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カテゴリ:三鷹-Mitaka( 32 )

上連雀の飛地

わたしの実家はわたしが幼い頃、「上連雀」という地名(現在は下連雀)であった。上連雀というと、三鷹駅から西側であり、隣接する地区は「下連雀」という地名であり、なぜ、わたしのところだけが「上連雀」という地名を残しているのか、ずっと疑問に思っていた。

武蔵野郷土史刊行会から出版されている『井の頭史跡散歩』の中に、その答えが書かれていた。井の頭の史跡を調べるために図書館へ行ったのだが、ついでに、わたしの長年の疑問が解けたかたちとなった。

本来であれば「下連雀」という地名の中に「上連雀」が存在したのは、上連雀を開墾した井口家の飛地であった、ということである。現在も、「狐久保」という地名が残っているが、このあたりは湿地であり、開墾されず残された荒れ地であったようだ。井口家はこの荒れ地の開墾に乗り出したようで、その土地を上連雀と名付けたのである。

すでに移転してしまったが、このあたりはその後、日本無線、正田飛行機、三鷹航空などの軍需工場が進出した。わたしの実家は町工場だが、こうした軍需工場が近くに存在したこともこの地に工場をかまえた理由の一つなのだろう。そのあたりは父親から話を聞いたことはない。いまとなっては調べるすべもない。

三鷹はその後、高級な住宅地へと方向を転換した。しかし、わたしの中の三鷹は工場の数多く残る町工場街のイメージである。そうした工場や工場の廃墟がわたしの子供の頃の遊び場だったのである。

*つまり、由緒ある地名がいつのまにか変えられてしまった、ということになる。

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by kurarc | 2018-02-11 13:57 | 三鷹-Mitaka

井の頭公園 弁天橋再建

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井の頭公園の弁天橋が再建されるという。老朽化対策と途中にかなりきつい傾斜があるためバリアフリー化の必要性のあることが大きな理由のようだ。現在、橋再建に関して市民から意見を求めている。予定されている新しい橋の手摺は木目調を基調としたデザイン案が考えられている。

わたしはこうしたデザイン案に対して異議を書いて、意見箱に投函した。井の頭の池を渡る橋には本物の木を使うべきだし、木でなくても様々なデザインが無数に考えられるはずである。コンペティションを開催することも希望として書いておいた。

この橋は東京都の管轄になるが、なぜ東京都がこうした低レベルな橋の案をつくるのか理解できない。確かに、現在の橋はベビーカーで通過するには苦労するから、バリアフリー化には賛成だが、「木目調」とは一体どういうことだろう。昭和の頃のデザイン感から抜け切れていないとしか思えない。

写真は、2015年6月15日に撮影した弁天橋である。子供の頃からこの橋は存在したから、小さな子供を持つ親にとっては通過しづらい橋でも、わたしにとってはその傾斜部分が思い出深いことも確かである。数年後には、この写真がアーカイブとしてわたしの記憶の中に保存されることになりそうである。

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by kurarc | 2017-12-26 18:06 | 三鷹-Mitaka

ジョギングしながらゴミを拾う人 輪島功一さん

地元でよく見かける奇才は二人いる。楳図かずおさんともう一人、輪島功一さんである。

最近、現場へ行く途中によくお会いする。今日も、現場の帰りにお会いした。「ご苦労様です」と声をかけると、輪島さんも挨拶をしてくれた。

なぜ「ご苦労様です」と言うのかというと、輪島さんは、いつもジョギングをしながらゴミ拾いをしているからである。ジョギングという個人的な行為とゴミ拾いという社会奉仕、社会貢献を同時に行うラディカルな人、それが輪島功一さんである。

井之頭公園のベンチに座っていると、近くに来て、訳のわからない世間話をして帰って行く時もあるが、輪島さんのことを知らない若い人は、狂人と思うかもしれない。わたしの子どもの頃、こうした狂人のような人は街頭にさまよっていた。現在は、福祉施設などに閉じ込められてしまうから、あまり出くわすことはないが、本来であれば、普通の生活の中で生きていくことが好ましいのだろう。

輪島さんはもちろん狂人などではない。輪島さんのナイーブさが、ジョギングとゴミ拾いという二つの行為をせずにはいられないのであろう、と思う。元世界スーパーウェルター級チャンピオンがジョギングだけをしていたのでは、世間とはなんの接点も持てないこともあるだろう。普通の人であれば絶対にやることのないこうした行為を平然とやり遂げている輪島さんは、尊敬すべき奇才である。

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by kurarc | 2017-11-04 11:57 | 三鷹-Mitaka

祝 井の頭恩賜公園100周年

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井の頭恩賜公園(以下、井の頭公園)が今日で100周年を迎えた。

わたしは実家が公園から近かったこともあり、幼い頃から遊び場として馴染んでいた。吉祥寺方面へ歩いて行くときには、いつもこの公園を横切ることになるため、街路の機能も合わせ持っていたことになる。特に、中学時代の友人はこの公園近くに住居を構えていたため、庭先の延長のようなスペースであった。

