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カテゴリ:architects( 89 )

沖縄からのメール

5月末から6月にかけて訪ねた沖縄の末吉栄三計画研究室の末吉礁君からメールが届いた。お父様を亡くされた後、仕事がとれたetc.との内容である。

沖縄の特に学校建築で実績を残した末吉栄三さんの後を継いで、新たな出発を始めたという知らせである。沖縄からメールが届くというのも感慨深い。メールというのも捨てたものではない、よいツールだなと思う。沖縄を訪れ2ヶ月以上が過ぎたが、改めて沖縄という場所、世界を大切にしなければとつくづく思う。

礁君からメールをもらった時、わたしが沖縄に旅立った時の光景が思い出された。自宅のすぐ近くのバス停からリックを背負って、バスに乗り、ふと後ろを振り向くと、バス通り沿いに両親が並んで立ち、わたしを見送っていた光景である。両親が並んで立つという光景をその後、わたしは一度も見ていない。多分、その時が最初で最後である。沖縄での仕事をやめ、東京に戻ってからすぐに父も他界してしまったからである。

沖縄に何か貢献できることはないか、遅ればせながら今、そう思っている。年末には末吉栄三さんの回顧展が開催されるかもしれない、と聞いている。多分、また今年、沖縄を訪れることになりそうである。

by kurarc | 2019-08-09 22:46 | architects

沖縄 原点への旅

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22年ぶりに沖縄を訪ねた。1984年から85年にかけて沖縄で働いていたときお世話になった建築家末吉栄三さんが亡くなられ、そのお墓参りを兼ねて、5日間滞在した。梅雨の時期ではあったが、幸い建築を見学中に雨に降られることもなく、傘を使うことはなかった。

那覇市内中心部の変貌ぶりには驚かされ、モノレールにも初めて乗った。都市部は物質的には本土並みに整えられ、東京と変わらないが、相変わらず時間の流れ方は穏やかである。

今回は末吉さんの仕事を中心に見学し、また、いつも沖縄でお世話になる建築家の山田正永さんの仕事も見学させていただく。その他、北部大宜味村まで車を走らせ、過去に訪ねた集落や建築を含め見学してきた。

末吉さん、山田さんの仕事は小学校、中学校、幼稚園など学校建築が多く、それぞれ見学先で沖縄の子供たちにもふれ、その人なつっこさ、明るさに元気をもらってきた。那覇市内の学校は末吉さんをはじめとする建築家たちの努力もあり、東京の学校建築にはみることができない豊かな空間づくりに成功している。

いつもながら末吉さんの事務所の先輩や、今回は末吉さんの息子さん、末吉礁君とも多くの時間を過ごすことができ、沖縄について多くを教えていただき、充実した滞在となった。わたしの方は東京での生活に追われ、沖縄についての学習を怠っていたことに改めて気づかされた。

沖縄はわたしが社会に出て初めて過ごした場所。これからもこの場所を大切にし、もう少し頻繁に訪れることができるようにしたい。

*写真は那覇市前島の「ふみや」という料理屋。わたしが沖縄で働き始めた初日に末吉さんに連れてきていただき、「ジューシー」と「イナムドゥチ」をご馳走になった。この味が忘れられず、沖縄を訪れるときにはいつも立ち寄る。今回も初日と最終日に立ち寄った。35年前と変わらない味と店構え。次に訪ねられるのはいつだろう。


by kurarc | 2019-06-02 09:46 | architects

求道会館、求道学舎見学

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武田五一設計の求道会館、求道学舎を見学した。東京ヘリテージマネージャーの会、設立記念シンポジウムの一環で行われた見学会であった。

求道学舎(上写真)は、一部個人宅の内部まで見学させていただく。求道学舎は階高が高く、リノベーションには非常に適していたという。わたしが最も興味をもったのは、求道学舎(リノベーション)が規則的な開口部をもつ建築物であり、決してインテリアから発想された開口ではないにもかかわらず、内部のインテリアについては、その規則的な開口の中で自由に発想され、なにか不自然な、あるいは不自由なプランになっていなかった点である。(見学させていただいた個人宅は、一部廊下部分が部屋にされていた。)

建築家はプランを優先的に発想し、そのプランに適した開口部を考えることが普通である。それによって、全体の外観を考えるとバランスを失った開口部になることもある。それらをまた設計変更して、バランスを調整していく訳だが、この求道学舎の仕事を考えると、新築においても外部から建築を発想することも可能なのではと思わされたのである。

この発想は、古典的な発想と言えるかもしれないが、はじめに規則的に開口部の位置を設定することはコストの面から、また構造の面からも非常に合理的である。そのように外殻を決めてから、その開口部に内部のプランを適合させていくという進め方ができる、ということをこの求道学舎のリノベーションが証明している、ということである。
(たとえば、超高層ビルはほとんど規則的な開口部をもつ。リノベーションを行う場合は、その規則性に従わなければならない。)

