦労人であることを知った。

彼のインタビューを交えてのドキュメンタリー映画であるが、正直で率直な物言いは好感が持てた。先日紹介したフライ・オットーの建築もそうだが、ゲイリーの建築も日本人の感性からは生み出されそうもない建築と思われるが、彼は、建築家になる前、陶芸を学んでいたことを知り、その造形力はそうした彼の生い立ちが影響しているように感じられた。また、破産寸前になったり、同僚からバカにされていたりと当初から恵まれた建築家ではなかったことを知る。彼は初めの奥さんと離婚したが、その奥さんに名前を変えるように言われ、現在のフランク・ゲイリーという名になったという。そうした、隠しておいたほうがよいようなエピソードも、笑いながら話すゲイリーの懐の深さにも感心した。

映像中で、彼の要望を模型にする所員の姿が映されていたが、正直、かなり理不尽な要望で、所員も辛そうであったが、ゲイリーはむしろ収まりの悪い建築を求めているようなところがあり、驚く。こうした建築のつくり方は、日本のような雨の多い気候ではなじまないだろう。彼は、クライアントを大切にする建築家でもあるようで、よいクライアント(ゲイリーの建築に理解のあるクライアント)にはよい建築ができるという信念を持っているという。だからといって、事細かにクライアントの要望を聞き出すようなことはしないらしい。彼なりにクライアントの考えを察し、それをカタチに反映させるということである。こうした考えは、建築家が中心となって進めるべきといった普通の建築家の感性とも異なっている。

ゲイリーのような建築は私には到底できそうもないが、彼から学ぶべきところは、先入観を持たないで仕事に取り組むというところだろうか。

by kurarc | 2020-01-22 21:56 | architects(建築家たち)

吉田鉄郎 100年前の図面


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今日は新しく始まる現場で近隣挨拶の後、旧岩崎邸庭園内にある国立近現代建築資料館で、「吉田鉄郎の近代モダニズムと伝統の架け橋」を鑑賞する。

この展示は、今からおよそ100年前、吉田の10代に描いた図面(絵画)から晩年の仕事に至るまでを俯瞰できるものであり、非常に興味深い展示であった。わたしが特に驚いたのは、吉田の絵心である。彼は、どうも美術大学(多分芸大)を志望していたようで、絵の才能に恵まれていたことを初めて知った。

また、吉田は東京大学に入学することになるが、そこでの課題案から、西洋の古典的な建築から、日本の古建築に至るまで、すべてを学んでいるということがわかった。吉田を単にモダニズムの建築家として狭義に捉えてしまうことは大きな間違いであると言える。

そうした背景もあり、わたしは彼が最晩年にスウェーデン建築へ傾斜したことがうなずけたのである。もしかしたら、東京中央郵便局のようなモダニズム建築の仕事は吉田の本心からやりたかった仕事ではなかったのではないか、これはあくまで逓信省という企業の中にいた建築家としての仕事であり、彼の中にはもう少し違った感性が眠っていたのではないか。今回の展示を見てそのように感じた。

吉田は、富山の地方都市の出身者ではあるが、その建築家としての力量は世界に通じるものを持っていた稀有な存在である。吉田の後輩たち、分離派と言われる運動を行なった建築家はジャーナリスティックに発言するものが多かったが、吉田は常に静かで冷静に仕事を行なっていたようである。このような建築家はわたしの周りにはいないし、今までに会ったこともない。

by kurarc | 2019-11-02 20:53 | architects(建築家たち)

建築家吉田鉄郎の展示会

吉田鉄郎、と聞いてあの建築を設計した人と思い浮かべることができる人は相当の建築フリークだろう。東京住まいの人間にとっては東京駅脇に建つ旧東京中央郵便局((現在KITTE)が最も著名な建築だろう。11月1日から、国立近現代建築資料館で、『吉田鉄郎の近代 モダニズムと伝統の架け橋』と題された吉田鉄郎の展示会が開催されるという。これは必見である。

