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写真家ウイリアム・クラクストンのドキュメンタリー映画 『JAZZ SEEN』

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ジャズ・ミュージシャンの写真で有名なウイリアム・クラクストンの『JAZZ  SEEN』(2002年)というドキュメンタリー映画をみる。

このドキュメンタリーの音楽を担当したのは、ジャズ・トランペッターのティル・ブレナーだが、こちらのサウンドトラックは随分と前に購入し、音楽を楽しんでいたが、肝心のドキュメンタリー映画の方は未見であった。

映像と音楽がこれほどかみ合っているフィルムも珍しい。クラクストン自体、ミュージシャンのようなカメラマンだったからそれは当然かもしれないが、ティル・ブレナーの力も大きいのだろう。ティル・ブレナーが作曲した『Clax's  Theme』はミュートを使ったトランペット音だが、その音は、マイルズともチェット・ベイカーの音とも異なり21世紀らしい音に仕上がっている。サウンドトラックは、このテーマ曲とその変奏の合間に、ルイ・アームストロングやダイアナ・クラール、エラ・フィッツジェラルド、デューク・エリントンらの音楽で彩られている。サウンドトラックの副題が「カメラが聴いたジャズ」とあるように、クラクストンの写真から発せられるような音楽に仕上がっている。

映画の中でクラクストンは興味深いことを話していた。モデルとなったミュージシャン(ダイアナ・クラール)にあるポーズをお願いしていたが、そのようにポーズをとることはまったく期待していなかったのだという。そのポーズをとることが恥ずかしい、といったその表情を撮影することが狙いだったというのである。本物の写真家とはやはり戦略家なのである。

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by kurarc | 2020-01-23 19:27 | cinema(映画)

フェリーニ 『アマルコルド』

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初めてイタリアのリミニを訪れたのは1984年10月26日である。これ以後、一度も訪れたことはないが、この都市はフェリーニの故郷であるという。その時、そんなことは少しも知らなかったが、建築に興味のある人間は、テムピオ・マラテスティアーノという建築物を見にこの都市に行く。ルネサンス期にこの建築物の改修に携わった建築家がアルベルティだからである。

中世の構造体の周囲を囲むようにルネッサンス建築をデザインしたこの建築物は、興味深いことに、中世の開口部の位置をある意味でまったく無視するようにルネサンスの構造体で被覆するようデザインされている。それは、中世期の窓とルネサンス期のアーチのズレとして表現されているが、現在から見ると、非常にモダンな改修方法に思える。もし、中世の窓の配置に対して、過剰な気の使い方をしていたならば、ルネサンス期の意匠は中世の意匠と同化し、新たに付加したという意図が不明瞭になっていたと思う。

それはさておき、フェリーニの『アマルコルド』(”アマルコルド”は、ロマーニャ地方の方言で、「わたしは思い出す」という意)は、フェリーニの幼少体験、あるいは幼少期の記憶の断片を四季の季節の中に織り込んだような映画で、そうした断片の積み重ねとアルベルティの手法とがわたしには重なって見えてきたのである。

この映画の中には、幼少期に体験した二人の年上の女性との失恋(別れ)も描かれており、少年が大人へと成長していく人生の中の断片を切り取ったような映画である。『フェリーニのローマ』に続く映画であり、1970年代の傑作の一つといえる映画だろう。四季という時間の経過はあるが、その流れは曖昧で、様々なエピソードの積み重ねとして描かれている。それぞれのエピソード一つ一つが強烈であるために、むしろ時間感覚が後退してしまうのだろう。映画のラストになって、わたしは初めて四季が描かれていたのだと気づかされた。

この映画は物語でありながら、その物語性が希薄なのは、フェリーニとシナリオを協力しているトニーノ・グエッラの意図、構成力によるものだろう。



by kurarc | 2020-01-19 22:09 | cinema(映画)

フェリーニ生誕100年

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今年はフェデリコ・フェリーニ監督生誕100年となる。イタリア文化会館で、フェリーニ映画の上映ほか、イタリア映画祭ではフェリーニ映画の特集が予定されているという。

