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カテゴリ:books( 221 )

『すごいジャズには理由がある 音楽学者とジャズピアニストの対話』岡田暁生、フィリップ・ストレンジ著

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『すごいジャズには理由がある 音楽学者とジャズピアニストの対話』(岡田暁生、フィリップ・ストレンジ著、アルテスパブリッシング)を一気に読む。仕事が忙しいときほど、皮肉にも本を読みたくなる。最近、再びジャズの学習をはじめたこともあり、この書物はちょうど現在の欲求を満たしてくれる内容であったため、読み進むうちに止まらなくなってしまった。

ジャズに関する本は膨大にあるが、ジャズ評論家がウンチクを語るものか、ミュージシャンによる理論的なものに偏る傾向がある。本書はそのどちらでもなく、理論を語りながら、CDの紹介もあり、歴史もあるといったバランスのよい著書であった。

紹介されるミュージシャンは、アート・テイタムからはじまり、チャーリー・パーカー、マイルズ・デイヴィス、オーネット・コールマン、ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンスという章立てになっていて、その中で、それらのミュージシャンに関係するミュージシャン、理論などが並行して語られるという仕掛けである。

高校生の頃から大学の頃に聴き、それ以後聴かなくなってしまったオーネット・コールマンのジャズは、本書を読んで、再び聴きたくなったし、それぞれ個性的なジャズマンを厳選して紹介してくれているので、再びジャズに挑戦しようとするものにとってはポイントが絞りやすく、読みやすかった。

結論から言うと、ジャズは知的な音楽である、ということ。ただし、紹介されたミュージシャンたちは麻薬に溺れた者たちが多かったことは気になるが、ジャズ的な感性は魅力的であることを再認識できたことは大きかった。現代芸術に親しむようにジャズを楽しめばよいということ、つまり、ジャズは現代人の教養として不可欠であることが本書を読んで確信したことである。

「ジャズとは1分の曲を1分で作曲することである。」 ー ビル・エヴァンス

by kurarc | 2019-05-10 23:36 | books

『時がつくる建築 リノベーションの西洋建築史』(加藤耕一著)

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建築世界では、リノベーションという行為が常識化してきたが、本書は西洋建築史の中にその過程を整理したものである。興味深い内容であったこともあり、一気に読んでしまう。近年、建築と時間を主題とした著書の出版が続いているが、この著書はその中でも内容が明解であり、大変読みやすい。

主にルネサンス以降の建築を、再利用的建築観、再開発的建築観、文化財的建築観という3つの主題ごとに建築史を切断し、それぞれ、その建築観を考えるときに中心となる建築や建築家を登場させて論じている。

たとえば、アンドレ・パッラーディオは再開発的建築観の中で登場する。パッラーディオによるヴィチェンツァのバシリカは、既存再利用の仕事ではあったが、パッラーディオの『建築四書』という著作の中で、そうした既存に関わる仕事であることが隠蔽され、「理念的」、「理想的」な計画として論じられていることを指摘し、「時間殺し」を行い、施工や構築の問題を締め出したことに言及している。

また、本書5章で、わたしがポルトガル滞在中に訪れたトリノ郊外のリーヴォリ城(下写真)の修復工事についても言及されていたことには驚いた。わたしはこの修復工事に感激し、この修復を指揮した建築家アンドレア・ブルーノの著作を購入していた。この仕事は、非常に優れた仕事であると思われたが、日本に帰ってから、この仕事について論じられているような書物や文章に出会っていなかった。この著書の5章注のなかで、フランスの建築家、建築史家であるドミニク・ルイヤールは、2013年に発表された論文の中で、1978年に起こった4つの重要な出来事のうちの一つに、このブルーノの仕事を含めていることを知り、やっとこの仕事の意義について確信できたのである。

建築の保存、修復、再利用など、建築と時間、建築と記憶などについて考えるとき、本書はそのパースペクティブを明確に示してくれているという点で、非常に優れた著書である。

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by kurarc | 2019-05-06 22:16 | books

完本 檀流クッキング

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檀一雄の小説を読んだこともあり、檀の著作が気になった。その中で、『完本 檀流クッキング』という著作が目についた。文庫本の『檀流クッキング』は我が家の台所に常備しているが、「完本・・・」とはどのような内容なのか?