吉田は典型的な旧制高校出身の秀才建築家と言えるだろう。彼の出身地は少し前に訪れた富山県高岡のずっと南の山奥である。吉田は設計力も優れていたが、ドイツ語で日本の建築に関する著作を著すなど、語学力にもたけていた。わたしが修士論文で取り上げたブルーノ・タウトも日本の建築家の中で吉田を最も高く評価した。

わたしも逓信省時代の建築は知っているが、彼の仕事の全貌については把握していない。この機会にこの展示会で彼の業績を改めて学習したいと思う。

吉田は長生きはしなかった。1956年に62歳の若さで亡くなっているが、あと10年長生きしたならば、日本の建築界を変えるだけの仕事を成し遂げたのではないか。それも、その当時は気付かれずに、後になってわかるような仕事を。

*こうした展示会は残念ながら東京近郊住まいの人間でしか楽しむことはできない。その辺りが東京住まいのメリットだと言える。地方に住むことは、こうした企画を楽しめないことになる。財力と時間がある人は別だが、地方に住む場合はまた別のメリットがあるということを謳歌すべきなのだろう。

by kurarc | 2019-10-28 19:55 | architects(建築家たち)

金沢21世紀美術館


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金沢に行った目的の一つは、金沢21世紀美術館を訪れることであった。この美術館の評判はすこぶる良い。それが何によるのか確かめたいということであった。

結論から言うと、この美術館はコンセプトのみを浮かび上がらせた美術館と言えるものであり、建築自体に興味は持てなかった。しかし、それはこの美術館が優れていないと言っているわけではない。むしろ、稀有な美術館である、と言うことである。

美術館は、いわゆる芸術品を収める場所であるから、多くは大げさな意匠を行う建築が多い。しかし、この美術館にはそうした過剰な意匠はまったく見あたらない。円形のボックスに、高さの異なる直方体が突き刺さったような建築、それだけなのだ。さらに、直方体と直方体の間は室内の街路空間と言えるスペースとなっていて、美術館内を自由に歩き回ることができる。つまり、この美術館は都市内都市として計画されているのである。

こうしたことをやっただけで、大げさなことは一切省かれている。これほど明快なコンセプトを体現した建築はあまりお目にかかれない。建築家たちは通常、ディテールなどを見せびらかしたがる。この建築にはそうしたいやらしさが見あたらない。

こう書くと、この建築を絶賛しているように思われるかもしれないが、そう言っているわけでもない。コンセプトのみが浮かび上がるが、ものとしての魅力には欠ける。この辺りのバランスは非常に難しいが、もう少し、意匠を突き詰められたら、もっと優れた建築になったに違いない。

*ここで、「コンセプト」という言葉を使った。学生などが課題発表のとき、よく使う言葉だと思う。もしかしたら、今ではもう死語なのかもしれない。ジャズギタリストの高内春彦氏の著書を少し前に紹介したが、この著作の中でも「コンセプト」という言葉の定義のようなことが言及されていた。
絵画で言えば、遠近法の表現ではなく、印象派以後の表現、これが「コンセプト」である。「コンセプト」とは自己の定義による表現形式のこと。芸術全般は、19世紀のある時期から自ら定義するものとなった。音楽では、ドミナント・モーションが捨てさられたとき、「コンセプト」がはじまる。印象派の音楽である。「コンセプト」という言葉は、実は近代以後の言葉なのだと高内氏の著書から気づかされた。


by kurarc | 2019-09-27 23:39 | architects(建築家たち)

金沢市立玉川図書館


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およそ40年ぶりに金沢を訪れた。金沢21世紀美術館なども訪れたが、わたしにとって思い出深い建築は、金沢市立玉川図書館であったこともあり、再訪した。

