カテゴリ:books(書物・本)( 242 )

21世紀の複製技術

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21世紀になり、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』は大きく書き換えなければならない時代に入った。この週末にアルゴリズミック・アーキテクチュアやソーシャル・ファブリケーションに関する書物を渉猟した。そのどちらにも関わる訳者、著者は、田中浩也氏である。

田中の著書『SFを実現する 3Dプリンタの想像力』(講談現代新書)は、刺激的な書物である。(まだ半分しか読み終えていない)このタイトルにある”SF”とは、サイエンス・フィクションの略ではなく、ソーシャル・ファブリケーションの略である。3Dプリンターが近年、かなり普及してきたが、この技術の根源とパースペクティブについてまとめた著書である。

まず、驚いたのは、3Dプリンターというと、なにか3次元の商品をつくるためのプリンターと短絡的に思ってしまうが、開発者の一人、コーネル大学のホッド・リプソンは、「自らコピーをつくりだすロボット」の探求者であったということである。彼は、ロボットを通じて「生物」の条件について考え、「自己複製・自己増殖するロボットの仕組み」をつくること、生物の根源を考えていた研究者であったということが重要である。

このことだけを知っただけでも、3Dプリンターが単なる道具の枠を超え、人間の根源を照射する技術として位置づけられていることがわかる。興味深いことに、最新の3Dプリンターの中には、その仕様書のなかに、まず初めにやってほしいこととして、プリンターの部品を製造することが書かれているという。つまり、3Dプリンターは、自らの部品をつくり(自己複製)、そのメンテナンスに役立てられること(オープンソース・ハードウェアという考え方)が想定され、つくられているのである。

田中の著書は、新書であるが、その内容の振幅は巨大であり、まったく新たな地平にむかう技術のありようを考察し、推察している。データのデジタル化により、もはや、ものの運搬は必要なくなる。海外にいる相手とデータを交換し、その国にある3Dプリンターで出力することで、商品が生み出されていく。ベンヤミンはこうした状況を今日生きていたならどのように分析しただろうか?

*逆に、3Dプリンターでつくることができないものとはなにか、そちらもおさえておく必要を感じる。

by kurarc | 2020-02-15 21:31 | books(書物・本)

パリのbanlieue(バンリュー)、 パリの「郊外」からパリを理解する


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映画『アメリ』に登場する水道橋は、パリ、アルクイユが舞台となっている。アルクイユといえば、エリック・サティが過ごしたパリ郊外の街である。

今橋映子は、『<パリ写真>の世紀』(『都市と郊外』比較文化論への通路 所収)の中で、パリという都市の理解を深めるためには、パリの郊外banlieue(バンリュー)を注視することの重要性を指摘している。コルビュジェは、『アテネ憲章』のなかで、「・・・郊外とは場末の退廃した子孫・・・」と位置付けているが、1920~1924年にティエールの城壁が解体された同時代にこの城壁の外部であるbanlieue(バンリュー)すなわち「郊外」を都市とはまったく無関係な場所として認識していた。あのベンヤミンでさえ、こうした郊外を意識することはなかったと今橋は指摘している。

それに反して、写真家であるロベール・ドアノーは、詩人のサンドラールとの共作、『パリ郊外』を1949年に出版する。すでに、アジェによっても『ゾーンの人々』や『パリの城壁』と題されたアルバムがつくられ、パリ郊外は撮影されていたが、ドアノーは、アジェの写真の意義を理解しながら、彼の意志を継ぐような仕事をしたのである。

パリという都市の神話は、19世紀中期、オスマンのパリ大改造により成立したものだが、その一方、中心から周辺へとはじき出されたのは、ロマ(ジプシー)、貧民、屑屋、犯罪者たちであり、無法地帯となっていたのがbanlieue(バンリュー)であった。ティエールの城壁空堀から200メートル以内の空地は特に「Zone」(ゾーン)と呼ばれ、建設が禁止された区域であった。こうした土地に「はじき出された人々」がバラックを建て、集まったのである。ドアノーはこうした地域で幼年時代を過ごしたこともあり、彼にとって、パリの華やかな建設と対照的なパリ郊外の有り様を無視することはできなかったに違いない。

ドアノーはあの有名な写真「市庁舎前のキス」(1950)を撮影した写真家である。わたしは彼がどうしてこの写真を撮影したか知らないが、その前年に出版された『パリ郊外』を知ると、この写真がアイロニカルに見えてくる。

「郊外」という概念がここ30年近く、建築学、都市論の中でさかんに議論されてきた。すでに古びた言い方のように聞こえるが、現在、わたしが東京の「郊外」に過ごしていることもあり、こうした「非ー場所」としての都市をもう少しクリアに理解するためにも、再度、今橋氏のような論考に目を通すことの必要性を感じている。(以上、今橋氏の論考より)


by kurarc | 2020-02-02 00:00 | books(書物・本)