これは、「檀流クッキング」を檀一雄の長男夫妻である、檀太郎さんと晴子さんが料理をすべて再現し、後半にはその料理写真が掲載されたもので、さらに、檀家の定番であったビーツサラダのレシピを加えたものであった。

わたしが『檀流クッキング』に興味をもったのは、もちろん、レシピの多彩さ、奥深さもあるが、ポルトガルの干ダラをつかったコロッケ、パスティシュ・デ・バカリャウのレシピが掲載されていたからであった。檀一雄は「干ダラのコロッケ」として紹介している。

干ダラの料理などというと、おいしい魚を食べなれている日本人の中にはバカにする人もたまに見かける。あんなものは魚ではない、などと言って。しかし、檀の本にはこの干ダラ(棒タラ)が、かつて、日本の農家ではお中元の贈り物の定番であったことが書かれている。日本の食文化の中になじんでいた食材なのである。(しかし、檀の本のなかでも、特に棒ダラはすでに手に入りづらい食材として記述されている。干ダラ(棒タラ)は戦前、山深い農家などの貴重なタンパク源であったに違いない)

後半に掲載された「干ダラのコロッケ」の写真を見てみたが、ポルトガルで食べていたものとはかたちが異なるが、味は檀がポルトガルで教えられたものであるから、おいしいはずである。

わたしがもし料理屋をやるとしたら、メニューの中に、この檀一雄のメニューの何品かがかならず食べられるようにすることだろう。まずは、ビーツサラダをつくってみたくなった。

by kurarc | 2019-04-26 20:44 | books

『花筐』 映画と小説

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大林宣彦監督の映画を続けて観ている。映画『花筐(はながたみ)』(小説では「はなかたみ」と読ませている)は、大林監督が原作者の檀一雄に直接会い、檀に映画化の快諾を受けていたものだという。映画化には旬というものがあるのだそうだ。大林監督は快諾はいただいていたものの、この戦争をテーマとした小説を映画化するには時代があまりにも平和ぼけしはじめた時期であったこともあり、ずっと映画化をためらっていたのだという。そして、この映画化に踏み切ったのは、例の3.11という悲劇があったためであった。

わたしは映画を観てから小説を読んだが、映画は大林監督の脚色もあり、それはそれで興味深く、また、小説は、何か戦争がこれからはじまるという時代の十代の若者たちを取り上げたものだが、その艶めかしさは、単に戦争をテーマとした小説というより、むしろ、戦争を副題とした青春期の男女の愛と友情が主題となっており、さらに、小説内に描かれた色彩や匂い、光や風、海への景観など、様々な要素が生々しく想像できるような不思議なテイストをもつ小説であり、今までに経験したことのない小説という印象であった。その生々しさは、ガルシア・マルケスのような中南米の小説とも異なる。(映画では、檀のアドバイスもあり、唐津を舞台に選定している)

日本人の小説を読んだのは久しぶりのことだが、檀一雄がこうした小説を書いていたとは知らなかった。三島由紀夫はこの小説を読んで、作家になりたいと思ったと言われているそうだが、この小説は、ポルトガル、スペイン、オランダなど異国と交流の深い九州の文化的コンテクストなしには生み出されなかったような小説ではないかと感じられた。


by kurarc | 2019-04-25 00:21 | books

空を飛ぶ蜘蛛 池澤夏樹

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池澤夏樹さんの小説(あるいは手紙小説、詩のようでもある)『きみが住む星』に空を飛ぶ蜘蛛の話が書かれていた。

この小説は、旅だった男がその恋人(あるいは妻)にあてた手紙という形式をとっていて、旅先での出来事を短い手紙として恋人(妻)に送るというもの。この手紙はラブレターのようでもあり、こうした手紙を受け取った女性はきっと喜んでくれるはずである。

全部で23通の手紙のなかで、「雪迎え」という手紙に蜘蛛の話が登場する。「雪迎え」とは、晩秋に小蜘蛛が糸をひいて飛んでいく様を言う言葉だそうで、こうした蜘蛛の飛行の後に、雪が降ることからこのように名付けられたという。

蜘蛛の飛行、すなわちバルーニングと言われる現象のため、蜘蛛は思いがけない場所に現れる。上空2000mを超えるような空の中、あるは離れ小島など・・・だからこうした場所で新種と思われる蜘蛛を発見しても、それは遠くの場所から運ばれてきた蜘蛛かもしれない、という疑いをもたなければならない。

空を飛んでいく蜘蛛。このシュルレアリズムのような光景が実は現実の世界のことなのである。池澤さんの小説はこうした自然現象がよく取り上げられるが、なにかラテンアメリカの小説を科学というフィルターで透明にしたようなテイストを感じる。

この手紙小説の最後はすべて「バイバイ」で終わる。わたしはこの「バイバイ」が必要であったのかどうか疑問だが、愛する人への照れ隠しのような感じがしないでもない。

この小説にそえられたエルンスト・ハースの写真は、小説をイメージで補足してくれて、とてもよい写真ばかりである。

by kurarc | 2019-04-04 19:00 | books

デカルト 「思うわ、ゆえに、あるわ」

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柄谷行人著『世界史の実験』(岩波新書)に興味深い論考が挿入されていた。柄谷流のユーモアともとれるが、大真面目に彼は発言しているのだと思う。

それは、よく知られた「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの『方法序説』の言葉についてである。柄谷によれば、デカルトは『方法序説』の中で、この言葉のみラテン語で書き、その他はフランス語で書かれているのだという。それはなぜなのか?