谷口吉郎監修、設計は谷口吉生氏という親子共同による仕事として著名な建築であり、40年前にも訪ねた。改めてこの建築を見学したが、日本の図書館建築で、わたしが見学したものの中で最も興味深い建築である。これが金沢中央図書館ではなく、分館であるということにも驚かされる。金沢の建築文化の質の高さを思い知らされる。

この建築が優れているのは、隣接する近世資料館との対比であろう。様式建築とモダニズムの建築がこれほど明確に対比される様相を他に見たことはない。様式建築に媚びることなく現代の建築を素直に設計している。もちろん、隣接する様式建築のプロポーションや高さには注意を払いながら、レンガという素材感だけは何気なく中庭に取り入れて、内部からレンガの質感を鑑賞できるようにして、隣接する近世資料館と連続するようにデザインされている。中庭は連続するための装置でもある、ということになる。

今回、メインは富山の高岡であったため、金沢には時間がかけられなかったが、安い宿でも探し、3日、4日滞在して、じっくりと金沢建築を堪能したくなった。

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by kurarc | 2019-09-26 02:00 | architects(建築家たち)

ガウディと奴隷制度

小説『ダイヤモンド広場』の翻訳者田澤耕氏は、『ガウデイ伝「時代の意志」を読む』という興味深い書物を著している。我々のような建築の専門家はガウディ(ガウディー)の仕事のみに着目しがちであるが、田澤氏は、ガウディが生きた19世紀から20世紀のスペイン、特にカタルーニャ、あるいはバロセロナ(バルサロナ)に着目して、ガウディの背後に隠されている世界を読み解いている。

ガウディがあれほど数々の仕事をこなすことができたのは、カタルーニャの経済事情と彼を支えたパトロン達によるわけだが、その一つの理由として、カタルーニャとクーバとの交易、特に奴隷売買との関係を考えなければならない。

カタルーニャ人は、クーバ(キューバ)との間で取り交わされた貿易、特に奴隷売買で巨額の富を得たことが、バルセロナという都市の復興には欠かせない要素であったと田澤氏は指摘している。18世紀後半まで、カタルーニャは、アメリカ(コロンブスらが発見した世界)との貿易は禁じられていたが、1765年、バルセロナが貿易港として認められると、19世紀初頭からクーバとの交易が活発化し、多くのカタルーニャ人がクーバへ移住した。クーバへの移民は「5年辛抱、一財産」と言われていたといい、カタルーニャ人たちはクーバでものを作り売るという今までのスペイン人にない手腕で、クーバ経済を牛耳るようになった。

その中でも、もっとも割りが良かったのは奴隷の売買であった。1865年まで奴隷貿易は続いたが、それはガウディが生きていた頃(ガウディは1852生まれ)にも続けられていたことになるという。後にガウディに数多くの仕事を提供するパトロン、グエイ氏は、このクーバで巨額の富を築いたジョアン・グエイ氏の長男であった。こうしたことを知ってもガウディの仕事の偉大さは失われることはないが、わたしはこうした背景を知ると、何か気まずさを感じずにはいられない。ガウディが敬虔なキリスト教徒になったのも、こうした世界から遠ざかり、身を清めたいと思ったからではないか。

現在でも多くの建築は巨大な富と切っても切り離せないが、わたしにはまったく無縁の世界である。しかし、住宅であっても建築を建設できるクライアントは貧しくては不可能だから、わたしも一切無縁かというとそうも言えない。これは建築という世界が持つ運命のようなものといえる。

*この書物にピカソのことが登場するが、あのキュビズムの誕生を告げる名画「アヴィニョンの娘たち」という絵画であるが、これは南フランスのアヴィニョンではなく、バルセロナの歓楽街アヴィニョ通りから来ているのではないか、と田澤氏は指摘している。これは、すでに、高階秀爾氏の名著『続 名画を見る眼』でも指摘されている。



by kurarc | 2019-09-02 20:07 | architects(建築家たち)