ポール・オースター作 『幽霊たち』

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ポール・オースターを知ったのはおよそ20年ほど前である。わたしがリスボンに住んでいたとき、街の書店に入るとオースターの書籍が並んでいた。売っているのはポルトガル語版だから買ったりはしなかったが、流行りの作家なのだろうと思った。

小説は基本的に好んで読む方ではないが、3年ほど前、ガルシア・マルケスやジュリアン・グラックなどの小説を読み始めて、また興味が湧いてきた。年末の大晦日、ポール・オースター作『幽霊たち』を一気に読んで、年を越した。

どこかの推薦図書として掲載されていたように思ったが、どこで読んだのか思い出せない。その記憶があり、たまたま本屋で視界に入ってきたので、買い求めた。オースターのニューヨーク3部作の1つ。今までに読んだことのないような小説であった。

この小説が興味深いのは、そのストーリーの速度感である。初めはゆっくりと話が進み、小説の内容も素人が書いているのでは、といった稚拙さが感じられるが、終わりにはその速度感が10倍くらいに感じられ、いつの間にか迷宮に入り込み、オースターの手腕を思い知らされる。そして、煙に巻かれたように終わりを迎える。1980年代に書かれた小説のようだが、ここには1980年代に書かれるべくして書かれたと思わせる小説におけるポスト・モダンとも言える世界が表現されているように感じられた。

まずは3部作の残り2つ、『ガラスの街』と『鍵のかかった部屋』を読んでオースターの世界を楽しみたい。

*小林康夫著、『若い人のための10冊の本』(ちくまプリマー新書)の中の1冊に本書が取り上げられている。

by kurarc | 2020-01-01 21:14 | books(書物・本)

世界都市史事典

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布野修司先生より、年末に『世界都市史事典』をいただいた。この中のポルトガルのポルトの都市の項目に掲載する写真3枚を提供したことによる。

この事典、定価は20,000円(税抜)である。布野先生には、研究室に所属するときから、飲み会だの幾度か奢っていただいている。わたしが修士論文で日本建築学会優秀修士論文賞をいただいたときにも、仙台でかなり高価な宴会場を用意してしまったが、その宴会代も研究室持ちであった。この時は、先生も博士論文で学会賞を受賞されたということもあったが、随分と高い支払いをしていただいた。

いただいた『世界都市史事典』、本の厚さは5センチほどある。一気に読むには膨大な量があり、無理だが、今後、都市について調べたいときに活用させていだこうと思う。

この事典を眺めていると、このお正月は、元日から勉強が足りないぞ、と先生からお叱りを受けているような気がしている。

by kurarc | 2020-01-01 18:20 | books(書物・本)

「それ」との付き合い方

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河合隼雄先生の『こころの読書教室』を一気に読む。この本は、全体が4章あり、それぞれの章に読んでほしい本5冊ともっと読んでみたい人のために、としてもう5冊の書物が紹介されている。

河合先生の文章は平易でありながら、深い内容を理解させてくれる。たとえば、フロイトが定義したドイツ語 "Es" は「それ」といった意味だが、そのようにそのまま理解すればよいと教えてくれる。「自我はエスの侵入を受けて」というような言い方ではなく、「わたしは”それ”にやられました」といった程度にと。

「それ」とは「無意識」のことだが、我々は、自我とは別にもう一つの自分「無意識」があることを薄々感じ取っている。そのことをフロイトは単に「それ」と呼んでおこうとしたのであるが、頭の良い翻訳者は、「それ」を大げさに訳してしまっていると河合先生は注意している。

我々は、自我と「それ」との境界に扉があって、普通はコントロールしている。しかし、ある時、その扉を開きすぎると今まで思ったことのないような無意識の中のもう一人の自分が現れ、驚くことになる。二重身や二重人格はそうした現象の現れの一つである。そうした現象は、逆に世の中が豊かになると増えるという。戦争になると自殺者が減るらしく、人は食うや食わずの状態では「それ」はあまり表に現れてこない。

一方、「それ」はネガティブなことばかりではない。夢での体験はその一つである。こうしたことを知るには、フィリパ・ピアスの童話『トムは真夜中の庭で』を読むとよい、といった読書案内にもなっているのが本書『こころの読書教室』である。

河合さんの書物で童話の重要性を教えられた。『ジョコンダ夫人の肖像』(E.L.カニグスバーグ著)のような名作を知ったのも河合さんの書物からであった。今後、読書する書物の中に童話を含めることを忘れないようにしたい。新年は少なくとも20〜30冊の童話を読むことが目標である。その中で河合さんの専門とするユングの心理学が学べるのだから。

by kurarc | 2019-12-29 23:28 | books(書物・本)

隠れキリシタンとマラーノ(マラーノス)

