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カテゴリ:art( 40 )

『モナ・リザ』のプロブレマティーク

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今年はレオナルド・ダ・ヴィンチ没後500周年ということもあり、世界では様々な催しが開催されている。しかし、日本では今のところ、目立った催しの情報は入っていない。

最近、様々な分野の本からダ・ヴィンチへの再会があったことから、暇を見てはダ・ヴィンチに関する書物を逍遙している。その中で興味深かったのは、『モナ・リザの罠』(西岡文彦著、講談社現代新書)である。『モナ・リザ』というと世界で最も有名な絵画といっても過言ではないが、未だに様々な謎につつまれている。そうした謎、あるいは誤解を発掘しながら、西岡氏は西欧美術史の中に『モナ・リザ』のプロブレマティークを取り上げ、読み解いていく。

大きくは、『モナ・リザ』のモデルは一体誰なのか、『モナ・リザ』の背後に描かれた風景画の謎、なぜダ・ヴィンチは油彩画を選択したのか、なぜダ・ヴィンチは人物画(肖像画ではなく)を描いたのか、『モナ・リザ』と印象派、『モナ・リザ』の日本における歴史 etc.様々なテーマを明解な解説と共に明らかにしていく。この著作を読み終えると、『モナ・リザ』という慣れ親しんだ絵画が次元の異なる絵画に変貌する、そんな名著であった。

もう一つ、童話『ジョコンダ夫人の肖像』(E.L.カニグズバーグ著、岩波書店)を読んだ。童話と言っても内容は大人向きの童話といってよいもので、『モナ・リザ』が、現在定説になっているジョコンダ夫人であることを前提に据え、ダ・ヴィンチと弟子サライとの生活と葛藤を織り交ぜて描いている。

この二つの著作だけを読んでも、ダ・ヴィンチは、ルネッサンス人の中で、突出した知性の持ち主であったことが理解できる。それは、ミケランジェロのような人間ともまったく異なる。単純に言ってしまえば、ダ・ヴィンチはラテン的知性とゲルマン的知性(南北ヨーロッパの知性)を統合したような人間であった。真のルネッサンス人といえる人間、それがレオナルド・ダ・ヴィンチであったということである。

今年は、ダ・ヴィンチ本を読書する本のリストにあと10冊程度含めておこうと思っている。

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by kurarc | 2019-07-11 19:40 | art

モネ 絵画の復元とAI技術

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クロード・モネの絵画「
睡蓮、柳の反映」(上)がAIを利用して推定復元される過程のドキュメンタリー番組が放映された。

興味深かったのは、当初AIで復元された作品は、AIで学習された絵画が、モネの初期の作品が多かったため、色彩が明るく、モネの晩年の作風から逸脱していたということである。

それらを人間の眼で判断し、復元される絵画と同じ年代の作品をAIで再度学習させた後にアウトプットされた絵画は、色彩も落ち着き、晩年の作風に近似していた。

この結果はAIに限らず、人間の学習を考える上で参考になる。人間がインプットする情報の差異によりアウトプットされる作品(仕事)は異なる、という当然の結論を思わずにはいられない。

また、筆使い、タッチなど繊細な部分は現段階では人間の手作業が必要である、ということも興味深い。AIで学習することができる限界も存在し続けるのではないか、と感じられた。

AI技術は近い将来、建築の復元、さらに建築デザインに補助的に活用されること(すでに活用されているが)は確実だろう。建築家たちは将来AI技術を身につけることを強いられるだろうし、またはAI技術者に転換しなければならなくなるかもしれない。

*この番組で試みられたAI学習であるが、AIが学習できるのは作品という結果から推測するというテクニックの学習であり、ここではモネがどのように考えて絵画を描いたのかということまでは学習できないということである。つまり、AIはモネの意識より、むしろ無意識のようなものを抽出したのではないか、と考えられる。

by kurarc | 2019-06-17 23:03 | art

ジョン・ルーリーの絵画 (2019)

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ジョン・ルーリー、わたしにとっては映画『パリ、テキサス』の中で突如登場する怪物のような男性、それがジョン・ルーリーとの出会いであった。

サックス奏者でもあった彼が、ライム病という難病におかされ、映画や音楽をあきらめ、絵画を描いていることを知ったのは10年ほど前のことである。2010年にワタリウム美術館で個展があったようだが、そのときには観ることができなかった。現在、再度ワタリウム美術館で個展が開催されているため、見学してきた。

