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絵本『動物たちは、建築家!』

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この絵本は、地元図書館で偶然目に入った。絵本『動物たちは、建築家!』の文を担当したのはダニエル・ナサル氏でチリ生まれ、バルセロナで活躍する建築家、絵はフリオ・アントニオ・ブラスコ氏でスペイン、バルセロナ生まれのイラストレータである。

14の動物たちの巣のつくりかた、材料やなぜそのようなカタチになったのかを活き活きとした絵と文で説明してくれている。

河川にダムを造ってしまうビーバーの巣の断面が描かれているが、二つの出入り口の勾配を変化させているのがわかる。一つの出入り口は枝を運びやすくなだらかな勾配に、もう一つは水の中にすばやく潜れるよう急勾配につくられる。

ミツロウでつくられたミツバチの巣は、正六角形の小部屋が並ぶ。これは最小のミツロウで最大の空間を確保するためだという。さらに、花の咲かない冬に備えて花粉や蜜を蓄える貯蔵庫としての巣なのである。

チンパンジーは毎日移動する生活を営むため、毎日樹上に枝や葉でベッドをつくるのだという。1頭のチンパンジーは生涯に19000ものベッドをつくると言われている。

この絵本をみていると、人間以外の動物たちは、人間よりも優れた建築家であることがよくわかる。動物たちはわたしの先生であった。文を書いたナサル氏もきっとそのことに気がついたのだろう。


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by kurarc | 2018-05-25 21:56 | books

細川博昭著『鳥を識る なぜ鳥は人間と似ているのか』

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都立多摩図書館でこの書物を見かけ、早速地元の図書館からとり寄せた。

まずはこの書物のタイトルに惹かれた。鳥と人間が似ている?普通だれもそのようなことは考えもしない。鳥には翼があるが人間にはないのだから。しかし、そうした相違があるにしても、この書物では、まず最初に人間の特性としてよく話題にのぼるいくつかの事柄、たとえば、道具を使う、二足歩行、文法に基づいた言語をもつ、頭脳をもつ、豊かな感情をもつ・・・といった要素すべてを鳥ももっていることを指摘する。

鳥に対する研究が近年格段に進化したのは、世界各地で発掘される恐竜の化石によることも大きいという。最近の発掘で恐竜には羽毛の痕跡がみつかり、恐竜と鳥との関連が明らかになってきたというのである。つまり、恐竜を識るには鳥を識ることが必要になってきたのだという。

こうした発見は図鑑にも現れていて、2010年代に発刊された恐竜には羽毛が描かれることが常識となっているという。現在、鳥の研究は、こうした恐竜の新たな発見との関連で大きく深化し、今、新たな鳥への認識が求められている、といえる。最近、野鳥の観察をはじめるようになったが、それは単に鳥の声やその色彩の美しさ、愛らしさからであったが、どうも鳥への関心は、動物学の中でかなり重要な位置を占めていることが理解できた。

この書物をまだすべて読んだわけではいないが、目から鱗がおちる、とはまさにこの書物の内容のようなことである。地球外生物への関心も悪くはないが、身近に暮らす鳥たちに目を向けることの大切さを改めて教えてもらった。今に、鳥たちとコミュニケーションが可能となることも夢ではない、と思わせる内容の書物である。

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by kurarc | 2018-05-20 21:22 | books

増田義郎著『コロンブス』 コロンブスの実像

増田義郎著『コロンブス』を一気に読了。1979年の著書であるが、これほど簡潔にコロンブスの本質をつかんだ書物は今まで読んだことはない。スペインやイベロ・アメリカ文化の碩学、増田先生の力量はやはり並大抵のものではない。

この著書で興味深いのは、たとえば、コロンブスの直筆で残されている言語がジェノヴァ生まれであるにもかかわらずスペイン語(それもポルトガル語に影響された)であることの謎をコロンブスの同時代の文化状況から読み解いていること。また、当時の地中海世界の中でコロンブスの活動を相対化し、ルネッサンス人としてのコロンブス像を的確にとらえていること。またコロンブスの航海の大きな動機が彼の終末観によるものであることetc.、コロンブスは特殊な人間ではなく、当時の世界像、価値観から当然現れた人物であることを見事に描き出していることである。