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先日、青山真治監督の映画『こおろぎ』についてふれた。この中で、キリシタンの弾圧について冒頭で語られるくだりがあり、思い出したように調べたくなった。河合隼雄先生が『物語と人間の科学』という本(講演集)で、「隠れキリシタン神話の変容過程」について書かれていることを知り、早速読んでみた。

河合先生は、わたしの大学時代にお世話になった多木浩二先生と「都市の会」というものをつくっていて、一緒に活躍されていたということもあり、ずっと気になっていた。ユング派の心理学者であるが、わたしは今年、『子どもの宇宙』という名著に出会って、河合先生の著作に特に興味を持つようになった。

「隠れキリシタン神話の変容過程」では、日本にキリスト教が普及するにつれて、どのようにそれが神話化され、聖書の物語が変容していったのかをみることで、日本特有のキリシタン文化というものをつかもうとした小論である。主に、『天地始之事』の話を分析しながら、その変容過程を時にはユーモアを交えて述べられている。

例えば、日本では当初「神」を「大日」という言い方に翻訳しようとした。「神」では日本古来の神と混同されることもあったからである。しかし、「大日」は女性性器の隠語であったこともあり、すぐに使えなくなり、「でうす」という原語に近い音をそのまま使うようになった、といったエピソードが述べられている。

「隠れキリシタン」で思い出されるのは、スペインから「追放されたユダヤ人」である。20世紀の初め、ポルトガル北部で隠れユダヤ教徒が発見されたのだが、それは、長崎の五島列島で密かに暮らしていた隠れキリシタンとの共通性を想像させる。(隠れ)ユダヤ教徒はスペイン語で「マラーノ(マラーノス)」(蔑称、豚野郎といった意味)と呼ばれ、差別の対象となっていた。こちらは、小岸昭さんの著作に詳しいし、以前にもこのブログでふれた。

ポルトガルへ行く前に小岸さんの著作を読み、その中に出てくるリスボンのユダヤ人街の街路を偶然、リスボンを歩いている時に見つけたのは何かの縁としか言いようのない出来事であったが、青山真治監督の映画で、わたしの設計した住宅の中で演じられる隠れキリシタンを匂わせる物語も何か偶然とは思えない。

本、映画や建築、芸術など様々な出会いには因果関係があるような気がする。それらがすべて、幸福な出会いであるとは限らないが、少なくとも、本や映画、芸術などとの出会いは、わたしを何か別の世界に旅立たせてくれる道具のように思えることが多い。きっと河合先生の著作からまた新たな発見があり、どこか遠い世界へ誘われる旅が待っている、そんな気がしている。わたしは今年、河合先生の著作からインスピレーションを得て、短編小説を書いたのだが、すでに、新しい旅が始まったのかもしれない。

by kurarc | 2019-12-16 21:51 | books(書物・本)

澁澤龍彦と花田清輝

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仕事で本郷に行った帰り、東大赤門前の大山堂書店(古書店)に立ち寄り、澁澤龍彦著『貝殻と頭蓋骨』(平凡社ライブラリー)を購入。

この中に、澁澤の花田清輝に関する文章を見つけた。(澁澤が花田に言及しているのを目次で知って購入したのだが)澁澤はこの文章の中で、文章を一目見ただけで誰だかわかるような作家が少なくなったことを指摘し、石川淳と花田清輝ぐらいしか思い当たらないということを書いている。

それとは別に、澁澤は花田について興味深い指摘を行っている。澁澤は花田文学の重要な要素は、アレゴリーと寓話の精神である、と言っている。花田が、博物誌や童話、ユートピア文学や変形譚、御伽草紙の愛好家で、花田の作品には、その題名に動物の名前がついているものが多いというのである。花田が、中世やルネッサンス文化に関心を寄せるのもこうした背景があるのではないかと指摘している。

わたしも花田のファンの一人であるが、作品タイトルに動物の名前が多いという澁澤の指摘には気づいていなかった。澁澤に花田を理解するヒント、手がかりを与えてもらえた。今後、もう少し花田を理解できるようになるのかもしれない。来年は、新たな気持ちで、また花田の論考に目を通すことにしたい。

*古書店もピンからキリまであるが、赤門前の大山堂書店は、その書物の配列から本棚の整理整頓などが行き届いていて、思わず入りたくなる古書店である。

by kurarc | 2019-12-13 21:15 | books(書物・本)

『はじめてのアメリカ音楽史』 黒人の方へ

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アメリカ、日本とは切っても切れない関係の深い国である。その国に対して、わたしは今まで特別に興味を持つことはなかった。欧米といっても興味の主体はヨーロッパであり、専門の建築にしても、アメリカのミース、カーンやライトといった建築家たちの仕事はいつか見学したいと思っているが、いまだに果たせていない。(ミースはベルリンやバルセロナで、カーンはインドで見学できたが)