玉川上水が井の頭公園を貫通していることも、この公園の魅力を引き立てている。玉川上水の土の小径は井の頭公園が外化し、延長した場所といっていい。

事務所を公園に隣接した場所に移したこともあり、このところ多いときには吉祥寺へ行くために井の頭公園内を2往復、3往復することもある。その都度、ほぼ同じ道を通るが、一向に飽きることはない。季節によって日々公園の様相は変化し、一日たりとも同じ景観ではないからである。

24歳の時、およそ1年の旅を終えて帰国し、井の頭公園を通り、実家に帰ろうとした時のことである。池は霧に埋もれ、幻想的な景観を帯びていた。霧に埋もれることは稀だと思うが、井の頭公園が、何か別の自然に変化したようで、感動したことを覚えている。それ以来、霧に霞む井の頭公園を見た記憶はない。

井の頭公園には、どれほど感謝してもしきれない。わたしのアイデンティティの一部といってもよい空間である。このまま、建築物を極力建設しないようにして、武蔵野を感じさせる環境を維持していってもらいたい。

*写真は、2017年4月30日の井の頭公園朝景。

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by kurarc | 2017-05-01 16:49 | 三鷹-Mitaka

牟礼残丘の現在

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4日の日曜日、牟礼残丘を自転車で散歩がたら訪ねてみた。長いこと三鷹に住んでいたが、この丘を訪ねるのは初めてのことだった。子供の頃から、この丘状の土地の起伏は感じていたが、幹線道路から一本奥に入ったこの土地をみることはなかった。

残丘の一部は公園(牟礼の里公園)になっていて、その公園の最上部から、遠くに吉祥寺の街がよく見渡せた。多分、三鷹市の中で最も標高が高い土地なのであろう。残丘の多くは大地主の土地の一部で、そのほとんどが農地となっていた。農地になる前、このあたりも鬱蒼とした林が広がっていたはずである。もしかしたら、府中の浅間山のように、ムサシノキスゲが咲いていたのかもしれないが、それは現在では確かめようのないことである。

昭和の初期の頃、三鷹の大半は、このような風景が広がっていたのだろう、と想像させるような景観であった。

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by kurarc | 2016-12-07 20:35 | 三鷹-Mitaka

牟礼残丘

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以前このブログで府中の浅間山(せんげんやま)を紹介した。古多摩川が削り残した丘状の地形である。こうした地形が、わたしの住んでいる三鷹にも存在しているということを最近知った。「牟礼残丘」である。

このあたりはには、中学時代の同級生の家があり、よく自転車で出かけた。急に坂道がはじまり、三鷹台駅の方へ向かって下り坂となっている地形であり、このあたりを通りながら不思議に思っていた。こうした微地形が、実は太古の地形の名残であるとは思いもよらなかった。

ネットで調べていると、どうもこの辺りまで太古の東京湾があったのではないか、といわれていて、ここはその縁にあたる部分であったのではないか?とか、ここだけ地質が異なっていて、たまたま削り取られることがなかったのでは?とか、色々な説明がなされている。このあたりは周辺より15メートルほど高い。

浅間山のように自然が残されていたなら、ここでしか観察できない植物もあったかもしれない。しかし、現在は宅地化が進んでいるから、それは望めないであろう。玉川上水はこの残丘の縁をはうように流れている。障害としてあった残丘をうまくかわして築かれたのである。

*図は、ブログ「東京の高低差を行く。」から借用しました。

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by kurarc | 2016-11-27 21:23 | 三鷹-Mitaka

久我山から人見街道、連雀通り、さくら通りへ

今日は仕事帰り、渋谷から井の頭線で久我山で下車。久我山から三鷹駅南口行きバスに乗り、帰宅した。もちろん、通常は吉祥寺まで井の頭線、その後中央線に乗り換えて三鷹駅まで行く。たまに、井の頭線で帰宅するときには、久我山で降りたくなることがある。久我山から三鷹駅南口行きのバス便があるためである。

久我山から三鷹までは、人見街道、連雀通り、さくら通りを経て、自宅近くのバス停で下車する。この街道、通り沿いは、わたしが中学時代によくでかけたエリアであり、途中、母校の中学校の前を通過、自宅近くも通過し、現在の住まいへとつながって行く

人見街道は、杉並の大宮八幡宮と府中をつなぐ街道であり、バスに乗っていても古い街道であることはわかるが、整った街道ではない。しかし、中学時代によくこの付近を自転車で通り、友人の家へ遊びにいったりしているので、懐かしい記憶がある。また、環状八号線を使い車で帰宅するときには、この人見街道を下って帰っていたこともあり、見慣れた街道でもある。

この街道を初めて車で通過しても、なにも感じないような地味な道だとは思うが、記憶というのは興味深いものである。この街道をバスの中から眺めていると、40年以上前の記憶が甦って、当時の光景が浮かんでくる。つまり、人は、誰一人として同じ場所を見ても、同じ光景を見てはいない、ということなのである。