古いものから最近描かれたものまで数多くの絵画を観ることができた。色彩が最近のものは明るく変化しているように感じた。また、細胞や遺伝子をモチーフとした?ような絵画が目立った。彼は現在も抗がん剤を続けているようで、副作用に苦しめられているようだが、その苦しみを解放していくような絵画の色彩感覚とその絵画に添えられた軽妙なポエムのような画題は相変わらずであった。

彼の絵画は、よく素人がうまく描こうとして描く絵画とは異なり、夢の中の世界のようであり、その色彩のバランスが絶妙である。作品集をもっているが、やはり実物を観るに限る。

*上画題「お尻みたいな花を咲かせた木、また満開」

by kurarc | 2019-06-16 21:21 | art

自然言語と人工言語

2020年から小学生たちはプログラムを学ぶことが必修になるという。人間がつくりだしたコンピューターと会話することを現代の小学生たちは強いられることになる。それは、悪いことではもちろんない。このわたしも現在、コンピューターと積極的に会話することを怠っていたことを反省し、今年から新たな気持ちでコンピューターに向かおうとしている。

50代は入院することが度々あり、その都度、どのように暇をつぶすのか考えた。病院に普段読めないような長編小説も持ち込むこと、語学の入門書をもちこむこと、それにprocessingのようなデザインのためのプログラミングの書物を持ち込んだ。processingについては1冊を通読したが、そのプログラム言語をマスターするまでにはいたっていなかった。今年(今年以降)は、このプログラム言語をマスターすることに力を入れようと思っている。

19世紀には、人間と機械は対立するものとして捉えられたが、20世紀を経て21世紀になった現代では、共存していかなければならないものとして捉え直さなければならなくなった。その大きな要因は、言うまでもなくコンピューターの進化である。建築のような世界でも、素材とコンピューターは直接結びつくものとなった。マテリアル・コンピューティングのように、プログラムをする対象が言語だけではなく物質にまで及ぶようになったのである。このような状況では、19世紀のラッダイストのようにコンピューターを破壊してもはじまらない。コンピューターを介したデザインの再定義が必要となった。

わたしは特にプログラミングを機械を媒介した新たな生命体としての言語と捉えたいと思っている。21世紀以降の人間は、前世紀の人間が膨大な文学作品を残したように、プログラム言語を残すことにエネルギーを注ぎはじめている。このような人工言語が誕生したために、われわれが日常的に使用する言語は自然言語と呼ばれるようになった。近い未来にはこの自然言語と人工言語の境界は希薄化し、なんと呼んだらよいかわかないが、仮にX言語と呼ばれるような言語が出現するに違いない。

人間は永遠に何らかの言語を学ぶことを強いられる生き物であるようだ。

*3.11以降、反原発運動が盛んになったが、宇宙への進出を前提とすると、残念ながら、人間は核技術(特に核融合技術)からは逃れられない。月のような衛星では、万が一核爆発があったとしても、地球のような大気がないため、放射性物質は拡散しないらしい。多分、人間はそうした失敗を繰り返しながら、まずは月(または火星)に暮らすことをはじめるのだと思う。しかし、わたしはもし10年後に月居住が可能となったとしても、地球で暮らすことを選択するだろう。

by kurarc | 2019-03-16 00:43 | art

Vieira da Silva(ヴィエイラ・ダ・シルヴァ)の絵画

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Vieira da Silva(ヴィエイラ・ダ・シルヴァ)の小さな作品集がイギリスから届いた。リスボンに住んでいた頃、住まいの近くであったこともあり、彼女の美術館(上写真)にたまに出かけた。彼女の作品集が無性に観たくなり、最も安価なものを購入したのである。

日本では相当絵画に詳しい方でない限り知られていない画家ではないだろうか。1908年、リスボン生まれ。その後、パリやリオ・デ・ジャネイロで活躍した。・・・ダ・シルヴァという姓は以前もブログで書いたがユダヤ系ポルトガル人だと思われる。

彼女の絵画はいわゆる抽象画であるが、そのセンスになぜか引きつけられる。後期には都市や建築物、空間などをモチーフとして線と小さな面の集合体で絵画を描いている。リスボンの美術館内で「The Thirteen Doors」(1972年)というタイトルの絵画を観て、彼女に興味をもったことを覚えている。直訳すれば「13のドア」だが、絵画にはどう数えても12しかドアが描かれていない。もう一つはどこに隠れているのだろうか、などと想像がふくらんだ。色彩も美しい。