そうしたわたしのアメリカ観をすっかり変えてくれたのは、アメリカ音楽である。ジャズに最近深入りしているが、こうした音楽を理解するためには当たり前のことだが、アメリカの文化、特に、黒人たちの文化を知らずには何も語れないことに今さら気づかされた。

ちょうど、アメリカ音楽を学習しながら、アメリカの黒人たちの文化を知ることができる新書『はじめてのアメリカ音楽史』(ジェームズ・M・バーダマン、里中哲彦共著、ちくま新書)に出会った。読みはじめたばかりだが、アメリカの歴史と音楽がパラレルに理解できるようになっている良書である。各章の最後にオススメのCDの紹介もあり、理解を助けてくれる。黒人たちのことを今までなぜ学習しなかったのか、悔やまれる。

来年は、黒人たちの文化を踏まえ、アメリカとそのルーツとなるアフリカ(およびカリブ諸国)へ視野を広げて、学習していきたい。もちろん、彼らの音楽や文化も。

by kurarc | 2019-12-01 20:13 | books(書物・本)

ピランデッロ 『母との対話』

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タヴィアーニ兄弟のオムニバス映画『カオス・シチリア物語』のエピローグ「母との対話」は何度観たことだろう。この映画全体も素晴らしいが、エピローグはこの映画の最後にふさわしいシナリオと映像が用意されている。今年は父の33回忌ということもあったが、死んでいった父や母のことを想うことが度々訪れた。そのせいか、タヴィアーニのこの映画のエピローグを何度も観ることになった。

ピランデッロの原作『カオス・シチリア物語』で、「母との対話」は映画とは異なった内容となっているが、映画の核心の部分は原作を引き継いでいる。わたしは映画の中で付加された前半のシーン、つまりピランデッロが久しぶりに故郷の街に着き、駅で幼なじみが待ち受けているが、ピランデッロはその幼なじみの名前を思い出せない。幼なじみはピランデッロを家まで馬車で送っていくが、それでもピランデッロは彼の名前を忘れたままだったが、彼が馬車で立ち去った瞬間に彼の名前「サロ」を思い出すシーンは秀逸で、大好きなシーンである。

このエピローグの中で、亡霊のように登場するピランデッロの母とピランデッロの対話が描かれるが、その対話の中でもっとも重要な言葉は、生きている人間は、死んでいった人間を想うことはできるが、死んでいったもの(この場合、ピランデッロの母)は、生きている人間を想うことはできない、という言葉であろう。母という存在に想われていたと感じることで、ピランデッロは頑張ることができたが、今は母のように想ってくれる人はいない、ピランデッロはそのことが悲しいと母に話すのである。ピランデッロにとって死とは死者が生者を想うことができないこと、そのことが彼にとっての死という事実であると言っているのである。死者とは想いをもてなくなってしまった人間だということである。(つまり、死者でなくとも、彼に対し想いをもたなくなってしまったのなら、その人は、彼にとって死者と同等であるという解釈も成り立つかもしれない)

そして、原作の最後の母の言葉、「ものごとを、それをもう見なくなった人たちの目でも、見るようにしてごらん・・・」という言葉、これはつまり、「死んでいったものたち(想いをもたなくなってしまったものたち)の目で見てごらん・・・」ということだと初めて気がついた。

by kurarc | 2019-11-21 22:54 | books(書物・本)

ブルージャイアント BLUE GIANT

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久しぶりに漫画を楽しんでいる。石塚真一さんの『BLUE GIANT』である。主人公は、JAZZのプロ・サックスプレーヤー(テナーサックス)を目指して仙台から東京へと移り住む。(3巻目はそこまで)

JAZZ好きにはたまらない漫画であろう。サックスでなく、トランペットであればわたしにはなお興味深かかったが、かなり高度な音楽用語も使用されており、理論的なことを少しわかるような人でないと楽しめないと思われる。

主人公の宮本大は、河原で毎晩のようにサックスを練習している。しかし、楽器を少し知っている人は、外では練習しないのが今では常識となっている。昔は、公園のベンチに座ってサックスやトランペットを練習している人をよく見かけた。最近は騒音の問題から禁止されているから見かけなくなったが、それだけではない。外で金管楽器を使用すると砂などが楽器に入る可能性があり、楽器のためにはよくないのである。

作者の石塚さんはJAZZ好きなのだろうか?相当、勉強してこの漫画を創作したことが伺える。JAZZは西洋音楽へのカウンターカルチャーであったが、そのことが今後描かれるのかどうか?そうしたことまで描かれているのであれば、申し分ないが、単に宮本大のサクセスストーリーだけでは片手落ちだろう。

寝る前のひととき、まずは全10巻を楽しみたい。



by kurarc | 2019-10-25 18:28 | books(書物・本)