*南側の開口部は壁量に余裕があったことから、幅を900mmから1200mmに変更しているとのこと。それにしても、規則的な開口部の位置は根本的には変わっていない。



by kurarc | 2019-05-12 21:21 | architects

イームズハウスのプロブレマティーク


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昨日、ギャラリーエークワッドで『イームズハウスの魅力を語る』と題する建築家岸和郎氏と評論家植田実氏の対談を聴講した。

イームズハウスは日本のインテリア雑誌で度々取り上げられ、建築関係者以外でもファンの多い住宅であると思う。しかし、その成立過程、立地、建築のディテールなどをみていくと、様々な問題群(プロブレマティーク)が浮かび上がってくる。そうした問題群を出発点として、この住宅の意味を捉え直すという主旨の講演+対談であった。

特に、上の問題群は岸氏より提出され、議論された。イームズハウスには第1案(上写真)があったが、彼らはそれを放棄し、第2案をつくり建設した。岸氏によれば、第1案は、敷地が海に近いこともあり、その景観を取り込むような案で、普通の建築家であれば誰もが考えつく案であるが、これを止めたところにイームズの素直でない部分がある、と指摘していた。
(素直でない、とは悪い意味で使っている訳ではない。イームズ夫妻は次元の異なる解を選択した、ということである。)

また、実現されたイームズハウスの出隅に着目すると、こうした収まりはミースのような「建築家としての収まり」とは思えないとし、彼らは建築家という感じがしないことも指摘していた。

また、イームズハウスが色彩を採用した壁面など、スクリーン(マルチスクリーン)を意識したものづくりを行っていることに着目し、極めて映像的な建築、面の連続を意識した建築であることなども指摘していた。

その他、様々な問題群を取り出し、この建築がいかに特殊な建築であるかを述べていた。ジャーナリズムの中では、単に魅力を述べるだけで終わる場合が多いが、我々のような建築家はそうした見方につられてはならない。この建築がまずどのような都市(ここではロスアンゼルス)に建設され、どのような特性をもった敷地であり、なぜ既製部材で組み立てられたのか、近隣にはどのような建築があるのか、敷地内にはどのような植栽があり・・・などあげれば切りがないが、そうした文脈を一つ一つ考えながら、この建築を批判的に読解していかなくてはならない。単に「きれい」、「美しい」ではすまされないのである。

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by kurarc | 2019-03-29 18:56 | architects

RCR Arquitectes カタルーニャの建築家たち

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TOTOギャラリー間でスペイン人(カタルーニャ人)3人(ラファエル・アランダ、カルマ・ビジャム、ラモン・ヴィラルタ)を中心メンバーとする建築家たちRCR Arquitectesの展覧会を見学してきた。2017年には建築家のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した建築家グループである。年代もほぼわたしと同世代の建築家たちである。

彼らの仕事(仕事の事例 上写真:バルセロナ、サンタント二図書館)が興味深いのは当然のことだが、その拠点が、バルセロナから北へ100km程(グーグル・マップでみた限り)離れた自然のなかで、古いヴィラ(ラ・ヴィラと呼ばれる)を改築した建築内で建築研究所を立ち上げ仕事をしているようなのである。

これは東京を中心とすると、群馬の高崎、あるいは栃木の宇都宮、静岡の伊東あたりを拠点に活動している感じであろうか。こうしたいわば地方で活躍する建築家たちでありながら、地域性と国際性という両価的な仕事をこなしていることが高く評価されたようだ。

会場内では彼らの活動のビデオが流されていたが、多分、彼らの話す言葉はカタルーニャ語であったのではないか?通常のスペイン語のような乾いた響きが感じられなかったから、そのように思ったのである。仕事は、外部廻りではモダンな装飾性の強い仕事ではあったが、日本の建築のように、設計に時間がかけられなかったことがわかるような仕事ではない。きっと日本の3倍以上の時間を設計に費やしているはずである。建築自体の印象が重々しく、暗い印象であったことは気になったが、設備を含めた素材の選択、収まりに相当の時間が費やされたのがわかる。

彼らのように今後、地方の素材や技術を再評価し、地方でゆっくりと仕事をこなしていくような建築家のあり方に益々注目が集まっていく時代となるかもしれない。このわたしも、できればそのような工房をもつことができればと思わなくはない。工房をもてないとしても、彼らのように、様々な地域と関わっていけるような仕事をしたいものである。

by kurarc | 2019-03-24 23:04 | architects

リリー・ライヒ ミースの影に隠れた女性建築家

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昨年はアイリーン・グレイという女性建築家が話題になった。映画にもなり、コルビュジェとの確執も生々しく描かれていた。岸和郎氏の著作『デッドエンド・モダニズム』には、そのグレイと、もう一人、リリー・ライヒについて書かれている章がある。