このブログでもいくつかフェリーニの映画の魅力を伝えてきた。以前も書いたが、わたしのフェリーニ体験は沖縄在住時、1985年だったと思う。テレビで『道』を観たのが初めてだったように思う。その後、溝口健二監督の映画に出会って、昨年末、『西鶴一代女』について書いたが、フェリーニのジュリエッタ・マシーナ(フェリーニの奥様)と溝口の田中絹代が重なって見えるようになった。

ジュリエッタ・マシーナと田中絹代は共に1950年代に汚れ役に取り組んで、その演技力により多くの賞を獲得している。いつも言っているように、わたしはこの『道』(付け加えるなら、『カビリアの夜』も)と『西鶴一代女』の二つはわたしの映画評価の中でベスト10に入る映画である。

ネオ・リアリズモを継承する作家として期待されていたフェリーニは、この『道』でその路線を外れたことから、その手の批評家に厳しく批判されたらしい。また、わたしは溝口とフェリーニが何らかの影響関係にあるのではと思っているが、『道』で道化師を演じたジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)の扮装は、アメリカのコミック「ハッピー・フリーガン」からインスピレーションを得たものだという。(STUDIO VOICE 9 『特集 フェリーニ主義』より)

フェリーニの映画をすべて観ているわけではないので、今年は未見の作品を中心に楽しみたいと思っている。

*『カビリアの夜』の「カビリア」は、ジョバンニ・パストローネのサイレント史劇『カビリア』に由来するという。そのヒロインの名前は、ガブリエーレ・ダンヌンツィオが命名したもの。



by kurarc | 2020-01-10 22:08 | cinema(映画)

映画『西鶴一代女』再び

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今年の映画の見納めは『西鶴一代女』とした。早稲田松竹で鑑賞。

いつもながら、お春を演じた田中絹代さんの演技に圧倒される。フェリーニの『道』のジュリエッタ・マッシーナの演技と重なるが、わたしはこの田中絹代さんの演技が優っていると思う。映画を観終わったあと、拍手をしたくなる、そんな演技である。

三船敏郎さんが映画の最初に登場するが、田中絹代さんの陰に隠れて、大きな印象を残さない。三船さんは黒澤映画で輝くことになる。この映画『西鶴一代女』は、黒澤明監督が『羅生門』でヴェネチア映画祭グランプリをとったことに触発され、溝口健二監督が力を入れたことで知られている。

当時の笑い話だが、『羅生門』が誰も賞をとるなどとは思ってもいず、ヴェネチアに映画界からは誰も代表団を送っていなかったという。賞が出るとわかり、日本大使館から慌てて人を送り、賞を受け取った、ということが依田義賢さんの著書『溝口健二の人と芸術』に書かれている。敗戦から間もない日本で、当時誰もが日本の映画がすでに世界を感動させるような力量を持っていることなど誰も思ってもいなかったのである。映画『羅生門』は、そういった意味では日本人をいい意味で裏切り、日本人に希望を与えた映画となった。

『西鶴一代女』をみていて感じられないが、撮影には相当苦労したらしい。依田義賢さんの前掲書には、撮影場所の近くに京阪電車が通っていて、その電車音を避けた合間に撮影されたということである。溝口監督は、同時録音にこだわったこともあり、カットの長さを把握し、電車が行きすぎたことを見計らって撮影されたという。

『西鶴一代女』はお春という一人の女の転落していく人生を描いているが、田中絹代が幼い頃から苦労してきた実人生とも重なってみえる。それは、「がんばれば」変えられるような人生でもない。前回のブログでも紹介した河合隼雄さんの著書の最後の章に書かれているが、自己実現をすることの辛さを描いた映画とも言える。これを、河合さんは、「それ=無意識」に対比して「あれ=外で起こったこと」と表現している。これは、大江健三郎の小説『人生の親戚』から学んだ表現である。お春は自分の内面ではなく、家族や男、時代という外の世界に翻弄され転落していくが、そうした外の世界「あれ」も自分とは切り離しようもないのである。

そして、お春の人生は、わたしの母の人生とも重なって見える。この映画が好きな最も大きな理由がそこにある。

by kurarc | 2019-12-31 11:39 | cinema(映画)