求道会館、求道学舎見学

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武田五一設計の求道会館、求道学舎を見学した。東京ヘリテージマネージャーの会、設立記念シンポジウムの一環で行われた見学会であった。

求道学舎(上写真)は、一部個人宅の内部まで見学させていただく。求道学舎は階高が高く、リノベーションには非常に適していたという。わたしが最も興味をもったのは、求道学舎(リノベーション)が規則的な開口部をもつ建築物であり、決してインテリアから発想された開口ではないにもかかわらず、内部のインテリアについては、その規則的な開口の中で自由に発想され、なにか不自然な、あるいは不自由なプランになっていなかった点である。(見学させていただいた個人宅は、一部廊下部分が部屋にされていた。)

建築家はプランを優先的に発想し、そのプランに適した開口部を考えることが普通である。それによって、全体の外観を考えるとバランスを失った開口部になることもある。それらをまた設計変更して、バランスを調整していく訳だが、この求道学舎の仕事を考えると、新築においても外部から建築を発想することも可能なのではと思わされたのである。

この発想は、古典的な発想と言えるかもしれないが、はじめに規則的に開口部の位置を設定することはコストの面から、また構造の面からも非常に合理的である。そのように外殻を決めてから、その開口部に内部のプランを適合させていくという進め方ができる、ということをこの求道学舎のリノベーションが証明している、ということである。
(たとえば、超高層ビルはほとんど規則的な開口部をもつ。リノベーションを行う場合は、その規則性に従わなければならない。)

*南側の開口部は壁量に余裕があったことから、幅を900mmから1200mmに変更しているとのこと。それにしても、規則的な開口部の位置は根本的には変わっていない。



by kurarc | 2019-05-12 21:21 | architects(建築家たち)

イームズハウスのプロブレマティーク


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昨日、ギャラリーエークワッドで『イームズハウスの魅力を語る』と題する建築家岸和郎氏と評論家植田実氏の対談を聴講した。

イームズハウスは日本のインテリア雑誌で度々取り上げられ、建築関係者以外でもファンの多い住宅であると思う。しかし、その成立過程、立地、建築のディテールなどをみていくと、様々な問題群(プロブレマティーク)が浮かび上がってくる。そうした問題群を出発点として、この住宅の意味を捉え直すという主旨の講演+対談であった。

特に、上の問題群は岸氏より提出され、議論された。イームズハウスには第1案(上写真)があったが、彼らはそれを放棄し、第2案をつくり建設した。岸氏によれば、第1案は、敷地が海に近いこともあり、その景観を取り込むような案で、普通の建築家であれば誰もが考えつく案であるが、これを止めたところにイームズの素直でない部分がある、と指摘していた。
(素直でない、とは悪い意味で使っている訳ではない。イームズ夫妻は次元の異なる解を選択した、ということである。)

また、実現されたイームズハウスの出隅に着目すると、こうした収まりはミースのような「建築家としての収まり」とは思えないとし、彼らは建築家という感じがしないことも指摘していた。

また、イームズハウスが色彩を採用した壁面など、スクリーン(マルチスクリーン)を意識したものづくりを行っていることに着目し、極めて映像的な建築、面の連続を意識した建築であることなども指摘していた。

その他、様々な問題群を取り出し、この建築がいかに特殊な建築であるかを述べていた。ジャーナリズムの中では、単に魅力を述べるだけで終わる場合が多いが、我々のような建築家はそうした見方につられてはならない。この建築がまずどのような都市(ここではロスアンゼルス)に建設され、どのような特性をもった敷地であり、なぜ既製部材で組み立てられたのか、近隣にはどのような建築があるのか、敷地内にはどのような植栽があり・・・などあげれば切りがないが、そうした文脈を一つ一つ考えながら、この建築を批判的に読解していかなくてはならない。単に「きれい」、「美しい」ではすまされないのである。

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by kurarc | 2019-03-29 18:56 | architects(建築家たち)