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by kurarc | 2016-08-23 23:26 | 三鷹-Mitaka

玉川上水 野路への郷愁

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数ヶ月に一度、玉川上水の野路に対する郷愁がおそってくる。歩いて20分もかからず、その場所へ行くことができるが、仕事が忙しいと上水が心の中からいつの間にか消えてしまう。そして、数ヶ月がたつと無性に上水の野路を歩きたくなるのである。

今日は、午前中に自転車で玉川上水の野路を走ってきた。わたしの住む三鷹では、上水沿いの道は野路(土の径)が多く残っている。母校の中学校の裏手あたりまでいくと(写真)、昔の面影をよく残している。

三鷹へ戻った4年近く前に、この野路を自転車で走ったが、なにか表現できないような懐かしさにおそわれ、いたく感動した。木々の中から言葉のようなものがわたしに向かって発せられているようで、このような小さな自然でもかけがえのないものであり、感動を与えてくれるものなのだ、ということを感じたのである。

まだ、玉川上水の源流まで遡っていったことはない。時間ができたら自転車ででも、ゆっくりと源流まで散策してみたいものである。
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by kurarc | 2016-07-31 23:40 | 三鷹-Mitaka

「近く」と「遠く」を学ぶ

3年ほど前に故郷に戻ってきて、いつの間にか郷土史のようなことに興味を持つようになっていた。それは、身近にどのような建築物があるのかを調べる過程からはじまったが、その後、地景に興味を持ち始め、今では、多摩川の考古学、古代史に興味をもっている。

地域を学ぶという方法は、実は小学生の頃の学習方法である。身近にある遺跡やら工場を訪ねたり、移動教室と称して、出かけたりという学び方である。それが、中学、高校へと進むにつれて、身近なものよりも、もっと「遠く」のことを学びはじめることになる。いつの間にか、地域のことは置き去りにされ、気がつくと大学生になっているのだ。

現在、わたしが始めた学び方は、もう一度小学生の学び方に戻ったといってよい。そして、すでに大人になったがゆえに、身近なことと、より遠くのことを結びつけることもできるようになった。つまり極小の世界と極大の世界を自由に行き来して、同時に学んでいくという方法、ということになろうか。

たとえば、古代といっても、いきなり奈良時代の平城京に目を向けるのではなく。国分寺や多摩川といった身近にある古代から考えてみるということ。そして、その後、遠くの古代史に目を向け、そして、また身近な世界に立ち戻るという反復にこそ、有意義な学びが生まれるような気がしてならない。今までの学び方には、この反復運動が欠如していたのである。故郷に返ってきた意義がやっと芽生え始めた。

*故郷に戻ることが大切だ、ということではない。どのような場所に住んでいても、同じように「近く」と「遠く」を見つめ直すことが必要だと思われる。こういうわたしも、このまま、この場所にずっと住んでいるのかはわからない。
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by kurarc | 2016-05-04 20:45 | 三鷹-Mitaka

地元を知ることの楽しみと驚き

昨年から活動し始めた「たてもの・まちなみ・景観を考える市民の会」の第3回目の会議が今日行われた。地元に残る建築的遺産を発掘する試みを主に行っているが、その中で、以外にも様々な広がりのある話題が出て来ることに驚くのである。今日は、戦前の同潤会が1920年代後半から木造分譲住宅を東京女子大近くに建設したことを知る。そして、多くが、まだその原形を感じられる程度に残っているというのである。(わたしが某大学で助手をしているたとき、生徒に青山同潤会アパートの跡地を想定して、設計課題を与えたが、その時、生徒に配布したマルク・プルディエ著『同潤会アパート原景 日本建築史における役割』の第3章、pp.198から、この木造分譲住宅の記述がある。)

3月30日に行ったICUのキャンパスの見学会からは、建築だけでなく、旧中島飛行機三鷹工場の歴史が浮かび上がり、その時代との見え隠れが問題となるなど、今まで見えなかった地元の歴史が建築を考える中で浮かび上がり、逆照射されることになった。(こうしたことが、日常の中のシュルレアリスム的体験である。)

武蔵野、三鷹地区は多くの軍需工場があったこと、そして、そこに働く多くの労働者の住まいも必要になることから、軍需産業に従事する労働者の住宅もあった。そうしたことは、今まで考えたこともなかったが、それは吉祥寺のようなファションを中心にした都市が活性化するなかで、地元民の意識から遠ざかっていったということなのだと思う。

ICUの創立に関するアメリカ側とのやり取りも興味深い。それも、旧中島飛行機時代の建築を継続して使い続けながら、ICUという大学は発足されたのである。その痕跡がいまだに経験できることもある意味で奇跡的なことなのかもしれない。

地元の中に、自分の足下に、数多くの重要な問題群が発見できることを、今更ながら驚いている。
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by kurarc | 2016-04-24 22:15 | 三鷹-Mitaka


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