映画『こおろぎ』(青山真治監督)の舞台に「杉小舎」が使用されていました

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映画『こおろぎ』(青山真治監督、2006年)の舞台にわたしが2002年に設計した「杉小舎」と名付けた住宅+コテージが使用されていたことを知った。

今日、新宿のK's Cinemaで青山監督の幻の映画と言われる映画が公開されていることを知り、観にいった。映画が始まるなり、西伊豆に17世紀ポルトガル人の宣教師が漂着した、といったアナウンスが流れるや、わたしの設計した住宅が現れたのである。わたしはこの映画にこの住宅が使用されているなど微塵も知らなかったため、驚きを隠せなかった。以後、わたしは映画の内容より、映画の中でどのようにこの住宅が使用されているのかに興味を集中させる結果となってしまった。

小さな住宅であったので、撮影は相当苦労されているようであった。但し、住宅の敷地は傾斜地であり、高低差が激しいことから、そうした地景を活かした撮影がなされていた。水廻りの改変、玄関から入った土間は消失し、板の間として改変などあったが、ほぼ、設計したプランは残っていた。

驚いたのは、ポルトガル人のエピソードやラストに近い段階でポルトガル語がシナリオに挿入されたり、沖縄の島唄が演奏されるシーンが挿入されたりと、わたしが過去に住んでいた地域が映画の中に散りばめられていたことである。偶然というにはあまりにも一致しすぎている。

青山監督をはじめ、山崎努さん、鈴木京香さんらがわたしの設計した住宅の中で演じ、映画を製作していただけたことに感謝したい。この住宅がこの映画の中で永遠に残ることになる。なんと光栄なことだろう。いつか御礼を告げるため、青山監督にお会いしたいものである。

*映画の中で、山崎努さんが入浴しているシーンがある。この住宅(母屋)の浴室はヒバを使用した特注浴槽である。浴室からは、南伊豆の海を望むことができる。

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by kurarc | 2019-12-08 20:07 | cinema(映画)

映画『芳華』

久しぶりに余韻の残る映画を観た。映画『芳華』である。中国の1970年代を中心に現代までを描いた映画。この映画を観て気がついたが、わたしがもし中国に生まれていたら、ベトナム戦争に駆り出されていたかもしれない、ということである。監督のフォン・シャオガンはわたしと同世代。彼も戦争を経験している。

これだけの映画を生み出せる中国がなぜ今、香港のような暴動が起きてしまうのだろう。残念である。

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by kurarc | 2019-11-15 22:23 | cinema(映画)

映画『MY FOOLISH HEART』

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映画を観た場合、普通は勧めたい映画が多いが、この映画はお勧めしないだろう。但し、チェット・ベイカーというジャズ・トランペット奏者に特別興味がある方であれば別であるが。

映画『MY FOOLISH HEART』はチェット・ベイカーが1988年5月13日、アムステルダムのホテル2階から転落死するが、その死の直前から彼の死までを描いた映画である。フィクションであるが、監督であるロルフ・ヴァン・アイクは、チェットの知人にインタビューし、およそ3年もかけて脚本を準備したというから、すべてがフィクションということもなさそうである。

チェットの死因(自殺、他殺、事故など)はいまだに謎に包まれている。この映画ではどのような結論として描かれているのか、それはこの映画を観て確かめていただきたい。この映画ではチェットの天使と悪魔性、その両頭をもつ人間としてかなりリアルに描かれていた。彼の音楽は、その悪魔性を浄化するために生み出された音楽なのではないかと思われた。

この映画での収穫は、オランダのトランペット奏者ルード・ブレールスを知ったことである。映画の中でルードがチェットの曲を演奏しているが、彼のトランペットの音色はチェットの音色と重なり、チェット自身が演奏しているかのような錯覚を及ぼすほどの名演であった。

美しいものの背後には棘があり闇、陰影があるのかもしれない。チェットの音楽にはその闇と陰影があるから余計に美しく思えるのかもしれない。

by kurarc | 2019-11-09 17:30 | cinema(映画)

チェット・ベイカーの映画 

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来月チェット・ベイカーの映画『My Foolish Heart』が封切られるという。ミュージシャンの映画が最近、数多くつくられている。今回の場合、トランペットを実際に演じる俳優が吹いているとは思えない。チェットの音はプロでも出すことはできない。だから、あまりこの映画を観たいとは思えないのだが、多分観に行くと思う。