彼女の絵画であれば購入しても良い、と思わせる。センスの良さ、としか言いようがないが、そこにはどのようなコンセプトや理論が隠されているのか興味が尽きない。

*下 「リスボンのアトリエ」と題された作品
この絵画をよく見ると、パースペクティブの消失点と画面全体の対角線が重ね合わされている。パースは狂っていることになる。つまり、立体感と平面が重ね合わされているのである。あるいは、異なる消失点が重ね合わされているという見方もできる。

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by kurarc | 2019-03-12 20:30 | art

異境との接点としてのアール・デコ

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大学時代の友人とワールドカップの話になり、優勝したフランスは、フランスといえるチームなのか?という話題になった。つまり、黒人ばかりではないか、ということ。わたしの滞在したことのあるポルトガルも同類に属する国といえるだろう。

しかし、日本人から見るとそう感じるのは当然だとしても、フランスでは当たり前のことなのだろう。10月から催される『エキゾチック×モダン アール・デコと異境への眼差し』といった展覧会が、芸術におけるフランス文化の混血性を明らかにしてくれそうだ。アール・デコというと、モダン・デザインの論理、装飾の特徴のみに還元して理解しがちであるが、異境との文化の接点として理解すること。そもそも文化とは異質なものとの接点から生まれるものであると思うが、わたしはそうした背景をいつのまにかすっかり忘れてしまい、様式の運動として理解してしまうきらいがあった。

久しぶりに東京都庭園美術館に行けることもあるし、アール・デコの理解を深めるよい機会となりそうなので、この展覧会は是非訪れてみたい。

by kurarc | 2018-07-23 22:32 | art

人形について

先日、文楽を初めて鑑賞した。この人形を操る古典芸能に接して思ったのは、人形は人間とどのような関わりをもってきたのか、あるいは、人形とは人間にとっていかなる意味があるのか、ということであった。

2016年7月28日のブログ「レオナルドからアンドロイドへ」の中で、人形ではなく、ロボットやアンドロイドという言葉を使ったが、これらは考えてみれば、手工業的な人形の進化形、つまり機械工業技術に置き換えられた「人形」としてとらえられる。人工知能もある意味ではこうした人形の延長線上に登場した技術とみなせるかもしれない。

2016年7月28日のブログの中で、わたしの愛読書、花田清輝著『復興期の精神』の中の「鏡の中の言葉」についてふれたが、花田は実は「人形論」あるいは「玩具論」のようなものを想定していたのである。現代の人工知能のような技術もすでに「人間機械論」の世界の延長であって、決して新しい認識とは言えないと思われる。

人工知能を「人形」のような言葉と相関させて考えてみること、機械人類学(あるいは直接的に言えば、人形人類学)のような学問を想定してみると興味深いかもしれない。我々のまわりは、いつの間にか自動車や電車、コンピューターなど機械に取り巻かれた世界に変化した。そのことと、人形を創作してきた人間の文化とどのような接点をもつものなのか考えてみるとおもしろそうである。

最近興味を持った映画のなかには数々の人形、あるいは、人形らしきものが登場していたことも、わたしが文楽に興味をもったことと無縁ではない気がしてきた。かつて吉祥寺を拠点としていた結城座の操り人形劇の体験も大きい。幼少の頃には、「里見八犬伝」や「サンダーバード」、もっと遡れば、「ひょっこりひょうたん島」などの人形体験も影響しているのかもしれない。「人形」は、現代の最先端の技術から古代までの技術と文化を結ぶキーワードになるかもしれない。

by kurarc | 2018-03-17 18:33 | art

文楽 女殺油地獄

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先日、文楽を初体験した。近松の『女殺油地獄』である。今年は古典芸能を学ぶ年にしたいと思っていて、まずは、最も興味のある文楽を国立劇場で観覧する。

このような芸能をもっと早く知るべきであったと後悔した。文楽(人形浄瑠璃)は、太夫(語り)、三味線(音楽、楽器)、人形(人形遣い)が三位一体となった芸能であり、演劇とも異なる新鮮な芸能であった。失敗したのは、近松の『女殺油地獄』のストーリーを把握することなしに観劇したことである。太夫の語りを初めてのものが理解することは不可能に近い。字幕が舞台の両袖に掲げられるが、それを読んでいては舞台から集中がそれてしまう。