コロンブスはもともと、スペインから逃れたユダヤの家系の人間であることは常識となっているが、彼がスペインで活躍できたのはコンベルソ(ユダヤ教からキリスト教への改宗者)らの尽力によることが大きいということも、この著書で強調されている。

この著書を読んだものは、今までイメージとして描いていた月並みなコロンブス像を根本的に変えられるはずである。さらに、市民講座の内容をまとめたものであるだけに、日本語の文章も要点を簡潔に述べられており、大変読みやすい。

日本人によって著された最も明快なコロンブス像は、この著書が嚆矢であることは間違いないのと思われる。コロンブスに興味のあるもの必読の著書であろう。

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by kurarc | 2018-04-08 18:10 | books

座って学ぶ椅子学講座2 

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昨年、武蔵野美術大学で行われた椅子学講座の内容をまとめた「座って学ぶ椅子学講座2」が本日届いた。この講座の受講生には無料で郵送いただいたようである。

この講座は、日本人のデザイナーによる椅子に焦点をあてた講座であった。日本におけるモダンデザインの椅子の解説であり、カタログも兼ねるような編集であるが、それだけではない。椅子の保存修復は今後どうあるべきかについても特別編として付加されている。

日本の椅子を知りたいものにとって最新の文献であり、椅子のデザインに興味のあるものには必携の文献であろう。

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by kurarc | 2018-03-31 17:09 | books

再び「風景学」へ

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地元の建築家を中心として、「たてもの・まちなみ・景観を考える市民の会」の活動をはじめて3年が過ぎようとしている。先日、武蔵境の北口から玉川上水へ、そして再び、武蔵境駅まで戻ってくるおよそ3時間あまりの行程を歩いた。特別、優れた建築があるわけでもない街を歩くのだが、かといって、何もないかというとそうでもない。玉川上水には、品川上水と呼ばれた取水口の痕跡があり、三鷹の牟礼一体はその水で、田畑が耕され、作物が育てられた。また、かつて武蔵境から中島飛行機株式会社へと伸びていた鉄道跡は公園として整備されていた。軍需産業都市としての痕跡も、うっすらとその面影を残していた。

このような何気ない都市の様相を捉える方法はないか、と考えたとき、1980年代頃に「風景学」が台頭して、建築学の分野でも議論になったが、その方法をもう一度、実践的に活用できないか、ということを思いついた。わたしの手元には、中村良夫氏の数冊の本が眠ったままになっていた。2008年にはラジオ講座でも「風景からの町づくり」と題された中村氏の講座があり、そのテキストも手元にあった。

風景をキーワードにした著作は他にも、向井正也氏の『日本建築・風景論』や、内藤昌氏の『日本の町の風景学』、オギュスタン・ベルク氏の著作他がある。こうした著作が手元にありながら、その活用にはいたっていなかった。東京「郊外」の特性のないと思われる街も、よくよく観察すると「風景」、あるいは「地景」と呼んでよいものが捉えられるのではないか。曖昧な風景を記述する言語、方法、手法がほしいのである。

このあたりが今年の街歩きでの課題となる気がしてきた。まずは、中村氏の著作あたりを熟読することからか・・・

*このブログでも「地景」についてはいくつか書いてきた。その中心は「国分寺崖線」周辺の「地景」である。


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by kurarc | 2018-01-25 21:37 | books

梶井基次郎との再会

前回のブログで取り上げたドッペルゲンガーという現象を調べていると、神話の中にこの現象が数多く語られていることや、その体験を小説へ表現した作家までいることがわかる。

日本では、芥川龍之介や梶井基次郎が例にあげられている。特に、梶井の『Kの昇天 或はKの溺死』に興味を持ち、読んでみた。と同時に、梶井というと忘れられないのは『檸檬』である。わたしが中学生の頃、教科書に載っていたと思う。その時以来、梶井の小説を読んでいなかった。

梶井の小説を40年ぶりくらいに読んだことになるが、文章に含まれる色彩感覚、音楽的感性、シュルレアリスム、幻視からの発想など、改めて彼がいわゆる日本におけるモダニズム期の文化を吸収し、その鋭利な感性から生み出された小説であることに気がついた。『檸檬』のラストシーンというべき描写を久しぶりに読み、懐かしかった。丸善書店の中に積まれた色彩溢れる書籍の頂上に置かれた「時限爆弾」としての黄色い”檸檬”。それは、シュルレアリスムの感性そのものではないか。