柄谷は、フランス語で書いたとすると、主語を省略することができず、

Je pense, donc je suis.

となり、主観の存在が強調されてしまう。しかし、ここでデカルトが言いたかったのは、一人称で指示されるようなものではなく、カントが「超越論的主観」と呼んだようなもの、一人称で指示される自己とは異なるものだというのである。

さらに、日本語もそもそも主語と言うべきものは希薄で、明治以後、英文法にもとづき考案されたものであり、西洋の小説の翻訳を通じて変化したものだという。

このような考察の後、デカルトの

Cogito ergo sum.

を関西弁で、

思うわ、ゆえに、あるわ。

に訳し直したいというのである。この場合の・・・わ、の「わ」は柳田国男も指摘していたというが、人称代名詞にあたるものだという。「先に行ってるわ」の「わ」である。わたしもたまにこうした言葉を使うが、これも日本語本来の一人称代名詞の表現であるということらしい。

『世界史の実験』の中で一息つける箇所であった。


by kurarc | 2019-03-20 23:24 | books

コルタサル『山椒魚』と映画『白い町で』

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コルタサルの小説に『山椒魚』という短編がある。パリの水族館で偶然に出会う山椒魚に魅せられてしまう男の話である。男は山椒魚を注意深く眺めている内に、そのじっと動くことのない堂々とした様態に、時間と空間を無化しようとする意志を読み取る。人間の姿に近い猿は、実は人間と近しい存在などではなく、むしろ男は山椒魚に近しさを感じとる。

このコルタサルの短編は、アラン・タネールの映画『白い町で』のシナリオに登場する。ブルーノ・ガンツ演じるポールは、彼の乗っていた船の船長が彼のことを山椒魚(アホロートル)と呼んだ、といった台詞があり、スイスで彼の帰りを待つ妻がコルタサルの言葉を調べるのである。

ポールが船(海)と陸で生活するという両生類のような男だということを意味するものでもあるのだろうが、このシナリオは明らかにコルタサルの『山椒魚』を示唆するものだろう。ポールは意志が空白になり、いわば何かに乗り移ってしまったかのような人間としてリスボンに暮らすのである。もはや正常な人間には見えない。

こうした人間の意識をシナリオ化したタネールの力量には驚かざるをえない。まったく意味をなさない詩のような台詞を繰り返しながら進行する映画。ガンツもこうした台詞を演じる日の朝に渡されたらしい。一体わたしは何を演じるのか、俳優たちも理解不能であったのではないだろうか。

この映画を改めて観たが、予想以上の名画であるような気がしてきた。また、音楽を担当したジャン=リュック・バルビエ(スイスのサックス、フルート奏者)の曲もよい。そして、最も感心したのは、リスボンという都市の空間性をよく捉えているということである。

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by kurarc | 2019-03-15 18:27 | books

柄谷行人著『遊動論 柳田国男と山人』

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柄谷行人著の『遊動論 柳田国男と山人』を読み始めた。1980年代後半から1990年代の前半に、わたしは柄谷の著書を集中して読んだことがあった。『マルクス その可能性の中心』や『日本近代文学の起源』などであるが、柄谷はこれらの著作と同時代に柳田国男論を執筆していたが、わたしはまったく気づいていなかった。

『遊動論』は近年の柄谷の「柳田国男論の中心」をまとめたものであり、改めて柄谷の著作に興味を持つきっかけとなった。柳田国男を通して、日本の近現代史をたどる内容でもあり、さらに柳田の伝記的著作にもなっていて、柳田の仕事の意義を改めて発見する手がかりを与えてくれている。

一部の軽薄な建築家は、一時期、「ノマド」などといった言葉を建築ジャーナリズムで発言していたこともあったが、この著作ではそうした「ノマド」という言葉自体を批判的に捉えなおしている。