リリー・ライヒについてはわたしも詳しいことはわからないし、調べてみたこともない。ミースの協働者であり、特にミースの建築のインテリアに携わった女性デザイナー、建築家である。

岸氏の指摘では、ミースの影に隠れ、忘れ去られた建築家であったが、1996年のMOMAで彼女のカタログ(上写真)が出版され、その全体像が見えてきたという。どうも、ミースの建築の「センシャル」な部分を彼女が補っていたのではないか・・・

数多くの建築をつくる建築家たちは、所員を数多くかかえ、その中でコンペティションなども行い、優秀な案を選択して、所長の名前で発表することは珍しいことではない。わたしはそうしたやり方に賛同するものではないが、自分とは異なる感性をもつような建築案を取り入れ、全く新しい建築をつくっていくという行為自体は肯定的に考えている。

ミースの代表作と言われている様々な建築に特有な生々しい素材感は、もしかしたら、リリー・ライヒの感性から生み出されたものが数多くあったのではないか・・・来年は、リリー・ライヒが日本のメディアの中で数多く取り上げられる気がする。

*あの名作、ファンスワース邸のカーテンは、シルクシャンタンが使われているという。こうした選択も、ライヒが関わった(この建築が竣工した時点で、ライヒは亡くなっていたが、彼女の感性を継承したという可能性)可能性が高いのではないか?どう考えても、ミースが選択したとは想像できない。

*ライヒのカタログはインターネット上でpdfとしてダウンロードできる。

by kurarc | 2018-12-13 20:28 | architects

インド人建築家 ドッシ氏 プリツカー賞受賞

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インド人建築家、都市プランナーのバルクリシュナ・ドッシ氏がプリツカー賞を受賞したことを知った。

以前、このブログでも書いたが、1985年3月に初めてインドを訪れ、旅の途中にドッシ氏(ル・コルビュジェのお弟子さん)のアトリエを訪問した。当時、インド留学中であり、現在、徳島で活躍される建築家の新居照和氏に連れて行っていただいたのである。あいにく、ドッシ氏は不在であったが、建設されてからまだ日の浅いアトリエ(上下写真、Business insider Japan HPより引用)を内部も含め、見学させていただいた。

このアトリエには、外部に送風機が仕組まれ、水に浸された布状のもの?を風が通過し、気化熱を奪われた冷風が建築内部に取り入れられるというシンプルなエアコンの仕組みがデザインされていた。環境建築の先駆けといってよい建築であった。

以前ブログでも書いたが、ちょうど3時頃訪ねたこともあり、所員の方々はティータイムで、外部の庭で優雅に紅茶を味わっていた。その間、わたしはアトリエを見学させていただいたのである。ボールト状の開放的な屋根がインドの強烈な日差しを遮断し、深い陰影をつくるデザインである。

インド人では初めてというプリツカー賞であるが、今後ドッシ氏の事務所出身の建築家たちが、多くの優れた建築をつくっていく(すでにつくられている)ことになるのだろう。
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by kurarc | 2018-05-01 21:46 | architects

福生市役所見学

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今日は午前中に福生市役所を見学。以前勤務していた建築設計事務所が設計監理を手がけた建築である。三鷹市庁舎建て替えのワークショップに参加することになったため、最近建設された新しい市役所の学習も兼ねての見学である。

結論から言うと、福生市役所は、スケール観がよいこと、市役所としての権威の誇示などは感じられず、好感がもてた一方、様々な点において疑問をもったことも事実である。

まずは、人工地盤のつくりかた。芝生を植えることはよいが、傾斜をつけることにどれだけの意味があるのか?市役所は非常時に市民が集まるような機能を考えると、安易に傾斜をつけるよりも、集まったときに、機能的な広場にできることを優先すべきではないか?また、人工地盤へ上るのは階段のみであり、スロープがない。車椅子利用者は、一度建物の中のエレベーターを利用して、この人工地盤に上ることになる。(つまり、休日には人工地盤に登れない)スロープを排除したのはなぜか?etc.