ピアノであれば、なんとか真似はできるが、トランペットはそうはいかない。この楽器を知っている人であればわかるが、人それぞれ音はまったく異なる。同じマウスピースをしてもである。それは声が人それぞれ異なるのと同じようなものである。

チェットのYou Tubeを最近よく見る。彼の指使い、彼のフレーズの勉強のためである。幸い、彼の映像は豊富にあるようなので、トランペットを学ぶ者にとっては貴重である。彼の最晩年の映像の中に、”Blue In Green"(チェットが亡くなる43日前のライブ)を演奏しているものがあるが、その映像が最近のお気に入りである。音を一つ一つ確かめるように演奏している。その音の繋がりが限りなくモダンで知的なのだ。

酒、ドラッグに溺れた人間の奏でる音とは思えないくらい暖かい音だが、溺れたものだからこそ出せる音なのかもしれない。世間一般の人から見れば、彼はクズのような男であったが、彼のトランペットは誰にも真似はできない。

by kurarc | 2019-10-18 01:21 | cinema(映画)

ヴィスコンティ 映画『白夜』 

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ヴィスコンティの映画『白夜』を観る。DVDは買っていたが、ずっと観ることを逃していた。この手のDVD は現在安く手に入るのでありがたい。

以前、ロベール・ブレッソンの映画『白夜』を観たが、こちらとどのように異なる表現になっているのか興味があった。ブレッソンは舞台をパリに選定していた。ヴィスコンティは運河のある架空の都市を舞台としていた。それもすべてセットでつくられたものであるという。その遠近感のあるセットが素晴らしい出来であり、セットにはどうみても見えない。日本のように木造建築のセットであればすぐに組み立てられるが、ヨーロッパのように石造り、レンガ造りのセットは相当時間がかかるのではないだろうか。

ヴィスコンティの『白夜』はイタリア人らしく、ブレッソンのものよりわかりやすい表現になっていた。わたしが関心したのは、主人公の背後に何気なく登場する通行人や酔っ払い、職人や浮浪者、犬などの動きである。ヴィスコンティはこうした背景まで見事につくりこんでいるのがわかる。

孤独な青年を演じたマストロヤンニは、この映画が転機となって、のちにフェリーニの『甘い生活』で一躍名声を獲得する。妄想から逃れられない少女を演じるマリア・シェルの熱演も光っていた。ニーノ・ロータの音楽も抑制の効いた素晴らしい音楽であり、映画と見事に調和していた。

ヴィスコンティの映画の中ではあまり取り上げられない映画にも思えるが、バランスのとれた名画といえるのではないだろうか。ブレッソンのものもかなり前に観ているので、記憶が定かではない。改めてもう一度観て、比較したいと思っている。



by kurarc | 2019-10-13 23:00 | cinema(映画)

高岡 吉久の街並みと映画『ナラタージュ』

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高岡の市電に乗り、海の近くまで行くと「吉久」(上写真)という米の流通で栄えた街があることがわかり、高岡滞在中に出かけてみた。

高岡には市電(下写真)があることは前から知っていた。映画『ナラタージュ』の舞台が高岡で、重要な場面で登場していたのを記憶していたからである。この映画は特別に好きな映画ではないが、高岡の街は印象に残っていたので、そうしたこともこの街を訪ねたいという動機であった。

市電で「吉久」という駅で降りようとしたが、アナウンスがわかりづらく、その先の「中伏木」という駅まで間違えて行ってしまった。この駅を降りて気がついたのだが、映画『ナラタージュ』のラストシーンで登場する駅だったのである。偶然とはいえ、映画の舞台を訪ねることになった。

「吉久」の街並みは、ごくわずかな通りとはいえ、東京では見ることができない街家がひっそりと残っていて、高岡らしい風情が感じられた。ここには、江戸時代から明治まで多くの人々で賑わっていたのだろうが、流通方法が変化した今では当時の面影を残すのみとなった。

こうした街を見ていつも思うことは、それでも人はここに住み続け、普通の生活を営んでいる人々がいる、という愛おしさである。

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by kurarc | 2019-09-29 11:43 | cinema(映画)