柳田民俗学は、常民=農民をベースに構築されたと言われるが、それは彼の仕事の一部を取り上げ、そのように理解しているに過ぎないことがこの著作で明らかにされている。「遊動民」についても、定住以前、定住以後を区別し、厳密に論じているあたりは、さすがに柄谷らしい。

柳田国男の再評価、再定義に結びつく画期的な著作であることは間違いなさそうである。

by kurarc | 2019-03-07 21:18 | books

澁澤龍彦著 『鳥と少女』

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建築家青木淳氏の『建築文学傑作選』についていくつか書いてきた。青木氏による解説に焦点を絞っていたが、肝心の青木氏が選定した小説についてもふれておきたい。

10編の小説ほかの中に、澁澤龍彦著の『鳥と少女』が含まれていた。文庫本では『唐草物語』の最初に所収されている。この文庫は買ってあったが、読んではいなかった。澁澤は、建築(建築家)に言及した文章も数多くあり、『胡桃の中の世界』が最も建築的随筆といえるかもしれない。この中の「幾何学とエロス」では、フランス啓蒙主義時代の建築家、ルドゥーの建築について言及している。わたしもルドゥーのショーの理想都市(製塩工場)は34年ほど前に見学した。

澁澤龍彦著の『鳥と少女』を初めて読んだが、映画にでもしたくなるような美しく、悲しい物語である。ここで「鳥」とは「パオロ・ウッチェロ(イタリア語で鳥の意)」というルネッサンス初期の実在の画家をさす。「少女」は「セルヴァッジャ」と名乗る。このセルヴァッジャがウッチェロと暮らすことになるが、ウッチェロは生き物ではなく、生き物の形態に異常な興味を持つ画家であり、さらに、遠近法にとりつかれた画家であった。そうした偏屈な画家との暮らしは楽なものではなかった。食べるものもろくになくなり、とうとうセルヴァッジャは・・・

この物語を読んでいたときに思い浮かんできたのは、フェリーニの映画『道』であった。ザンパノという大道芸人と彼に付き添うジェルソミーナの運命。あれほど悲しい映画があるだろうか。わたしの最も好きな映画の一つ。そんな映画を思い浮かべた。

澁澤はこの悲しい物語を少しでもやわらげようと、最後に話題を変える。変えると言っても、『鳥と少女』という内容に即したオチを付け加えたのだが、澁澤当人にとっても悲しすぎたのだろう。イタリアらしい物語である。

by kurarc | 2019-01-15 23:23 | books

「仮託」という思想

建築家青木淳氏の『建築文学傑作選』について、少し前にこのブログでふれたが、その解説の中に、もう一つ重要な言葉を発見した。それは、「仮託」という言葉である。この「仮託」という言葉は以前、今関敏子著『旅する女たち 超越と逸脱の王朝文学』という書物の第4章、紀貫之の『土佐日記』を論ずる文章で出会った言葉でもある。紀貫之は、この日記文学で女性に仮託して新しい表現に挑戦した。

そこで、建築ではどうか。青木氏は興味深い建築作法について書いている。「建築は、自分が自分から離れるための行為でもある・・・」と。常々わたしが建築を設計するときに思っていたことを的確に表現してくれていた。それを青木氏は「仮託」という言葉で説いていたのである。

「建築家は、自分がいいと思うものをそのままつくっているわけではなく、自分の感覚を置いておいて、つまり丸腰になって注文主の懐に飛び込んで設計している。・・・つまり、建築家は注文主の感覚に仮託する。自分のための建築ではなく、他の人のために設計しているからである。」

以上のように述べた上で、さらに青木氏は以下のように付け加えている。

「仮託しなければ思い通りの建築ができるので、そのほうがうれしいか、というとそうでもない。なぜかというと、それでは、自分の感覚の枠組みを決してこえることはできないからだ。・・・仮託によって、自分の感覚が組み変わる瞬間、・・・この瞬間のために、建築をやっているといってもいい。・・・」

今まで、わたしが無意識に思っていた考えを明確に表現してくれたような言葉であった。これをわたしは「仮託の思想」と呼ぶことにしたい。それはわたしであり、わたしでもないものをつくること、表現する行為であり、わたしを超えるための思想となるだろう。

*「仮託」という言葉に出会ったのはおよそ10年程前に書いていたブログ「紀貫之の革新性 仮託という思想 旅する女たち」(2009年8月30日のブログ)であった。自分の言葉になるには随分と時間がかかってしまった。ここでも、わたしは「仮託という思想」という言葉を使っていたことをすっかり忘れていた。さらに、ここで、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの「異名」という表現行為についても言及した。


by kurarc | 2019-01-14 12:35 | books