梶井を読みながら、彼は長生きしたのなら、わたしが昨年読んだジュリアン・グラッグのような小説を書くようになったのではないかと思った。幻視と幻想の漂う文体は現在、わたしが最も興味をもつ文体である。梶井は20足らずの短編を残し、逝去したが、一日あればすべて読めるような量である。今年中にすべて読まなければ・・・

*ドッペルゲンガーを調べていて頭に浮かんだのは、わたしの好きな映画『ふたりのヴェロニカ』である。この映画もドッペルゲンガーという現象から読み解くことが可能かもしれない。キェシロフスキはもしかしたら神話や文学(ヨーロッパでは、ドストエフスキー、ハイネ、ポー、オスカー・ワイルド、E.T.A.ホフマンなどの作品)からこの映画を発想したのかもしれない。


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by kurarc | 2018-01-16 20:46 | books

世界文学とドッペルゲンガー

放送大学の『世界文学への招待』の講義(2016年の再放送)は興味深い。昨日は、日本文学翻訳者のマイケル・エメリック氏による「グローバル化する日本文学ー日本語で読めない日本文学」をテーマとした講義であった。

例えば、村上春樹を例に出して、彼の文学の受け止め方が日本以外で異なることを指摘していた。アメリカでは、村上文学は、クノップ社から出版された「象の消滅」により、村上文学が世界文学として認識されることになったため、それ以前の彼のポップな言説による文学は認識されていないということ。また、村上文学の翻訳における問題として、英訳されたものがドイツ語訳される(重訳)ことにより、村上文学がまったく異なるものに変質していくことを指摘。日本語は、世界では周辺の言語として位置付けられるため、日本語からすべて他言語に翻訳される訳ではないこと、それによって重訳が必然的になり、作者は、作品のドッペルゲンガー(分身、複体)を意識せざるを得ない状況になるという。

さらに、多和田葉子のように、日本語とドイツ語という二つの言語で文学を創作する作家の出現や、翻訳された自らの作品を、自ら日本語に翻訳し直すというような複雑な状況が生じており、現在の世界文学が錯綜した状況に遭遇していることをマイケル氏は述べていた。

文学を市場から、あるいは欧米の文学から俯瞰した場合、日本の芥川賞が中編小説を扱っているのに対し、欧米の文学は長編小説に重点をおき、「売れる」小説とみなしているため、日本と欧米との小説の認識のズレが生じており、中編小説というだけで、日本の作品は欧米の出版社に毛嫌いされてしまう。その点、村上春樹は、長編小説を意識的に発表していることから、世界文学として欧米でも評価されやすいという。

作家たちは、世界(日本の中でも同様であろうが)を舞台とする場合、自らの作品が自分の意図する方向で理解されるとは限らない、という認識が必要であること。自分とはまったく無関係な場所で複製される作品群から逆照射される「わたし」と「もう一人のわたし」を常に相対化させながら、新たな創作を続けていくことこそ世界文学という舞台で小説をつくる作家の仕事と言えそうである。

わたしの好きなフェルナンド・ペソアの言葉、「生きるとは、他者になること」、が世界を舞台にした小説家の宿命ということか? 

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by kurarc | 2018-01-14 10:19 | books

タブッキ 『レクイエム』から『イザベルに ある曼荼羅』へ

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タブッキ最後のミステリー小説『イザベルに ある曼荼羅』を読み始めた。『レクイエム』の続編といえる作品。『レクイエム』の中で登場した「イザベル」は何も会話を交わさず、小説から消えていったが、果たしてその「イザベル」の行き先は?