人形の迫力もさることながら、三味線の高度な演奏技術にも驚いたし、太夫の変幻自在な声色、そして、人形遣いによる人形の豊かな表情と繊細な動きなど、どれをとっても楽しめる芸術である。『女殺油地獄』では、人殺しのシーンが描かれる「豊島屋油店の段 てしまやあぶらみせのだん」が圧巻。油にまみれる姿を人形の動きで巧みに表現する。文楽は、バロック演劇といってよいような動きと語り、音楽の渾然一体となった芸術であった。

東京では2ヶ月に一度程度しか文楽は催されないが、今年はなるべく多くの作品を観覧したい。文楽ファンが東京には数多く、予約がなかなか取りづらいのが難点である。

by kurarc | 2018-03-03 23:44 | art

ゴッホ 1枚の絵

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NHKの「旅するフランス語」1月はゴッホをたどる旅であった。このプログラムで初めて知ったのだが、「ゴッホ」と発音するのは日本くらいのもので、フランスでは「ゴッグ」、本場オランダでは「ホッホ」に近い音だと言う。ヴィンセント・ヴァン・・・もオランダ発音ではフィンセント・ファン・・・だと言う。

ゴッホは、南フランスで療養する間、南フランスの自然の絵を数多く残した。その中でもオリーブをモチーフにした絵は、その後、プロヴァンス地方のオリーブ農家に大きな力を与えることになる。この地方を襲った冷害により、だた1本のオリーブの樹しか残らないような甚大な被害を受けたとき、ゴッホが描いたオリーブの樹の絵がプロヴァンスのオリーブ農家を元気づけ、復興への励ましになったのだと言う。

1枚の絵が持つ力に敬服すると共に、彼の純粋な心で描いたオリーブの樹の躍動感は、いわば名曲を聴いたときのように、人の心を動かす力を包含していたのである。このことだけでもゴッホの存在は意義深いものであったことになる。

かつて、南フランスを訪れたとき、わたしもアルルやサン・レミといったゴッホに関係する土地を訪ねた。そのときに撮影したスライドを眺めながら、南フランスの幸福な太陽を思い出した。そういえば、この南フランス、プロヴァンス地方が注目されるきっかけをつくったピーター・メイル氏がこの1月18日に亡くなられたと言う。メイル氏がプロヴァンスに移り住んだ時期とわたしが旅した時期はほぼ重なる。彼の著書の中に、わたしが体験したプロヴァンスの光や影、自然が定着されていることになる。

雪の降る東京で、南フランスの太陽を回想することになるとは妙な巡り合わせである。
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by kurarc | 2018-01-22 20:39 | art

2018年秋 パリで伊藤若冲展開催

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2018年秋、パリのプティ・パレ美術館で、日仏友好160周年を記念した「ジャポニズム2018」にちなんで、伊藤若冲の大規模な展覧会が開催されるという。  

最近、特にこうした日本の画家や詩人、文人などの世界が気になるようになった。わたしは基本的には日本の芸術に特別に興味を持ったことがない。23歳の時に初めて海外の芸術に直接触れ、その衝撃的と言える緻密な芸術(建築を含む)に圧倒され、その世界から抜け出せずにいた。

しかし、欧米の芸術全般を知れば知るほど、日本の芸術が逆照射されるように感じられ、最近、興味を持つようになった。その一人に、伊藤若冲がいる。

彼の絵に興味を持つのは、まず、花鳥画を数多く残していることが挙げられる。野鳥の観察をするようになったこともあるが、「鶏の画家」と言われるほど多くの鶏を描いていることにも惹かれるし、その他の動植物の絵の「神気」にはただならぬ力が感じられる。また、桝目描きのような、現代のデジタルアートにつながるような斬新な絵にも魅力を感じる。

こうした天才と言えるような画家も、生まれは青物商の出であり、ブルジョアではあったが、何をやってもダメな子供だったのだという。それが20代後半から絵の道を志し、その10年後には立派な画家に成長したというから不思議である。

若冲の絵を近いうちにまとめて観たいが、来年の秋にパリに行くのが手っ取り早いのかもしれない。



by kurarc | 2017-09-18 13:18 | art