屋外階段の収まりに欠陥があり、見苦しかった。これは設計事務所の詰めの甘さが露呈していた。市役所としての魅力はあるが、大くの疑問が残る建築であった。

三鷹市は今後どのような市役所を模索していくことになるか?建築家は予定調和的に広場を計画したり、ホールを計画するが、市民に喜ばれない、または、市民が活用しようとしない広場をつくっても意味がない。そのような広場であればない方がましである。広場を計画するのであれば、ロマン主義に偏らず、確実に市民に利用されるような仕掛けを用意しなくてはならない。21世紀、ポスト3.11の現在、市役所(市庁舎)は、徹底的に市民の活用をシミュレーションした上で計画すべきである。

*開口部の内側には手動のアルミルーバーが設置されている。手の届くところは開閉が容易だが、吹き抜け状の箇所はどのように操作しているかよくわからなかった。

*芝生、床タイルとツラ(同一面状)に収められたトップライトには、「ガラスの上に乗らないでください」の注意書きがあった。強度上は問題ないと思われるが、万が一のためにという注意書きだと思う。このように書かれることは予想できたはずなのだから、トップライトの収まりを地面とツラで収めるのは問題がある。

*今日は初夏のような天気。このようなよい天気の日に、人工地盤上の広場には誰もいない。多分、休日も同様だろう。この広場は一体なんのためにあるのだろう?
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by kurarc | 2018-04-19 16:26 | architects

建築家センムト

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NHKでエジプトに関するテレビ番組をみていると、ハトシェプスト葬祭殿(上写真、wikipediaより)が登場した。この建造物を設計したのはセンムト(Senenmut、下写真)というハトシェプストの側近であった人物であったという。わたしは恥ずかしながら初めてこの建築家の名前を知った。

われわれ建築を学ぶものは、建築史といえば西洋建築史であり、古代ギリシャ、ローマの建築から記述がはじまる。つまり、それ以前の古代エジプトの建築史などは蚊帳の外。興味をもったものしか学習しないだろう。わたしは一度エジプトを訪れ、その巨大な建造物に腰をぬかしたが、自分で興味をもったのは西洋(特に近代)の建築であった。

あるお世話になった建築家の方に、古代ギリシャのパルテノンのような建造物には数学(比例)が感じられる、と教えられたことがある。わたしも同感なのだが、ハトシェプスト葬祭殿にも古代ギリシャとは異なる数学が感じられると今日テレビをみていて感じた。

中央に伸びやかな傾斜路をもち、古代ギリシャとは異なる古典的な列柱がかもしだすリズム。岩石から秩序を掘り起こしたようなプロポーション。建築家センムトの設計意図は明らかだ。それは、カオスとしての自然からまさに「建築」と感じられる秩序を現前させることであったのだろう。強烈な太陽光を意識したデザインのようにも思われる。センムトは天文学に精通していたというから、彼のデザインが宇宙と連関するようなコンセプトであったかもしれない。よく知られているように、こうした古典性の表層をナチスは建築に利用した。彼らはこうした古典(廃墟としての古典)を永遠と位置づけ、建築に表現したのである。

しかし、ハトシェプスト葬祭殿はナチスの薄っぺらな古典的建築を遙かにしのぐ繊細さを持っていると感じられた。建築から繊細さが失われること、それは建築の危機と深く結びついているのである。
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by kurarc | 2018-03-27 21:16 | architects

失われる昭和の住宅群

鎌倉から三鷹に戻りすぐのことであったと思う。ある著名な建築家の自邸を三鷹の井の頭1丁目(1961年竣工、建設当時は牟礼)に外観のみ見学に行った。ルイス・マンフォードの翻訳者としても著名な建築家の住宅(下、図面。TOTO通信より転写)である。

先日、気になって再度見学に行ってみたが、解体され、新しい住宅に建て変わっていた。最近、武蔵野市のある戦前の企業の旧寮を実測調査した。こちらも解体が予定されているという。そのときに一緒に調査に参加した建築史家の方が言うには、明治以前の古い建築は残る可能性が高いが、以外と昭和や戦後の建築は残らないんだよ、と言った。戦後の建築、たとえば、1950年代に建設された住宅などもすでに築50年以上経過しており、登録文化財に十分指定できる年月が経っているにもかかわらずである。

新しい建築物はその価値の判断が難しく、その価値を評価してくれる歴史家も少ない。それに、オーナーは古い建物を壊して土地を有効活用したいものが多く、残るはずはない。わたしの身の回りでも、立地条件のよい建築物はすぐに解体され、ハウスメーカーの住宅、あるいは、地元の工務店の住宅にすり替わっている。

昭和ブームなどと世間は騒がしいが、建築においてはまったくブームなどにはなっていない。相当優れた建築物でない限り、見向きもされず解体されるのがオチである。赤の他人が解体をするな、といってもそれはそれで失礼なことになり、オーナーの良識に従うしかない。以前、建築物にもお葬式が必要だ、と言った建築家のことを書いたが、少なくとも、名作と言われる建築物は、解体される前に、有識者に公開し、実測調査など資料を整えた上で、解体されることが望まれる。
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by kurarc | 2018-03-04 19:46 | architects