いつもながら、自然とタブッキの世界に引き込まれていく。わたしはタブッキの小説を読むためにリスボンに住むことになったような気がしてくるから不思議だ。

『レクイエム』も映画となったから、『イザベルに ある曼荼羅』も映画化されることを望みたい。これから読了するのが楽しみである。読み終えてから、またこの小説についてふれてみたい。

*本の表紙の写真は、ヤコブ・トゥッゲナー(1904-1988、スイス人)という写真家の写真。20世紀のテクノロジーの場面を撮影した写真家として有名なようだ。日本ではこの写真家についてほとんど紹介されていない。この小説の表紙になぜこの写真家が選ばれたのかは今のところ不明である。

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by kurarc | 2018-01-07 19:12 | books

アントニオ・タブッキ作 『レクイエム』

今年の初読書は、タブッキの『レクイエム』であった。リスボン(およびその周辺)を舞台にした小説である。「わたし」がたどるリスボンの道行きの小説であり、その中で23人の生者、死者とも判明しない人々と会話をする。その最後に会うのは、あのフェルナンド・ペソアという20世紀、ポルトガルの詩人である(と思われる。ペソアということを断定しているわけではない。)。

「わたし」は様々な職種の人々と巡り合っていくが、その中で、ある人とは日常的な、またある人とは哲学的な会話をする。特に興味深いのは、リスボン国立美術館で交わされるボスの絵画「聖アントニウスの誘惑」(下写真)についてである。この絵画を模写する画家との会話であるが、この画家は、この絵をすでに10年間拡大し、模写し続けている。この絵の中に登場する胴体のない生き物は「グリロス」と呼ばれること、この絵画は昔、霊的治療の用途を持っていたことなどが交わされる。

この小説は、最終的にはタブッキ(ペソアの研究者)のペソアに対するレクイエムであり、ペソアと別れを告げるために書かれた小説のように感じられた。あるいは、20世紀が終わろうとする時代に書かれた20世紀に対するレクイエムとも読める。

リスボンの街路、およびその周辺の都市を知るものにとって、この小説の道行きは興味深い。わたしはある程度、この小説の中に登場する街路がどのような街路であり、地景であるか想像できるため、なおさらこの小説から訴えかけてくるものの魅力を強く感じる。

最後にこの「わたし」の道行きは、現実であるのか、あるいは夢であるのか?それはこの小説を読んで確認してもらうしかない。死者たちとの会話は、わたしにピランデルロの小説、上田秋成の『雨月物語』や溝口健二の映画、最近の黒沢清の映画を想起させた。それは瀕死状態の国家(ポルトガルほか南欧諸国)のメタファーでもあるのだろう。

昨年、久しぶりに小説を読むことの楽しみを覚えたが、今年は、タブッキのような相性のよい小説家の作品を多読したいと思っている。

*この小説の中で、名前が出ているが、会話を交わさない「イザベル」がいる。このイザベルはどうしたのか?タブッキはそのイザベルについて、別の小説(『イザベルに ある曼荼羅』)に表現しているようだ。
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by kurarc | 2018-01-03 14:28 | books

明石書店より出版図書目録が届く

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明石書店より出版図書目録が届いた。エリア・スタディーズというシリーズの中で『ポルトガルを知るための55章』という書物に参加させていただいたこともあり、毎年のように送付いただいている。

目録を見ると、このエリア・スタディーズというシリーズもすでに159冊が出版されている。『ポルトガルを知るための50章』(当初は50章であった)はその12番目。シリーズの中ではかなり早く出版された。ほとんどが国単位で一冊というスタイルであるから、100カ国以上取り上がられたことになると思う。中には、都市や国の中の地域、また、『中国のムスリムを知るための60章』のようにテーマ別のものもある。

このシリーズだけでも大変な労力が必要だと思われるが、それ以外に、硬派な出版社として知られる明石書店の書物は重厚な内容のものが多いから、編集者は出版までさぞかし苦労されているに違いない。

本を出版するということは、必ず編集者と著者との付き合いから始まる。本とは人と人との出会いから始まるのである。建築もまったく同じ。何かを生み出すということは、人と人との様々な出会い、関係から生まれる。何かを表現したいという強い気持ちをもったものがこうした出版社のお世話になり、何かを訴えるために骨身を削って文章を書くことになる。

わたしも高々原稿用紙10枚程度の原稿を3テーマ書くのに、2ヶ月間、仕事をそっちのけでやっと書き終えた。文章とは不思議なもので、現在、このような原稿を書け、と言われても書く自信はない。その当時の初心の気持ちに戻ることはできないものなのだ。つまり、文章とは生ものであり、その生ものを閉じ込めたものが本という訳である。

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by kurarc | 2017-12-18 20:32 | books

Archiscape


by S.K.
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